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「ベルルスコーニを罵倒する」シリーズの最終回は、ベルルスコーニとシオニズム=イスラエルとの、耐えがたくクサ〜イ関係を暴くことから初めて、そもそもシオニズムとイタリア・ファシズム、およびドイツ・ナチズムがどういう関係にあったのか、ということに関してまで、触れてみたいと思います。
「クサ〜イ」とは言っても、べつに「秘密の」とか「隠れた」といったことではなく、明々白々で露骨な関係なのですが、その両者とも、骨の髄まで腐りきったような、死臭とも硫黄の炎ともつかぬ、この世ならぬ悪臭を世界中に振りまいているわけです。
(この投稿の最後に、このシリーズの第1回、第2回のUrlを載せておきます)
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ベルルスコーニを罵倒する:(3)シオニズム=イスラエルとのクサ〜イ関係
まず、何はさておき、次の資料を読んでいただこう。これは World Socialist Web Site の文章で、Fred Mazelis による 25 September 2003 に書かれた記事である。(本文、英語)ただし本文はかなり長いので、その前半部を日本語に訳してお見せすることにしたい。興味のある方は訳文の後のUrlをクリックして、全文を読んでいただきたい。
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【訳出、引用開始】
『ADLとベルルスコーニ:シオニズムの「欠陥」友人を称える』
9月23日木曜日、90年前に反ユダヤ主義とその他の偏見との戦いを宣言して米国に作られた反名誉毀損委員会(ADL)は、あるヨーロッパの著名な政治家に対して「優秀政治家賞」を授与した。ニューヨークの豪華なプラザホテルで開かれた慈善資金集めの晩餐会での、その受賞者は、誰あろうシルビオ・ベルルスコーニ、以前の独裁者ベニト・ムッソリーニを擁護して新聞をにぎわせ物議をかもしたばかりのイタリアの首相であった。
英国の雑誌スペクテイターとのインタビューの席上、このイタリア首相は、イタリアのファシストの統治者とサダム・フセインを比較するように求められた。彼はスペクテイターに対して彼はこう言った。「ムッソリーニははるかに優しい独裁者だった。ムッソリーニは誰一人殺していない。ムッソリーニは人々を休日に国内追放したのだ。」
元イタリア・ユダヤ人協会のリーダーのツリア・ゼヴィは、ニューヨークタイムズの電話インタビューに応えて、激しい怒りを次のように表現した。「彼は、ファシズムがとても優しい独裁主義だ、と言ったのです! それは、その最初から多くの政治犯を殺害するほど『優しい』もので、ユダヤ人にとってもそうでした。」
ADLの授賞式の晩餐について、ニューヨークタイムズは、ADLの賞は「ベルルスコーニ氏の問題の多い経歴を知る人にとってショッキングだった」と述べる、マサチューセッツ工科大学の3人のノーベル賞受賞経済学者たち――フランコ・モディリアニ、ポール・サムエルソン、ロバート・ソロウ――の署名の入った手紙を記事に載せた。
このイタリアのファシスト政権は1938年に反ユダヤ人法を通して、ユダヤ人から市民権を剥奪し学校からの追放と公的・私的なあらゆる分野での差別を作り出した。この法律は後にナチスの収容所での何千人ものユダヤ人の死をもたらした。ムッソリーニは公にヒトラーの「最終解決」への賛同を明らかにし、明らかに彼のユダヤ人の女性や子供の殺害とヨーロッパからのユダヤ人の「洗浄」を支持することを宣言した。
このADLの賞は1年前に決定したが、ベルルスコーニの親ファシスト的発言は目新しいものではなかった。前述の発言は、ムッソリーニ政権とその反共政策、極端な排外主義と独裁的支配について、彼が繰り返し発言している共感の最新版に過ぎない。1994年に首相になったすぐ後、ベルルスコーニはワシントン・ポストに「ムッソリーニはここで何らかの良いこともやったんだ」と語った。
ベルルスコーニは、ムッソリーニの政治的後継者、「新ファシスト」国民同盟との連合政権を作っている。最近彼はドイツの政治評論家をナチの司令官と関連付けて攻撃した。彼は批判者を本国で、ドイツ・ナチスとその協力者イタリア・ファシストに使用されたのと全く同じ言葉で、しつこく非難してきている。ベルルスコーニによれば、彼に対して汚職の追及をしてきた裁判官と検察官は「精神的に混乱している」そして憎むべき共産主義者であるそうだ。
