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(回答先: メシアについて 投稿者 ZADIK 日時 2004 年 6 月 07 日 23:12:26)
火の蛇
アダムとイヴの真実はこれから起こる事柄に備える為に知っておくべき事実として記して
おく。スピリチュアル・エマージェンシーの苦しみは、向き合うべき事実を知らなければ
乗り越えられないものだからである。まだ経験していない者達もこれから直面する事にな
る。
まもなく、人類のクンダリニーを神が上昇させる。これに堪える清さを持つ者だけが新し
い世の民となる。次の世に残る民とは神がその清さによって判断するのではなく、自らが
自らにおいて、「火の蛇」の上昇によって判断するのである。
それはその者自身のカルマの浄化を求めて、それを表面化させる。これに堪えられない者
は獣となる。
クンダリニー、すなわち「火の蛇」の上昇には、まずそれが目覚める必要があるが、その
役割を果たすのがこれから起こる艱難である。人は生存を脅かされる極限の状況に直面し
た時、内奥に眠る魂の力とも云うべき、根源の生命力を目覚めさせる。これこそが「火の
蛇」の覚醒であり、浄化の始まりである。これから起こる苦難とは人々自身にとって必要
なものなのである。
「火の蛇」の上昇は非常な苦しみを伴う、生死の境を通過する経験である。まさしく神と
獣の分れ目となる。その時には家系、また血族的にあまりクンダリニーを上昇させていな
い、あまり性的に開放的でなかった者達はより大きな苦しみを味わう事になるかもしれな
い。しかし、それは清さを保ってきたという事であり、より神の加護の厚い者達でもある。
たとえ荷は重くとも、今苦しんでいる者達、その者達が祝福を得る。
クンダリニーをなまじ上げていても、それに伴い心を汚れさせていては、逆に障害となる。
性的に放縦であった者は苦しみも少ない代わりに容易に獣に成り下がるであろう。最初の
男女にあのような因縁があった以上、その子孫である人類においてもクンダリニーは決し
て正常には上がらないのである。これからその全てが正される。
クンダリニーの「火の蛇」は自我、すなわち心が純化されている事を要求する。心に僅か
でも汚れ、悪想念があれば反応して結び付き、拡大して噴出させる。この時、「火の蛇」
はその目的を達せずに、本人の精神を伴って、上昇の速さと同じ勢いで墜落する。
「火の蛇」の目的とは「清い怒り」、すなわちクンダリニーを堕とし、チャクラを塞ぐ原
因となった「トラウマ」を打破する為の怒りである。そこには個人的なトラウマの打破も
含まれる。そうして「火の蛇」は総てのカルマを浄化しながら、全てのチャクラを開いて
ゆき、最終的に基底の位置から頭頂へと上り詰めるのである。
カルマとは自らの過ちによるものだけではない。一方的に被害を被るなど、自身に何ら過
失のない事柄であっても、その当事者として、カルマを負う事になる。
クンダリニーの上昇は一度や二度の失敗で諦める事なく、幾度も繰り返し試みるものであ
る。「墜落」を経験しても断念せず、時をその瞬間に戻して再度上昇させる。
人の精神は時を支配し、乗り越える力を持っている。何故なら精神が時間の座標軸を超え
た存在だからである。3次元から4次元への上昇において加わる座標軸は「時間」である
が、5次元において加わる軸が「精神」である。我々の精神が存在する世界は5次元であ
り、4次元を包括していて、同一空間内に全ての時間における全ての場所が同時に存在し
ているのである。
失敗の瞬間は、克服するまで「今」この瞬間の中にいつまでも存在し続ける。
「火の蛇」が覚醒したばかりの時には他者から敵意を示されやすくなる。クンダリニーが
頭頂へと上昇する事で人は「神」となるが、最下層の基底で活性している状態は「獣」で
ある。この時、他者からの敵意に被害者意識を募らせて自暴自棄となってはいけない。そ
うすれば自らが「獣」であると認める事になり、「火の蛇」は基底に留まり続ける。それ
