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金という蓄積可能な資本が登場して、社会の交換システムと価値の体系のすべてが、そこに帰依したように思える。
これは一つの宗教スタイルでもあり、すべの人々が好むと好まざるに関わらずこのシステムを受け取ることを生まれたと同時に強制される。
基本的には、奴隷制度を合理的な形で一見合法的に作り出しているに過ぎない、富という神話の中で階級が形成され、その中で資本が配分され、金のない人間からの収奪の仕組みが出来上がる。
そこに近代の自由契約論がすばらしい機能をもたらす、奴隷制度との根本的な違いは、契約が自由な意思で行われたか、強制かどちらかであるが、金がなければ、どちらにしても
従わなければならない仕組みが機能する。
この欲望のシステムを支える源は、高度に発達したエネルギーの供給と近代の工業化された文化そのものある。
この仕組みの中で最も困難な課題は、発明や革新といった現状を変化させ発展させるエネこれらのベースに貨幣経済が存在する。
ところがこの貨幣経済は強者が弱者を駆逐する市場経済によって支えられ、この市場経済は、あらゆる財貨を最も効率よく地球から取り出すためのビジネスのプランとプランを実現出来る人間にすべての権限を与える傾向がある。
彼らは神から選任を受けたように、あらゆる資源を効率的に取り出そうとして、考えられないエネルギーを地球上のいたるところにばら撒く、いつしかこられらの競争関係は時間短縮と距離の短縮競争へと様変わりしている。
気がついてみると、競争の本質が時間との競争になったとき、それは残り少ない地球環境の汚染との競争関係に陥っていることが私たちに分かり始めた。資源はこの地球に住む人たちの共通の財産である事も含めて。