しかしながら、このベルルスコーニの数々の前歴と、多くのユダヤ人グループがADLにこの賞を破棄するように求めた要求にもかかわらず、ADL委員長のアブラハム・フォックスマンは批判者を「政治的な絡みがある」として解任し、プラザ・ホテルでのガラを予定通りに進めると語った。フォックスマンは毎日のようにアメリカのシオニストのスポークスマンとしてメディアにその言葉を引用されているのだが、ベルルスコーニに関して「彼は変わらぬ友達だ。しかし欠陥のある友達だ。」と言った。フォックスマンによれば、ベルルスコーニの最近のコメントは、「不適切」で「未熟」なものだが「それは私にとって、もう友達ではない、と言うほどのものでもない」ということだ。
晩餐会そのものでは、このADLのトップは、イタリアの首相を向かえてADLは歓喜していると言った。黒い蝶ネクタイの出席者たちはベルルスコーニに2度の立ち上がっての喝采を贈った。その席にはBarnes & Nobleの議長レオナルド・リッジオとデイリー・ミラー出版のモーティマー・ズーカーマンがいた。また右派系メディアの大立者ルパート・マードックが出席しており、彼はベルルスコーニを、イタリアを共産主義から救うために政界に入ったと10年前に言った言葉を取り上げて、褒め称えたのだ。同様に、元国務長官のヘンリー・キッシンジャーも出席していた。
【後略:訳出、引用終わり】
http://www.wsws.org/articles/2003/sep2003/berl-s25_prn.shtml
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書いてある内容から、この記事の著者もユダヤ人のような思える。文中にイタリアのユダヤ人団体のリーダーの声が載せられてあったが、ただ、イタリア・ファシズムとユダヤ人、特にシオニストとの関係は、それほど簡単ではない。シオニズムの隆盛とファシズムとは切っても切れない「くされ縁」があるのだ。これはもう少し後で詳しく取り上げよう。
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次に取り上げるのはラジオ・イスラムネットから、「ベルルスコーニの親イスラエル主義」と題された記事である(全文英語)。この文章では2001年5月16日のイスラエルのエルサレム・ポスト(電子版)の記事を引用して、その後にラジオ・イスラムからのコメントを書いている。引用された記事は、イタリアの首相として選出されたばかりのベルルスコーニを、イスラエルが「最も親しい友人」として大歓迎する内容なのだが、これはどうか各自でお読みいただきたい。ここではその記事の紹介の後に書かれているラジオ・イスラムのコメントの部分のみを訳出させていただくことにする。
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【訳出、引用開始】
【前略】
ラジオ・イスラムによるコメント
再び、我々は「親ファシズム」とか「ネオ・ファシズム」というレッテル貼られるものが、親シオニストと「イスラエル」のシオニスト・アパルトヘイトの友人に関する限りは、極めて正しい、ということがわかる。上で述べられた記事のソースは、イタリアの「国民同盟はヨーロッパの議会ので最も親イスラエルであるとみなされる」とさえ言っているのだ。
したがって、シオニストたちのオーストリアへの(失敗した)攻撃は、ゲオルグ・ハイデルがイスラエルの友ではないことと、その政策と、ユダヤ人の圧力に屈するそぶりすら見せないことが原因だ、ということを誰でも気がつくだろう。
【訳出、引用終わり】
http://www.radioislam.org/islam/english/jewishp/italy/berlusconi.htm
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そして次に紹介するのは、イスラエルのシャロンが2003年11月18日(木曜日)にイタリアでベルルスコーニと会見する予定を報道したイスラエル・ラインからの記事である。これは記事を全訳する。
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【訳出、引用開始】