らは自らの内において、霊において「清い怒り」として昇華させるのである。そのように
してそれを克服するならば、人は自らが「獣」ではなく「人」である事を示した事になり、
「火の蛇」は次のチャクラを開く為に上昇する。これはこの先の艱難において最も大きな
試練の一つである。
では、「人」から「神」への変化とは何か。それは人がこの世界の存在総てを受け容れら
れるか、悪と定めて排除せず、それと和合できるかどうかという事にに懸かっている。つ
まり、神の視点を持てるかどうかである。それが試されるのは、上位のチャクラを開いた
時、すなわち最大の試練であるスピリチュアル・エマージェンシーの「トラウマ」の記憶
が甦る時である。この時、人はかつてアダムの身に起きた事柄を単に知識としてではなく、
自らの身に起こった現実として知る事になる。
この「トラウマ」の記憶によって死の危機に直面した者は、神が掲げる銅の「火の蛇」、
メシアであるアダムを「見る」事によって清められ、救われる。
既にクンダリニーが上がっている、イヴの系譜に連なる者達は上昇ではなく、下降がその
目的となる。すなわち、クンダリニーを自我の位置である腹部よりも下、基底にまで押し
下げて、今は弱く、ほとんど働かせずに退化しているであろう自我を強め、拡大させるの
である。
この場合も克服すべき問題はある。自我が未発達であった為に自我を抑える機能も未発達
だったのである。この状態で拡大させれば自我の暴走が起こりかねない。
クンダリニーの下降においても上昇の際と同じく、その者自身に未清算のカルマを刈り取
る事が要求され、問題が露わになる。
そして、これまでは顕在意識を働かせていなかった為に容易に隠せた本心が表面に出る様
になり、その内面においても様々な事柄を顕在化して意識する様になる。隠していたが故
に、心の清濁、美醜を気に留めていなかったとしても、それが表に出るのである。
また、良心の痛みを感じる自我が未発達であった為に、痛痒を感じなかった過去の事実も
自らを責める罪悪感の因となり、苦しみをもたらして、これがあまりに強いと自らを悪と
定めて堕し、獣となる。
今、心を清め、改めておく事がその備えである。
イヴの系譜に連なる者には「母」と同じB型の者達が含まれる。
今の世には、上向きの進化、すなわち波動の上昇を志向する者達とは逆に、下向きの進化
を目的とする者達がいるのである。彼らはそれが自らの進化に寄与する行為であると信じ
て、猟や肉食、性を金銭に置き換える事などの波動を下げる行為を行うが、決して彼らの
行いを真似たり、それに巻き込まれたりしてはならない。それは誤りなのである。
波動を下げても、自我、すなわち心は清めなければ表に出せない。そして、それを成さな
ければ真の自由は得られないのである。
これまで「身魂を清める」為には何をすればよいのか、その具体的な事柄が見えなかった
かもしれない。しかし、その目的、すなわちクンダリニーの上昇、あるいは下降に備える
という事が明らかになれば、どうすればよいかが分かるようになる。なぜなら、各人の高
我はそれらについて完全な知識を持っているからである。
「火の蛇」の上昇とは人そのものを全く創り変える事であり、その全ては想念から、精神
から、霊から起こる。それは人智を超えた事柄であり、非常に複雑で重大であり、また取
るに足らない事柄である。全ては神の意思によるのであり、人がそれを自らの意思で導く
のは不可能である事を忘れてはならない。
身魂を清める上で最も大切な事は、正神に赤心で近づく事である。
基本的な事柄を以下に記しておく。
・肉食を断つ
動物を殺して得るのが肉である。肉を食べても自らは直接、動物を殺していないので無関
係だと思うかもしれないが、そうではない。食べる者達の為に加工処理する者だけでなく、
肉を食べる者達も共に動物を殺しているのである。人の目はごまかせても霊の目、すなわ
ち深層意識の目はごまかせない。それは事物の本質を完全に見抜いている。食べられるも
