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(回答先: 失われたマトリックスを求めて No.37【2004年6月5日】(千葉邦雄氏オリジナルの見出し) 投稿者 乃依 日時 2004 年 6 月 05 日 21:00:35)
http://www.chibalab.com/news_otoshiana/documents/20040605.htm
・奪われ続ける日本 (千葉邦雄氏 No.37 失われたマトリックスを求めて)
http://www.asyura2.com/0406/war56/msg/380.html
・憲法9条と日本国憲法前文が描くファンタジー・ワールド (千葉邦雄氏 No.37)
http://www.asyura2.com/0406/war56/msg/381.html
やはり日本民族は「神の国」の住人?
どう考えてみても、日本人の感受性は、ネオコンのようには決してなれないと私は思う。一般的には日本人は無神論者が多いと言われているが、「自然」や「祭り」を通してほとんど無意識に古来から神を崇めてしまっているし、天皇やお上を奉る習慣もバッチリ身についてしまっているし、なかなかどうしてイスラム民族に負けず劣らずの信仰心があるというか、日本民族は、やはり「神の国」なのである(笑)。
ところで私はいったい何を言いたいのか。最初に結論を先に言ってしまうなら、基本的には、日本は今のままでいい、と私は思っている。私たち日本人が、エゴが創り上げた虚構の「罠」からさえ解放されれば、日本民族らしい「和」の精神を生かした古来の生き方が、訪れつつある「アジアの未来」のなかに必ず見つかるはずである。何もあせってネオコンの真似をすることはないと思う。ブッシュ政権やネオコンなんて、今世界中から憎まれている。自然律に反する欲望のバブルであるエゴイズムが極まれば、結局のところ、ジンギスカンであろうがナポレオンであろうが、大英帝国であろうがローマ帝国であろうが、時期がくれば必ず自らのバブルの重みで崩壊してしまう可能性が高い。私たち日本人は、出来れば冷静に距離をおいて眺めていたいものである。
No.18のエゴは鏡に映った「影」である のコラムでも触れたように、いまアメリカとEUの新冷戦が始まっている。ブッシュ政権はエゴにとりつかれて世界中を敵にまわし、恐怖で無理やり世界の人々を屈服させながらも、世界から孤立してゆく道しか残されていない。ネオコンによるパックス・アメリカーナのやり方はあまりにも幼稚であり、あまりにも見えみえなのである。いずれ伝統的な国際金融勢力たちにも、使い捨てされる瞬間が訪れるにちがいない。アメリカはいま物質資本主義の限界、エントロピーでいうところの「臨界」に限りなく近づきつつあると思う。
こころの道としてのタオ
タオ(道)について考えると、象形文字である漢字をしらべてみると少し役に立つようである。タオとは道、道路、方角、といった意味ですが、『絵画のタオ』の著者であるマイ・マイツエは、二つの要素、「辷」と「首」に分けて説明している。「辷」は「足をとめる」という形の象徴的表現で、「左足を一歩踏み出した」ことを表す複雑な形をしている。「首」は「頭部」を意味し、そこには考えるという意味が含まれています。つまりこの漢字は、次の一歩を踏み出す前に、休んで考えるという意味があり、段階を追って歩むことを意味します。また左足は陰の方向で、このことは、タオが内面の道であるという意味合いを示しています。
タオを表す漢字は、足と頭の結合ですから、タオは、精神的成長を欲する全体性の考えを象徴しているともいえます。こうしてタオは、頭から足までの≪人格≫全体の調和へと向かう内面の道であるともいえる。さらにまた、「頭」は天・太陽・男性的な陽のエネルギーと関係し、「足」は大地や女性的な陰のエネルギーと同一とみなされています。したがってこのタオという道は、天と地、男性と女性、陰と陽といった二つの力の統合体でなければならない。タオを示す漢字は、明らかにある内なる道を自覚してたどらなければならないことを教えているようである。
東洋のこころにとって、「タオに帰る」ということは、「神の国を見出す」という意味になる。中国に長年住んでいたリヒアルト・ヴィルヘルムは、ユングに「雨乞い師の話」について、こんな風に語っている。
「大変な日照りがあった。何ヶ月のもの間、一滴の雨も降らず、状況は深刻だった。カトリック教徒たちは行列をし、プロテスタントたちはお祈りをし、中国人たちは線香をたいたが、何の効果もなかった。最期に、その中国人が言った。『雨乞い師を呼んでこよう』。そこで、別の地域から干からびた老人が呼ばれてきた。彼は何処か一軒の静かな小さな家を貸してくれとだけ頼み、3日の間、その家の中に閉じこもってしまった。4日目になると、雲が集まってきて、大変な吹雪になった。雪など降る季節ではなかったのに、だ。町中で、素晴らしい雨乞い師の噂でもちきりになった。リヒアルト・ヴィルヘルムは出かけて行って、その老人に会い、どんなことをしたのかたずねた。するとその小柄な中国人は言った。『私は雪なんか降らせていません。関係ありません』『では、この3日間、あなたはなにをしていたのですか?』とヴィルヘルムがきくと、『ああ、そのことなら説明できます。私は別の場所からこの地方にやってきたのですが、そこでは万事が秩序だっていたのです。ところがここの人たちは秩序から外れていて、天の命じている通りになっていないのです。つまり、この地域全体がタオの中にいないというわけです。ですから、私も秩序の乱れた地域にいるわけで、そのために私まで物事の自然な秩序の中にいないという状態になってしまったわけです。そこで私は3日間、私がタオに帰って、自然に雨がやってくるまで、待っていなくてはならなかった、というわけなんです』と小柄な老人は言った」
この心理学的寓話を、私がもう少し分かりやすく解説するなら、雨乞い師がタオに帰るということは、「私はふたたびマトリックス(母胎)とつながったと感じ、人生には意味があるという至高の喜びに触れた」ということを、別な形で表現されていると解釈できる。そしてまたタオに帰るということは、「私は何事であれ、必要なものは必ず母なるマトリックス(母胎)から与えられると信じて、今日を明るく生きてゆける」という風な意味も含まれていることになる。しかしこれで、果たして分かりやすい解説といえるのかなぁ…。
《主な参考文献および記事》
(本記事をまとめるにあたり、次のような文献および記事を参照しました。ここに、それらを列記して、著者に感謝と敬意を表すると共に、読者の皆様の理解の手助けになることを願います。)
★ タオ心理学 ジーン・シノダ・ボーレン 湯浅泰雄監訳 (春秋社 1987)
★ イラク戦争 日本の分け前 浜田和幸 (光文社 2004)
『終』