シャロン首相、イタリアを訪問
アリエル・シャロン首相は、本日ローマでイタリア首相シルビオ・ベルルスコーニと会談する予定である、とハアレツが報道した。シャロンは、懸案になっているイスラエルのヨルダン川西岸の防御壁に対するEUの非難とEUの中東使節マルク・オッテの冷たい態度について討論することを期待されている。シャロンはイスタンブールのシナゴーグへの爆弾攻撃で24名が殺された2日後の月曜日にイタリアについたのだが、反ユダヤ主義による事件の勃発に対してイタリアのサポートを求めてロビー活動をするだろう。ベルルスコーニとの会談に先立ち、シャロンは木曜日の朝ローマでイタリアの国防相アントニオ・マルティーノと会った。二人はイランの核計画とシリアのテロ組織への支援について協議した。
この会談の間シャロンは、もしパレスチナ人が新たな停戦を実行するというのならイスラエルは沈静化のステップを踏むだろう、という姿勢を繰り返した。「(ベルルスコーニ)は反ユダヤ主義に対決する強固な闘士であり、だから私は、きっと彼が我々の不満に対して、そしてヨーロッパでこれ【反ユダヤ主義:訳者】を止めるためになされなければならない行動に対して、心を開いてくれるだろうと思う。」このようにシャロンのスポークスマンであるラアナン・ギッソンは言った。シャロンはベルルスコーニと暖かい関係を持っている。彼の元でイタリアは、3年にわたるパレスチナ人の蜂起を鎮圧するイスラエルの軍事行動に対するEUの批判にも関わらず、イスラエルとの堅固な関係を築きだしたのだ。「ベルルスコーニに率いられるイタリアは、どう言ってもイスラエルと友好的ではないヨーロッパの中で、イスラエルの非常に忠実で信頼の置ける友人であることが明らかなのだ。」と、あるイスラエルの高官は述べた。
【訳出、引用終わり】
http://www.israelemb.org/boston/wir11.15-21.html
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おお! なんたる美しい友情であることよ! 涙がちょちょ切れる! それにしてもイスタンブールの「シナゴーグ襲撃」が何とすばらしいタイミングで起こっていることだ。「或ル怪ダ」様さまだね。
もちろん政治的な姿勢だけではなく、ベルルスコーニのイタリアとイスラエル(ユダヤ人)との間の経済関係が重要だろうが、ベルルスコーニ個人が行なっているメディア関連ではむしろソロスやマードックなどのユダヤ資本とは競合しているように見える。私は今のところ、イタリア資本とユダヤ資本とのつながりについてはあまり資料を持っていないので、ご存知の方がおられたらぜひフォローいただきたい。
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ところで、ムッソリーニのイタリア・ファシズムとユダヤ人、とりわけシオニストとの関係は、ヒトラーとそれらとの関係とはかなり異なる。次の資料は「The Jewish Question since WWII」というサイトにある「Zionism and Italian Fascism, 1922-1933」という文章である。これは全文英語だがかなり長いので、その中の主要部分だけを訳出することにするので、全文は各自でお読みいただきたい。
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【訳出、引用開始】
シオニズムとイタリア・ファシズム:1922−1933
イタリア・ファシズムに対する世界シオニスト機構の態度は一つの基準を持っている。つまり、イタリアのシオニズムに対する姿勢である。ムッソリーニは彼らに敵対していた、とワイツマンはムッソリーニを批判した。しかし彼は親シオニストであり、シオニストの主導者は熱心に彼をサポートしたのだ。ヒトラーが権力を握ったときには彼ら【シオニスト:訳者】は最初のファシストのリーダーと友好的だったのである。
【中略】
イタリアの反ユダヤ主義はカトリック教会の反啓蒙主義によって社会の中にすでに位置付けられていた。ユダヤ人たちをゲットーに押し込めたのは教会であり、イタリアのナショナリストは常に教皇に対してユダヤ人の側についていたのだ。
【中略】