の達にとって両者に差は無い。深層意識は屠殺の際の、動物達の魂のレベルでの悲しみや
恐怖の悲鳴といったものも聞いている。
精肉場に吊るされている皮を剥がれた牛の死体、それらが総て人間のものであればどうで
あろうか。それが「上位存在」と称する者達が食する為のものであったとしたら。
人はこの世界の総てを自らに内包している。動物やその意識についても内面に、精神的・
霊的に対応する領域を持っている。動物を虐げれば自らの内面のその領域から拒絶され、
それとの関係を遮断する事になる。他を剋しているつもりで自らを剋するのである。その
領域とは深層意識である。
肉とは死穢れそのものであり、本来、触れるだけでも、身が穢れるものである。それを食
すとなればどれほど身を穢す事になるであろうか。たとえ火を通しても死肉の本質は変わ
らないのである。
古代イスラエルにおいて正神の時代にも肉食が行われ、動物が犠牲として捧げられていた、
との指摘があるかもしれない。かの時代、この民族が人類の嫡流の血筋を保持していると
いう特別の事情の故に神自らが彼らを取り、教え導き、清いものとしていたが、不平の多
い民に肉食まで禁ずるのは無理とみなした神は、それを自らが共に食する事で神の食物と
し、霊的にその穢れを取り除いていたのである。故無くして民に犠牲を捧げる様、命じて
いた訳ではない。動物達もたとえ苦しみを伴っても創造主である神には自ら進んで身を捧
げるのである。神が果たして動物達にそのような犠牲を払わせて、それを喜びとしたであ
ろうか。それでも神はその役目を引き受けたのである。理由を明かさずに。
この神はその後、祟り神とされ、民はごく少数の者を除いて、自らを光の使いに見せかけ
る者達に従っていった。
肉食の習慣を断つのは難しいが、一つの事実が目を覚ますきっかけとなるかもしれない。
それは肉に含まれる満足ホルモンという物質の存在である。肉を食べるとこれが脳に働き
かけて快楽物質を分泌させ、満足感を覚えさせる。つまり肉食の習慣とは美味しいという
理由だけではなく、タバコなどの常習性と同じく、中毒症状だという事である。肉を食べ
ないと食事を取った気がしないという感覚などに心当たりがあるかもしれない。
肉食を断てば、その時から意識は澄み渡ってゆき、身体は軽くなってゆく。
それは深層意識が歓喜するが故である。肉食を続けていた間は自らの内で自らを排除する
という分裂の状態にあったが、その因縁が解消されて、自らの内に和合がもたらされるの
である。そして精神、すなわち霊はそれぞれの領域が、肉体に対応箇所を持っている。深
層意識も同様である。この事はクンダリニーの上昇と密接に関係している。
最初はこれを目的としてであっても良い。しかし、いずれは自分自身の心で肉食の意味を
悟って欲しい。そうすれば、それは自ずと食べられなくなる。
肉食を行う者に新しい世での受け分は無い。強制や脅しは意図するところではないが、逆
に肉食が重大な事ではないという誤解を与えかねない為、最後にこの事を言い添えておく。
・断食に慣れる
これはクンダリニーの覚醒に大きな意味を持ち、艱難が始まれば必ず誰もが直面する事柄
である。
全く慣れていない状態でいきなり3日も4日も絶食し、その先、食物を得られる見込みも
無ければ、正気を失う可能性がある。さらにそのまま1週間続けば生命の危機である。人
としてのモラルを保っていられるか、獣となるか。しかし、慣らしておけばこの程度の断
食は障害にはならない。
人は食べなくても死ぬ事はない。むしろ食べる為に、食べたいが故に自らの体を分解し、
削っているのである。そのように体を削らなくては次々に食べられないからであり、その
欲求に体が対応しているのである。新陳代謝という言葉には誤謬がある。
逆に言えば食べたいという欲求をコントロールし、そう思わなければ、分解は止まる。全
ては意識次第である。
食べるという事は肉体への霊からの活力の供給を弱める行為である。人は本来、霊であり、
