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「閑話休題」ブログ 転載
「自己責任」
「自己責任」という言葉に違和感を感じた方も多いことと思います。
佐賀大学理工学部豊島耕一教授の個人ページに
「自己責任」という新語について
というリンクがあり、この熟語が比較的新しい造語であるという事を知りました。
個人的には使いたくない言葉です。
豊島教授は同サイトで「お上にまかせろ」思考の形成・維持に重要な役割を果たしているのが水戸黄門ではないかという論を展開しておられます。これも興味深い視点です。
この「自己責任」をキーワードに、もっと何かないか色々探しているうちに
桜井哲夫著「自己責任」とはなにか
講談社現代新書
にいきあたりました。
桜井氏は
《キーワードを疑う》[自己責任]為政者が使う言葉の背景探れ
というアーティクル(上記本の出版動機など)の中で、恐らくこの語源となったのは規制緩和をめぐる議論のなかから出てきた言葉だろうと推理しています。
出展:新聞研究 98年9月号(No.566)
■「自己責任」の語源説■
***(投稿者注:ここから引用開始)***
平岩外四を座長とする経済改革研究会の中間報告「規制緩和について」(一九九三年十一月八日)のなかでは、以下のように使われている(以下は内橋克人とグループ二〇〇一『規制緩和という悪夢』、文藝春秋、一九九五年、の巻末資料による)。
「消費者保護のために行われる規制については、自己責任原則を重視し、技術の進歩、消費者知識の普及などを踏まえ、必要最小限の範囲、内容にとどめる」。
「金融、証券、保険に係る規制については、自己責任原則を重視した競争原理の徹底を図るため、規制の一層の緩和を行う」。
--略--
***(投稿者注:ここで引用終わり)***
ここで桜井氏は、自己責任原則という言葉は、競争原理と対になって用いられており、消費者保護のための規制を緩和することの利益は、消費者の側にはなく、競争する企業の側の経費削減に利するだけであるとも書いています。
語源となったいきさつは置いておくとして、バイアグラの薬害における「自己責任」等を引き合いに出しながら、この本の執筆動機を次のように述べておられます。
***(投稿者注:ここから引用開始)***
このように「自己責任」という言葉は、多くは「自分のことは自分で始末をつける」というふうに国民に思わせておきながら、実は行政の側が国民の自己負担をふやし、結果として弱者へのしわよせが進むことなのではないのか、というのが拙著の執筆動機であった。
丸山真男が天皇制国家の「無責任の体系」を批判した論考で述べながら、その後あまり注目されてきたとは言えない「抑圧委譲の原理」に焦点をあてたのは、弱者へのしわ寄せが起こる原因を指摘する必要があったからである。
個人の倫理が内面化されず、常に上級者の顔色をうかがい、自分の行為を正当化するために上からの正当化を求める。常に上からの圧迫を感じているから、下へ威張り散らすことで発散しようとする。上からの圧迫は、こうして常に下へ下へと送られ、最も弱い存在が被害を被ることになる、というのが「抑圧委譲の原理」である。
明治以来の官僚制機構のなかで、こうして声低き者が犠牲にされてきたのではないだろうか、というのが私の基本的な立場であった。
現在の日本は、個人が自己主張すると会社(今回は国)--1ランク上の「公」--が迷惑を被る構造になっており、公を守るために個人は犠牲を強いられる。
公の責任はこの構造を通して個人の責任へと転嫁してゆく抑圧委譲原理が働く事が、昨今言われている「自己責任」という言葉の持つ意味であるというのです。
***(投稿者注:ここで引用終わり)***
これだけではよくわからない所も結構ありますが、私はこの本が今回の「自己責任」大合唱が何故巻き起こったのかに関してのヒントの一つを与えてくれているように思われます。
見つけただけで読んでおりませんが、エントリに上げておきます。
【風呂に入っていて出した今日の所の自己満足的結論】
「自己責任とは、責任転嫁と見つけたり」 若蘭
蛇足:
#豊島教授の指摘した「水戸黄問」が、桜井さんの文章中にも登場します。
2本目の蛇足:
自ら考え、決める「自己責任」が浸透している中国でのお話し「自己責任とは???」
これもまた興味深い記事です。
http://home.eol.ca/~toroho/jikosekininntoha.html