シオニストたちはその後1922年12月20日にムッソリーニと会見する機会を持った。彼らはムッソリーニへの忠誠を確約した。シオニストでイタリアのユダヤ人に関する評論家ルツ・ボンディは語る。代表団は、イタリアのユダヤ人は常にその生まれた国に対する忠誠心を保つし、また近東に住むユダヤ人を通してその地域との関係を打ち立てる役に立つことができる、と主張した。
ムッソリーニはぶっきらぼうに、彼が未だシオニズムを英国の道具と考えていると彼らに語った。しかし彼らの忠誠の誓約は彼の敵意をいくぶん緩め、世界シオニスト機構(WZO)の代表チャイム・ワイツマンと会うことに同意し、彼は1923年3月にやって来た。ワイツマンの自伝は、イタリアとの関係について慎重にあいまいにしており、しばしば誤解を導くのだが、しかし幸いなことに、当時のローマの英国大使館への報告から、この会見についてのいくつかのことを知ることが可能である。これによると、ワイツマンがいかに、シオニストが英国の後押しを受けていることへの反対を切り崩そうと勤めているか、がわかる。「ワイツマン博士、これがいずれにせよ問題だということを否定するにしても、つまり、例えそうだとしても、イタリアは英国同様に、イスラム勢力を弱めることによって利益を得る立場にあった。」
この解答にはムッソリーニの信頼はそれほど多くは表れていないが、ワイツマンがパレスチナの入植地を経営する委員会にイタリアのシオニストを指名する許可を求めたときに、彼は喜んだ。ワイツマンはこのことがWZOに対するファシストの寛容さであるとイタリア社会がみなすことを知っていた。それによってシオニストが、新しい政府との対立に巻き込まれるのではないかと恐れる用心深いユダヤ人の間で、WZOの活動を容易にした。ムッソリーニは別の見方をしていた。この安上がりのジェスチャーで自国でも外国でもユダヤ人社会からのサポートを手に入れるだろう、ということだ。
【中略】
イタリアのシオニズムに対する政策は1920年代半ばになって変わっただけだった。そのときパレスチナでの彼らの会議の結果は、シオニストはこの地にとどまり、英国はシオニストたちが自分の国を手に入れたときにこの国から去るだろう、ということだった。ワイツマンは1926年に再度ローマに新たな会談のために招待された。ムッソリーニは友好的を超えていた。彼はシオニストが自らの経済を作るのを手伝うという申し出をし、ファシストの新聞はパレスチナ・シオニズムに有利な記事を出し始めた。
シオニストのリーダーたちはローマを訪れ始めた。ナウム・ソコロウは、当時シオニスト長老会議の議長で後に1931〜33年にWZOの委員長になるのだが、1927年の10月26日に姿をあらわした。ミシェル・レデエンは、ファシズムとユダヤ人問題に関するスペシャリストだが、このソコロウ=ムッソリーニ会談の政治的な結論を次のように描いている。
この最新の会議でムッソリーニはシオニズムに担ぎ上げられ始めた。ソコロウはこのイタリア人を人間として褒め称えただけでなくファシズムは反ユダヤ的偏見から免れているとさえ発表した。彼はもっと先まで進めた。以前にはファシズムの性格について明らかでないところがあったが「我々はその本当の性格を理解し始めた。・・・本当のユダヤ人は決してあなた方と争ったことがない。」
これらの言葉はシオニストのファシズム政権への承認に匹敵するが、世界中のユダヤジャーナリズムに響き渡った。この時期、ユダヤ人社会とファシズム国家の間に新たな関係が打ち立てられたわけだが、ファシズムに対する忠実さと好意がイタリアのユダヤ人センターにあふれた。
【後略、訳出終わり】
http://www.severi.org/studenti/ipertesti/jewish/Zionism.htm
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しかし、この蜜月時代は、植民地問題とエチオピア侵略問題をめぐって英国がイタリアを追い詰め、その結果ムッソリーニはヒトラーに接近し、ヒトラーの希望を受け入れたムッソリーニが反ユダヤ法を作ることで終わることになる。それにしてもイギリスの情報網は昔からすごいネエ。シオニストにしてもきっちりイギリスの手の内にあったわけだ。