肉体を有するとは霊が化肉しているという事である。つまり、肉体を構成する物質も、肉
体が活動する為のエネルギーも総て霊から供給されるものである。
食物の摂取はこの霊からの供給を食物に頼る行為であり、意識を変えて霊に頼れば必要の
無い事柄である。
真の断食とは苦行や、限界への挑戦などではない。しかし、この状態に達するのはクンダ
リニーの完全覚醒後である。初めは無理する事なく、徐々に慣らしていかなければならな
い。
・神と共に食す
食べるという事にも重要な意義がある。神、すなわち守護神もそれを欲するのであり、神
と人が共に食すのである。ただし神が食するのは霊であり、歓喜である。単なる物質的な
貪りとは異なる。
神の食事は人とは違い、一瞬の事柄である。人がそれを口にする前、目にした時点で神は
それを摂り入れるのである。人がそれを妨げず、たとえ短時間でも時を取って、自ら神に
捧げるよう意図すれば、神はその歓喜を摂り入れる事ができる。その後で人が共にそれを
食し、ここでまた神は歓喜を得るのである。「何事もまず神が先」とは次元の違い故の、
事を成すのに要する時間、速さの違いを示している。
これは自らの守護神である高我の存在に気付く絶好の機会である。それに気付けばさらに
進んで、食べる時は全て神から頂くという気持ちを心がければ良い。そうすればさらに高
位の、大神との繋がりを持つ事ができる。
この時、背筋を伸ばして顎を引き、正しい姿勢で食事を行う事は重要である。そして自ら
の頭頂を意識する。そうする事によって、食物の霊、そして歓喜が滞りなく上昇する。
噛むという動作も重要である。物質的食事が食物を腹部へ下降させるのとは逆に、霊的食
事とは、食物の霊を頭部へ上昇させる事によってそれを摂り入れる行為である。この時、
食物をよく咀嚼する事により、食物が物質的に細かくなるのに比例して、霊的にもより波
動が細かく、精妙になる。こうして霊的に消化され、軽くなった食物の霊は、自身の神霊
の座である頭頂がそれをより受け容れ易くなる。逆によく咀嚼されていない食物の場合、
頭部へ上げても抵抗が示される。無理があってはそこに歓喜は存在し得ない。
これら食事に関する事柄は、肉食を断つ事や、断食も含め、性的な事柄と不可分であり、
深い関わりを持っている。
人はこの世界の総てを自らに内包している。神の存在も。これは頭頂のチャクラを開く方
法の一つである。
・「日月神示」を読む
これはイスラエルの神が著わした書物である。素盞鳴大神、国常立大神とはイスラエルの
神の事を指す。
この書は神がアダムに当てた直接の書簡であり、最高の言霊が込められている。それは守
護神にも通じる為、読むだけで人を変革する。
尚、守護神、すなわち高我とは肉体が男ならば女であり、女ならば男である。両者の間に
は恋愛関係が存在する。
神の真の姿
シヴァ神 = 大黒天 = 大国主命 = 出雲の龍神 = 素盞鳴大神
= 艮の金神 = 国常立大神 = イスラエルの神
シヴァ神とはイスラエルの神の真の姿の一つである。この神は総てのものの創造主として
の姿と、荒ぶる破壊神としての側面を併せ持つ畏怖神である。その本質は「真の聖書」と
日月神示に記されているとおりであり、決してイエスが演じた偽りの愛ではない。今の世
で光り輝いているものは悪神に属するものである。
キリスト教はこの神を貶める為に創作された宗教であり、その源はサタンと呼ばれるルシ
ファーである。イエスもそこから来ている。その見せ掛けの愛や善に惑わされてはならな
い。イスラエルの神が悪神に見えるようにその様な事柄を殊に強調しているが、彼ら自身
の性質はその口にする言葉とは異なっている。彼らの支配においては必ず、繁栄する者と
その犠牲となる者達が出る。彼らには総てを受け容れ、総てを統合するだけの器はない。
しかし、それらは必要悪であり、彼らは大神の経綸の一端を担う者達である。その本質は
悪ではない。その分別は人の基準によるものである。
神に善悪はない。イスラエルの神にも。