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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040531-00001076-mai-soci
約3000年前に誕生した中国の古代王朝、周(?〜前256年)の王墓群とみられる大陵墓遺跡が西安の西方に位置する周の古都・周原地域の陝西(せんせい)省岐山県で見つかったことが、中国の調査関係筋からの情報で31日明らかになった。殷墟(いんきょ)の殷王墓とほぼ同規模。周は古代王朝の中でもその王墓が不明で考古学上の謎とされており、20世紀初頭の殷墟発掘に次ぐ最大級の発見として発掘が期待されている。
調査を実施したのは、北京大学考古系調査隊と陝西省考古研究所。今年5月初めから、考古調査のためのボーリング調査が進められた。岐山県城から西北へ約7.5キロの周公廟近くにある丘陵の斜面で、12基の大墓が確認された。それを取り囲むように厚さ10メートルの城壁が東側長さ700メートル・北側300メートル・西側500メートルの計1500メートルにわたって見つかり、墓域は少なくとも約20万平方メートルに達することが分かった。
さらに発見された12墓のうち7基が東西南北方面に4本の墓道を、1基は3本の墓道を備え、2本と1本の墓道をもつ墓がそれぞれ2基あった。
最大の墓は、南北に幅4メートル、長さ約30メートル、東西に幅約2.5メートル、長さ約20メートルの墓道をもち、墓室は約80平方メートルあった。
墓域内からは7基の車馬坑が、周辺では「周公」(周公旦?)、「新邑」(新しい「都市」の意味)など周の前半である西周期のものとみられる文字が刻まれた甲骨700片も発見されている。
遺跡が見つかった周原は周王朝ゆかりの場所であり、4本の墓道を備えた規模や12基もの大墓を擁する広大な墓域などから、関係筋は「西周期の王陵群の可能性が大きい」とみている。
司馬遷の「史記」に登場しながら、殷、周の古代王朝は一時存在が疑われていた。そのうち殷は甲骨文字の発見がきっかけとなって1928年からの発掘で確認され、西周期の王墓が古代史の大きな空白となっていた。【荒井魏】
◇王陵の可能性高い
北京大学の調査隊の責任者、徐天進・同大学副教授の話 今月7日に初めて大墓が確認されて以来続々と12の大墓が見つかった。考古学上、中国で四つの墓道をもつ墓は、王の墓以外にない。それからみて王陵の可能性が高いと言える。
松丸道雄・東大名誉教授(中国古代史)の話 周原ではこれまで多くの諸侯・陪臣の遺跡が発見されたが、王宮、王墓は未発見だった。その地域に大規模な墓葬群が発見されたわけだから、西周の王たちの墓域である可能性が極めて高い。殷王墓でも4本の墓道をもつ王墓は限られており、墓の格式からも王墓群の可能性が大きい。
◆ことば◆周
紀元前1050年ごろ、殷の紂王(ちゅうおう)を倒した武王の殷周革命で誕生した王朝。武王時代から12代の幽王が殺された前771年までを西周、幽王の子の平王が都を成周に東遷し、秦に滅ぼされるまでの前770〜前256年までを東周(春秋戦国時代)と呼ぶ。孔子が周公旦(武王の弟)を儒教の最高の手本とするなど、西周は政治の理想の時代とされてきた。周原は武王の祖父の時代に移住して勢力をたくわえた故地で、西周の都が他に移った後も国の政治・宗教上の中心として栄えた。
◇古代史の空白埋める
太公望や弟の周公の手助けを受けて殷を滅ぼした武王が創設した周王朝。司馬遷「史記」に描かれたそのドラマは考古学上では長く空白の世界だったが、陝西(せんせい)省岐山県の西周時代の大陵墓遺跡発見は、その空白を埋めるものとなりそうだ。
王墓と推定される理由の一つは、城壁に囲まれた墓域が少なくとも20万平方メートルに達し、殷墟の王陵域とほぼ同格の規模であることだ。周時代、王の下の諸侯だった晋の17基の侯墓群が1990年代に発掘されているが、区域が200メートル四方足らずで、今回の発見はスケールが格段に違う。
さらに確認された12基の大墓のうち7基が、殷の王墓の中でも限定された墓だけ(12基中8基)の最高形式である四つの墓道をもっており、王墓と考えた方がむしろ自然だ。厳密に言えば、殷王墓も内部は盗掘にあい、各墓がどの王の墓か特定されたわけではない。ロケーション、陵域の規模、四つの墓道をもつという格段の大墓規格などから殷王墓とされているにすぎないからだ。
しかも、殷王墓にはない厚さ10メートルもの城壁に囲まれていたことは、荘厳な陵墓域を想像させる。松丸道雄・東大名誉教授(中国古代史)は「王陵を城壁が囲むことが歴史上初めて出現したケースでは」と語る。
現場近くを昨年12月、日本の中国考古学の専門家2人が相次いで訪れた。今回の調査のきっかけとなった甲骨片がまず発見された段階だったが、西江清高・南山大助教授は「周辺に周初期の建物の遺跡も確認され、周初の歴史に非常に重要な場所になるのでは、と中国側研究者と話し合っただけに(今回の発見は)非常に驚いた。1世紀前の殷墟の発見を思い起こさせる中国考古学上の大発見となるかもしれない」と意義を語った。また飯島武次・駒沢大教授も「おそらく今世紀の世界最大の発見の一つとなるでしょう。近くから周の都城跡も発掘の可能性がある」と驚いている。
ケタはずれの遺跡発見で、周文化の解明など期待が大きいだけに、発掘時期をめぐり慎重論や早期発掘論が渦巻いている。西江さんは「殷墟では今も発掘が続いている。100年計画でやるには、慎重にならざるをえない。しかし、うわさが広まれば盗掘が怖い。勢い早期調査に議論が傾いているようです」と言う。現地では盗掘防止のため警察が厳重警戒に当たっており、中国の国家文物局も近く現地の調査隊と発掘打ち合わせに入る予定だ。【荒井魏】(毎日新聞)
[5月31日18時53分更新]