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ここに非常に興味深い資料がある。これは世界シオニスト機構(WZO)のThe Hagushama Departmentのサイトに載せられた「Fascism and Zionism」と題されるSuzanna Kokkonen(おそらくユダヤ系フィンランド人)の論文である。これも長文なので最後の「Italian Zionism」の部分のみの訳とするが、わかりやすい英文であり、これがシオニスト自身の言葉であり認識であることを考慮に入れて、ぜひとも全体に目を通していただきたい。
引用個所の以前には、イタリアのユダヤ人の簡単な歴史、20世紀初期のユダヤ人の人口統計などが載せられ、そして概略で次のようなことが書かれてある。
イタリア統一まではバチカンがイタリアの最大権力でありユダヤ人に敵対していた。しかしイタリアでは他の欧州諸国とは異なり反ユダヤ主義は非常に弱かった。ムッソリーニもファシズムが反ユダヤ主義ではないと言い「ユダヤ人問題はイタリアには存在しない」とまで言った。ただムッソリーニはあいまいな態度で信用できない人物だった。30年代の後半、彼はシオニストを英国帝国主義の手先とみなした。それでもユダヤ人自体を排斥することはなかった。ファシズム運動に参加したユダヤ人も多かったのである。しかし、ヒトラーとの同盟がそれを変えた。
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【訳出、引用開始:前略】
イタリアのシオニズム
イタリアはシオニズムにとって征服することの難しい国だった。イタリアのユダヤ人が自分たちの歴史と習慣に引き比べてシオニズムに対してある種の違和感を持った可能性がある。しかしイタリアには自由人と被抑圧者のはっきりした格差が無かった。ユダヤ人はあらゆる社会分野と政党で良い地位を占めていた。加えて、この国には反ユダヤ主義がほとんど無かった。もちろん、反ユダヤ主義がシオニズムが成功を収めるために必要であるかどうか、には議論のあるところだ。有名なイタリアのユダヤ人でシオニストのダンテ・ラッテス(1876年生まれ)はこの二つの現象【反ユダヤ主義とシオニズム:訳者】の関連を確信していた。ロシアでは反ユダヤ主義のポグロムが、自分の育った国を全面的に拒否するようになるシオニストを産んだ。ラッテスによれば、イタリアに同化してしてしまったユダヤ人は同じことにはならなかった。たとえ一人のイタリアのユダヤ人がシオニストになったとしても、彼はイタリアで生活することを決して止めなかったろう。実際、ラッテスはこのことを、同化がイタリアのユダヤ人にとって危険であるにせよ、反ユダヤ主義の欠落がイタリアをユダヤ人にとっての理想郷にしたのだ。イタリアのユダヤ人たちはほとんどユダヤ教徒のイタリア人ではなかった。
ユダヤ人社会とファシスト政権の関係の急速な発展のために、the Unione delle Comunita Israelitiche Italiane【イタリア・ユダヤ人共同体連合か?:訳者】が1930年に設立された。この連合の最も大切なメッセージは、ユダヤ教とイタリアのユダヤ人一般はシオニズムとは無関係である、という「事実」であった。指導者たちは、連合の声明に反対する際には、個々のユダヤ人の責任を強調した。この連合はシオニスト運動ではなかったのだ。一方シオニストたちはシオニズムについてファシスト党を説得しようと試みた。彼らはシオニズムがイタリアの政治的利益にとって有益であることを主張しつづけた。そして彼らは同時にユダヤ人コミュニティーの残りの者に対してシオニズムに関心を向けるようにしようと試みた。
イタリアのシオニズムの最初の段階は、およそ1900年から第1次世界大戦までであるが、東ヨーロッパのユダヤ人に対する人道的支援を組織することに費やされた。二つの大戦の間の合間は思想と理論を作る期間であり、1935年以後のみにシオニスト運動が潮流が変わったことに気付いたのだった。実際には人種主義と反ユダヤ主義はイタリアの政治的な環境では大きな要因にならなかった。この原因については、イタリア人自身の性格や歴史のある文明を含めて、多くのことが言えるかもしれない。しかし、反シオニズムがイタリアで鳴り響き、そしてムッソリーニがそれを十分に利用することを学んだ、という事実は残る。前の章で我々が見たとおり、ムッソリーニはシオニズムを中東における英国の野望と結びついていると考えた。全体主義国家の中でファシストの新聞でプロパガンダと脅迫のキャンペーンが始まるのはすぐだった。
