現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ35 > 645.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 日本とは何か 投稿者 愚民党 日時 2004 年 5 月 15 日 02:03:24)
愚民党さん、お久しぶりです。今回の投稿に触発されるものがあり、横レスで失礼します。
また、東北原人さんには割り込みレスになりましたことを陳謝いたします。
さて、以前にも書きましたように、「日本とは何か」と自問するのを止めてから大分久しくなります。その契機の一つとなったのが、こう呼んでよいものか判断が難しいのですが、実は網野史観でした。無論、ご紹介の対談集にもあたっています。日本というMatrixが受けとめたものが、日本の組成となる諸々のethosを生成して来たことは間違いないでしょうが、それ等が今日の世界においてどれほどの普遍性を有するのか拙速に結論を出せないと考えていますし、寧ろ強い疑念を懐いています。
普遍性の意味の充溢は大自然に象徴される対称性(ethos)が今日の世界を主導する人工的所産(ユダヤ・キリスト教的一神教及び資本主義)である非対称性(pathos)を完璧に受けとめることができるか否かに掛かっていると思われます。すなわち、同心円の中心に対称性を、周縁に非対称性を据えた運動体において、非対称性の拡張するエネルギーを対称性がどこまで制御できるかという問題なのです。逆に、非対称性が如何に対称性の豊穣を促すことができ得るかといった問題でもあります。因みに(最終)戦争とは非対称性を以ってして非対称性を乗り越えようとする当為と言えるかも知れません。
私は単に日本的と冠せられる対称性では世界的な規模で進行する非対称性を捉えることは最早不可能であろうと見ています。その理由の第一は永きにわたり日本的ethosが他国のethosによる苛酷な蹂躙を受けることもない環境で育まれたものであるがためにリアルに非対称性を認識できなかったことです。第二には極最近までその統体である国家も西欧的pathosによる支配を受けることがなかったために、非対称性を非対称性によって超克していくときの起爆剤となり得るようなルサンチマンを抱懐しなかったことです。
>近代主義の言葉では日本とは何かを探求できず失敗してしまう。
>日本とは何かを思索することは日本常民の課題である。
>日本には何層にも渡って、「もうひとつの日本」が生成している。
>その日本とは、村上龍「5分後の世界」である日本ではない。
>古代、中世、近世からの呼び声が現代とリンクしている葦の原、沼である。
他のスレッドでも愚民党さんが語られている「近代主義の言葉」には少なからず引っ掛かるものがあったのですが、ご詳説いただければ幸せに存じます。
私自身、過去に日本語形成の起源を探索したことがあるのですが、途上で中沢新一氏の言説に触れて以来、それ以上遡行するのを踏み止まることになりました。それは日本語の形成過程の特徴に「二語併記」があると云うものでした。「二語」とは一説には紀元前3世紀頃に弥生人(呉人あるいは越人と言われる)によって伝えられたものが既に混交していた縄文語と融合し、やがて倭語となったものです。その融合形態が枕詞と漢語の「二語併記」であったのですが、同じ光を表わす言葉である「ひさかた」や「光」を「ひさかたの光」と、同様に「たらちね」や「母」を「たらちねの母」と表記したのは代表的な例です。
しかし、大陸からの侵入を受けたのにも拘わらず、何故「ひさかた」や「たらちね」が駆逐されずに枕詞として残り併記されたかというと、中沢氏の説では大和朝廷成立以前の大陸からの侵入が実際は敗者の侵略意図の希薄な流入であり、しかも結果的に緩い支配であったことが幸いしたとしています。そして、「二語併記」は「二項併記」という語法様式にも見られるようにしばしば曖昧さを揶揄される日本的思惟を表象して今日にも引き継がれているようです。
彼らの言葉が中空を滑空する組成で紡がれていることをもって村上龍も三島由紀夫も近代主義者であると見ることは首肯したいと考えます。しかしながら、「二項併記」を固有性とする日本的思惟がどの程度的確に、または戦略的に二項対立形式が支配する世界情勢を捉えることができるのか、甚だ危ういものと考えています。
私は、対称性の唯一の拠り処はやはり地球というMatrixではないかと思っていますが、日本という対称性がどう結節するのかリアリティーを感受してはいません。おそらく、「降服」をモメントにするか、Matrixへの「呈上」に到達しなければ得られない境地なのかも知れません。そんな想いを深くしている今日この頃です。
また、会いましょう。