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(回答先: 言葉放棄の「先祖返り」 投稿者 でんでん 日時 2004 年 6 月 03 日 10:58:14)
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ケータイを持ったさる
正高信男『ケータイを持ったさる』「人間らしさ」の崩壊、中公新書 2003年
霊長類研究所のこのサル学者によると、現代日本人は年々人間らしさが崩壊し、サル化しているそうだ。
この学者によると、女子高校生の間で流行ったルーズソックスは、それを履くことで、外にでること=靴を履くことを体感せずにすむことに最大の機能があり、家の中で一日いるような感覚を味わるがゆえに流行したそうだ。かかとを踏みつけて履く「べた靴」の流行も同じ理由である。
この学者はそれを「家のなか主義」と名付け、ひきこもりとルーズソックス女子高生は、私的空間に閉じこもっている点で同じだという。
ケータイをもった若者はニホンザルのように仲間たちと「群れて」いて、メッセージの内容というより、(空虚化した)メッセージを仲間内で送受信していること自体が重要であるようなコミュニケーションは、ニホンザルのクーコールによる仲間の交信と酷似しているそうだ。
この学者は人間性が崩壊し、私的領域と公的領域の区別がなくなり、公共性が失われてしまった原因として、日本のマザコン文化、母子密着型の子育てを挙げている。餌づけされた群れの順位の高いメスザルは、その豊かな食料資源を独占できるがゆえにそのコザルは手厚く保護され、コザルは母ザルの傍から離れなくなるのと同様に、現在の子どもは母親にあまりにも手厚く保護されるがゆえに、「子ども中心主義」となり、親になることを拒否し、その人間関係が狭い「家のなか」で固定されてしまっていると。
本書の問題点は、結論の凡庸さに加えてこの学者が実際に「ケータイを持ったサル」と付き合ってつぶさに観察した結果から論を立てているのではなく、この学者がたまたま経験したことやどこかで拾い集めた今時の若者なるイメージに基づいて、若者とサルとの類似を語っていることである。
「加えて、昨今、「ことばの乱れ」ということがしきりに話題にされるようになったが、これもやはり「ケータイ世代」を中心として現象であるのは、衆目の一致するところだろう。「ウソーッ」「マジ!」「ヤダー」という、あれである。」(?麒如?/b>
今時「ウソーッ」「マジ!」「ヤダー」などと連呼している若者を私の周りでは見たことがない。マジ!はまだ生き残っているが、その他は既に死語になっているはずだ。この学者は実際のケータイ世代をみていない。そのイメージに寄り添って語っている。
ケータイによって言葉が乱れているというのも嘘だ。私の経験では、ケータイ世代は、その直前の手紙を書かなくなった世代と少なくとも同じ以上には文章力がある。ケータイはむしろ日々文章を書くことをトレーニングさせている。
本書では、サル学のアナロジーでケータイを持ったサルたちが語られているが、その読みどころはサル学のほうであって、ケータイを持ったサルたちではない。
※赤字強調部分は引用者:Q太郎によるものです。