普段のムッソリーニは無分別に振舞った。1923年に彼はチャイム・ワイツマンに会った。ワイツマンの記憶は、これは後でダンテ・ラッテスによって批判されたことだが、彼は第2次大戦後の自分の不満について書いただけだった。ラッテスは、ワイツマンがイタリアでのファシズムとシオニズムの関係を理解しておらず、またユダヤ人とファシストたちのユニークな関係をわからなかった、と感じた。ムッソリーニはまたシオニスト長老のメンバーのジャコブソン博士を迎え入れた。イタリア=パレスチナ委員会がその結果設立され、後にムッソリーニはナフム・ソコロフ【前出の「Zionism and Italian Fascism, 1922-1933」では『ナウム・ソコロウ』となっている:訳者】と会った。私はムッソリーニの空虚な約束がこのときになされたと推測したい。しかしながら彼はどちらの側に加わるべきか分からなかったし、また「ユダヤ人の資金」と「世界的な権力」を信じていた。実際、ムッソリーニは、ヒトラーが反ユダヤ主義のレトリックを展開することで大きな過ちを犯している、と考えた。
ムッソリーニの策略については言うまでも無いことに、イタリアのユダヤ人コミュニティーの間に恐れがあった。そしてシオニストは次第に大きなコミュニティーから孤立していった。レオーネ・カルピの指導のもとにある修正主義運動はシオニズムと「イタリア主義」とを結びつけようとしてみた。そしてその運動の役割は「シオニスト的思想」と呼ばれた。ローマではダンテ・ラッテスがシオニスト新聞「イスラエル」の編集長だったが、それをムッソリーニが自分の家に配らせた。一度ならずラッテスはページをムッソリーニへのメッセージで埋めた。どんなメッセージか? 明らかに、イタリアのユダヤ人がシオニストであって同時にイタリア市民としての忠誠心を持ちつづけることができることを、イル・ドゥーチェ【ムッソリーニのこと:訳者】に説得するメッセージであった。
ある意味で、イタリアのシオニズムは、ファシズムがその眠りから覚めて起き上がるまで、眠っていた。シオニズムはファシズムからの脅迫に直面せざるを得なくなったときにやっと政治問題化した。イタリアはシオニスト運動にとって実に難しい国であり、イタリアの一般のユダヤ人はシオニスト運動から自分を遠ざけたいと願った。このことは、シオニストたちがやがて来ることに十分準備できていたことを意味するだろうか。最終的に、ラッテスはユダヤ人との関係を壊したのはファシズム自体ではなく、決定的な要因はドイツとの同盟である、と主張した。ラッテスによると、初期のユダヤ人の間の反ファシズムはユダヤ教のせいではなく、むしろ彼らがイタリア人だからであった。当然だが、イタリア人の反ファシストたちがいたのだ。
シオニズムは非常に小さな運動として始まった。そしてファシズムはイタリアのユダヤ人の間では人気があった。シオニズムはファシスト運動から受けていた注目のためにより政治的になった。シオニストたちはユダヤ人コミュニティーの中で孤立していった。最終的に、ドイツとの同盟がムッソリーニのイタリアを反ユダヤ主義と人種主義に導いていったのだ。
【訳出、引用終わり】
http://www.wzo.org.il/en/resources/view.asp?id=585
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注目すべきことは、この文章作者が、「反ユダヤ主義がシオニズムが成功を収めるために必要である」ことを、作者自身は用心深く「議論のあるところ」と断ってはいるが、主張している点である。シオニストにとって、反ユダヤ主義の薄いイタリアという国が「非常に難しい国」であり、ナチス・ドイツとの同盟によってやっとのことでシオニズムを浸透させることができた、という論旨は明白だろう。
再度強調するがこれはシオニスト本流のサイトに載せられたものである。いくら「研究論文」とはいっても、この主張が「中央」のそれとかけ離れたものであれば、決して公開しないだろう。つまり、シオニスト自身が以上のような見解をおおやけに認めているのである。
ただ、この論文の作者は、イタリアのユダヤ人が元々セファラディであってシオニスト本流のアシュケナジではなかったことを無視している。これは欺瞞だ。そして、イタリアをドイツとの同盟に追いやったのがイギリスであり、結局はイギリス(つまりロスチャイルドを主体とする英国ユダヤ)の策略であったことにも思い当たっていない(あるいは意図的に省いている)。
