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(回答先: コンサバティズム・リベラリズム・ファシズムの日米における、比較。日本では、コンサバティズムは根付いていないらしい。 投稿者 乃依 日時 2004 年 6 月 11 日 01:39:50)
乃依さん、こんにちは。
「自由」の概念規定をしないまま、「自由」という言葉だけを使ってあれこれ言っても始まらないと思いますよ。
まずは、「自由」が、「○○からの自由」なのか、「○○への自由」なのかから考えたら如何でしょう。
さらには、「自由」に生きるというのはどういうことか?、他から無規定ということがあり得るのか?、無道徳があり得ないとしたら道徳(規範)と「自由」の関係はどのようなものか?などを考える必要があると思います。
そうしないと、「存在(人・生物)は、ただ単に存在していて、それを自由と呼ぶ」という奇妙な話が出て終わってしまいます。「単に存在していて」、「それを自由と呼ぶ」のなら、ことさら「自由」なる概念を持ち出さなくてもいいということになります。
(「人は単に存在していても、類的存在である」という人の社会的存在性を語ることもできます)
>「人権」「平等」「民主」がなかったころから、 人・生物という存在は、アプリオ
>リに存在し、自由を享受していた。
「人権」・「平等」・「民主」は、国家形成(とくに近代国民国家)に伴い確立された概念ですから、それ以前にも、個と他者の関係性や共同体(個と他者の活動的関係性総体)に関わる観念があったことは間違いないと思っています。
人・生物という存在がアプリオリに存在することは、唯物論的にはそうだと思います。
「私」が認知しない存在は存在しないという考え方に従えば、アプリオリに存在するものはないと言えます。
しかし、「自由を享受していた」という表現については、言葉の綾でしかないと思います。
「「私もあなたに大切にされたいし、あなたも私に大切にされたいでしょ。」という概念を、少なくとも人類は、最初から持っていただろうからだ」については、あるソフィストもそう語っていたし、私も“人の自然的状態”でそうであっただろうと思っています。
そうならば、「自由を享受していた」という表現の代わりに、
●「隣人愛を持ちながら暖かく生きていた」
●「相互扶助のもと楽しく生きていた」
●「他者と共存しながらより良く生きていた」
●「秩序意識を持ちながら節度を保って生きていた」
という“左翼的”ないし“保守的”な表現をそれをあてることもできます。
「自由」という言葉を一方的に規定したり濫用すると、実りあるやり取りはできないと思っています。