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(回答先: 最後にしたいと思います。 投稿者 現在無色 日時 2004 年 5 月 20 日 08:20:39)
「問題を理解するとは、どのようなことか」という問いが発せられるならば、わたくしは、真面目な問題──それが純粋に理論的な問題であれ、実験上の実際的な問題であれ──を理解するようになる唯一の方法があると答えます。そして、その方法とは、問題を解決しようと試み、失敗することです。ある種の手軽で明瞭と思われる解決では、問題は解決されないと気がついてはじめて、われわれは問題を理解するようになるのです。問題というのは困難だからです。問題を理解するというのは、問題の困難さを経験することです。そしてこのことは、この問題に対する容易で明瞭な解決は存在しないということを発見することによってのみなされるのです。
こうしてわれわれは、解決の試みを何度も空しく繰り返すことによってのみ、問題に精通するようになります。失敗──解決をもたらそうとする試みが結局は受け入れられないことが判明してしまうこと──の連続の末、われわれはその特定の問題における専門家にすらなるかもしれません。ここで専門家になるということの意味は、誰か他のひとが新たな解決──たとえば新しい理論──を提起する場合にはいつでも、その解決はすでに試したが失敗に終わった解決のひとつでしかない(したがって、その解決ではなぜうまくいかないのかを説明できます)のか、あるいはそれが新たな解決であるのかを判断できるということです。後者の場合には、その解決が、不成功に終わった試みの結果から十分に認識している標準的な困難を少なくとも克服しているかどうかを即座に判断することができるかもしれません。
わたくしの強調したいことは次の点です。たとえわれわれが問題の解決にずっと失敗し続けるとしても、その問題と格闘したことによってひじょうに多くのことを学ぶだろうということです。たとえ試みるたびごとに失敗するとしても、試みれば試みるほど、われわれは問題について学んでいきます。このようにして問題──すなわちその困難──にすっかり精通するようになれば、その困難を理解すらしていないひとよりも、問題を解決するチャンスは高くなるでしょう。しかし、これは偶然(チャンス)の問題です。困難な問題を解決するには、理解だけではなく、幸運も必要です。
したがって、問題に始まり問題に終わり、問題と格闘することによって進歩する科学そのものと同様、個々の科学者もまた、初めから終わりまで問題にかかわり、それと格闘すべきです。しかも、問題と格闘しているあいだに、科学者は問題を理解するようになるだけではなく、実際には問題を変えていくことにもなるでしょう。強調点を変えるだけでも、われわれの理解に対してだけではなく、問題自体に対してや、問題の豊かさや意義に対して、さらには興味深い解決の展望に対してもいろいろな相違が生じるのです。科学者はこのような変化や変更に注意を払い、こうした変更を無意識に、秘密裡におこなわないようにすることが重要です。というのは、問題を定式化し直すことによって、その解決のほぼ全貌を明らかにしうるということがしばしば起こるからです。
(カール・R・ポパー「科学──問題、目的、責任」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 181-182)
http://page.freett.com/Libra0000/116.html