ここまでくれば、シオニズムの発展とイスラエル建国、そしてその拡大にとって、ヒトラー=ナチスの果たした役割の大きさがはっきりとしてくるはずだし、その背後の存在も浮かび上がってくる。
しかし残念ながらこの場では、ヒトラー=ナチスとシオニズムの関係についてまで触れる余裕は無い。すでにご存知の方も多いだろうが、この問題に関しては次のサイトをご訪問いただきたい。
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『偽イスラエル政治神話』2章:二〇世紀の諸神話(その1)
1節:シオニストによる反ナチズム運動(その1)
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-10.html
同上、(その2)[取引相手のナチを救ったシオニスト]
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-11.html
同上、(その3)公式の歴史家による歴史のごまかし
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-12.html
* 本当は『偽イスラエル政治神話』を全部取り挙げたいのだが、時間の少ない方のために、訳者の木村愛二さんには申し訳なかったのだが、特にシオニストとナチスとの関係について詳しく述べられてある個所のみを選んでご紹介させていただいた。
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また参考までに、次の二つの資料もご紹介したい。
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シオニズムとナチズムの関係(映像:Situation on the Middle East)
http://groups.msn.com/SitutionintheMiddleEast/yourwebpage.msnw
エジプトのメディアの反ユダヤ主義(ADL)
http://www.adl.org/egyptian_media/media_2002/comparison.asp
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結局、イタリアの保守層の中で生まれ育ち、ファシズムの流れをも受け入れるベルルスコーニが、最初から反ユダヤ主義・反シオニストになるはずが無いのである。元々からユダヤ主義とシオニズムに親近感を抱いているのだ。
またイスラエルにしても、ムッソリーニは、本来ならば「愛すべき仲間」以外の何物でもない。この点はシオニストの本流なら完全に理解している、と考えるべきである。要するにイスラエルとベルルスコーニは『相思相愛の仲』といったところなのだろう。政治的・経済的な利害関係以外に、ちゃんとこのような歴史的な事情も存在しているのである。
ベルルスコーニがナチスを悪し様にけなしてムッソリーニを持ち上げるのもまた当然で、そもそもムッソリーニとヒトラーが仲の良いわけが無い。第1次世界大戦で三国同盟を裏切ってオーストリアからチロルの南のトレンチノを分捕ったイタリアをドイツが快く思うはずは無いし、イタリアにしてもチロルを取れなかった悔しさがファシスト党を中央政界に押し上げた理由の一つにもなっているのだ。反共という点ではつながっていてもそれ以外では手を結ぶ要素は無かったはずだ。それを無理やり結びつけたのはやはり英国、つまりロスチャイルドを筆頭とするユダヤ勢力であろう。何のために? 言うまでもあるまい。
(了)
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シリーズ:ベルルスコーニを罵倒する(過去ログ)
http://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/969.html
ベルルスコーニを罵倒する:(1)ムッソリーニの生まれ変わり?
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/391.html
ベルルスコーニを罵倒する:(2)メディアの帝王、マフィアの世話人、隠れP2