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(回答先: この国の歪んだ国家論の源 投稿者 TORA 日時 2004 年 5 月 18 日 14:23:26)
TORAさん、どうもです。
吉田繁治氏の<共同体組織の二重規範>の部分についてのみコメントさせていただきます。
吉田繁治氏の思いや理解は大枠で理解できるという前提で、いくつかの点を批判します。
>国民は、米軍の占領による「全体主義」からの解放を多くが歓呼して受け入れた。
敗戦後の日本国民が戦争からの自由や国家権力的強制からの自由を得たことで感じた喜びを「全体主義」からの解放を歓呼して受け入れたという意に解するのならそう言えますが、字義通りに、「米軍の占領による「全体主義」からの解放を多くが歓呼して受け入れた」わけではないと思っています。そこまでの国家観的反省が行われていたのなら、「敗戦責任」が等閑視されることはなかったはずです。
それでいいのですが、国家観によるのではなく、現実の家族(個人)の快・不快を基準に受け入れられたのでしょう。国家観によるものであれば、米軍の占領に対する抵抗運動が生まれてもおかしくありません。
>米国は、占領収奪は行わず、むしろ経済の発展を支援する態度をとった。
表面的にはこのような評価ができるのは確かです。
しかし、内実的には、米国の経済支配層の利益のために日本の経済発展を支援したことになります。(貨幣的富と生産力の異常なまでの偏り状況で経済的利益の増大をはかるためには、国家のお金(税金)を使った援助で流れを作るしかありません)
もちろん、その対象が日本である必要はないのですから、日本は近代的な意味で“幸運”だったとは言えます。
>戦争は、市民法の規定の範疇(はんちゅう)を超える。戦争が犯罪なら、論理的に戦
>勝国の軍人も、殺人と略奪を犯した犯罪者になる。武力で勝てば犯罪人ではなく、負
>ければ犯罪人という論理は、成立しない。
犯罪を裁くという行為は国家権力の強制力に基づくものですから、「武力で勝てば犯罪人ではなく、負ければ犯罪人という論理」は成立します。
それは、革命集団が、負ければテロリスト、勝てば英雄であり国家権力の支配者となることからもわかります。
この問題は論理の問題ではなく、抽象的な正義や倫理の問題です。
>【天皇の軍隊】
>戦前の軍隊は、「天皇が君臨する国体」を守る軍隊だった。統帥権(最高指揮権)は
>天皇がもち、国民の代表である首相には、軍の統帥権はなく、スタッフとして「参
>与」できるだけだった。
ここには二つの誤りがあります。
明治憲法下の内閣総理大臣(各大臣)は、国民の代表ではなく、天皇が任命する行政官であり天皇の統治を補翼し、政治的誤りの責任も全面的に負う存在です。
もう一つ、対米英戦争開戦時において、内閣総理大臣が大本営のメンバーでもなかったことから、内閣総理大臣が、統帥権機構にスタッフとして「参与」していたとも言えません。
>【敗戦後の、論理の切断】
>軍隊の統帥権をもっていたのが天皇ですから、その行政スタッフであった東条英機を
>戦争犯罪人とすると、論理的には、最高責任者の天皇も戦争犯罪人になります。
占領支配した米国政権は、そのような論理を少しは避けようとして、参謀本部や軍令部ではなく、陸軍省・海軍省を含む行政スタッフの要職にあった人物を戦争犯罪人としました。
戦争を判断できる天皇を含む統帥権機構に属していた人は戦争犯罪人として裁かれないという奇妙な結末になったのです。(派遣軍の戦争犯罪は次元が違うものです)
法的には、東条英機首相に開戦の決定に与る権限はなかったのです。
占領軍は、参謀本部や軍令部という統帥権機構の罪を問えば、天皇を罪を問わざるを得ないという法論理を明確に認識していたのです。
(参謀本部や軍令部は、唯一統帥権を保有する天皇の直属スタッフでしかなく、統帥上の責任は天皇に帰する法論理だったからです)