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11 - May
◆ 「被差別民族とアジア主義(仮題)」(別冊歴史読本掲載予定100枚)
宮崎学さんと数時間に渡って水平社運動とアジア主義の関連について詳細な議論を展開しました。天皇制をめぐる深い議論にも入り込んでいます。本丸の部分はぜひ『別冊歴史読本』をお読み下さい。今月中には出ます。ここには比較的ウスイ部分のみ、抜粋します。本丸の部分は、めっちゃ濃いです。
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宮台 今から20年も前になりますが、部落のフィールドワークをして感じたのは、物質性
と精神性の問題です。物質的な補填は明らかに必要でしたが、当時既に特措法で豊かにな
る者への嫉妬が起こっていて、これをどう逆転すればいいのだろうか、と私は考えました。
鍵はやはり「ヘリティジ」つまり相続財産だと思うのです。一方に、弱き者たちが中央政
府によって物質性を強力に補完されることで、長らく続いてきた自律的相互扶助の伝統的
美風や共同体的美風が失われていき、「俺たち部落民は物質性を補完されて一般人化する
だけでいいのか」という問題が生じる。他方、廃藩置県以降の近代化政策で地域的ヘリティ
ジが中央に簒奪され、かつ田中角栄以降に集権的再配分が徹底的になされた結果、日本は
どこもかしこも同じ風景になって、「俺たちはいったい誰なのか」という問題も生じる。
これは普遍的な問題です。沖縄では95年に米兵による少女レイプ事件が起こり、県民感
情を鎮めるために沖縄特措法ができ、多額の補助金と交付金が付けられました。その結果、
鈴木某や松岡某みたいな中央の利権政治家や利権官僚のポッケにお金が入り、地域の利権
ボスのポッケにお金が入り、その地域の利権ボスに地域の土建屋がぶら下がり、土建屋の
下に沖縄県民がぶら下がるといった具合になりました。つまり、弱者が「弱者に手当てし
ろ」と当然の要求をした結果、集権的再配分システムに組み込まれ、地域の自律的相互扶
助の美風が失われ、他と入替え可能な「平らな場所」になってしまうのです。これは沖縄
に先立つ形で日本の各地が列島改造論以降経験してきたことです。しかしこの問題に最も
早く気付いたのは、同和対策特別措置法下の被差別部落の人たちです。
日本の共同体にもともと自律的相互扶助の美風がありました。もちろん欧州の共同体に
もありました。欧州は「欧州主義」に基づき、アメリカン・グローバライゼーションに抗
してこの美風を自覚的に維持して来ました。ところが日本では全国的に失われてきました。
ところが部落の方々は、長らく弱者に留め置かれたことがあって、辛うじて自律的相互扶
助の微風を残しており、弱者に優しく、誰も助けようとしない行き倒れの人間を助け続け
てきたわけです。「アジア主義」とは、欧州主義と同じで、もともとは帝国主義列強の圧
倒的な力から、自律的相互扶助の伝統共同体を護ろうとする志でした。つまり流動性から
多様性を護持せんとする思想でした。ここでも部落問題とアジア主義がつながるのです。
我々がますます「透明な存在」「平らな存在」になりゆく中、我々が「我々たる由縁」
を取り戻そうとするなら、日の丸がごときに帰依して君側の奸臣を利するのでなく、国家
に簒奪されゆく自律的相互扶助のシステムやメンタリティをこそ護持するのでなければな
らない。であればこそ、集権的再配分によって物質性を補完してもらいさえすればオッケー
だなどと言うわけにはいかない。精神性を、魂を護持しようとすれば、ローカルな自律的
相互扶助、すなわち分権的再配分を賞揚せざるをえない。物質性と精神性の齟齬は、この
ようなやり方で対処する以外にありえない。それが私の考えるアジア主義です。
戦後の日本では、日の丸に寄り縋るヘタレが右、赤色旗に寄り縋るヘタレが左と呼ばれ
てきました。大いなるものに寄り縋るヘタレぶりにおいて目糞鼻糞。時に応じて大いなる
ものが共産党やコミンテルンから国家へと変じたに過ぎない。であれば、右や左とは何か。
政治的再配分を肯定するのが左、否定するのが右です。ネオリベで言えば、否定するから
「小さな政府」となり、小さな政府では担えない分を伝統的共同体や性別役割分業に負わ
せて「保守」となる。古典的右翼とネオリベとの違いは、前者が「伝統共同体の護持→小
さな政府→集権的再配分の否定」となるのに対し、後者が「集権的再配分の否定(財政逼
迫)→小さな政府→伝統的共同体の護持」となること。似ているようで、精神性において
違います。極右とは古典的右翼のラディカル部分で、アメリカで言えば「憲法修正第二条
に基づいてリンチや謀叛を肯定する」ミリシア(民兵)、日本で言えば「愛郷の志に基づ
く謀叛を肯定する」2・26青年将校や三島由紀夫の立場ですね。
政治的再配分を肯定する左には、マルクス主義からリベラリズムまで含まれますが、今
日ではそれよりも、以下の二つの立場を区別する必要があります。すなわち、国家による
集権的再配分を重視するのか、ローカルな自律的相互扶助に基づく分権的再配分を重視す
るのかです。マルクス主義は集権的再配分、社会福祉政策も集権的再配分、田中角栄から
経世会に連なる補助金交付金行政も集権的再配分です。どれも自律的相互扶助のシステム
を壊滅させる点で共通します。これに対し、アジア主義者、アンチ・スターリニズムを主
張した極左の一部、ネオリベに対抗する新社会民主主義としての「第三の道」を主張する
者は、自律的相互扶助のシステムを擁護してきました。
すると興味深いことに、国家による集権的再配分に抗してローカルな共同体の自律的相
互扶助を擁護する点、極右と極左は円環するのです。違いは「内在」ならざる「超越」を
肯定するか否かにある。廣松渉に見るような新左翼のアジア主義者との近接や、三島由起
夫の全共闘への条件付きシンパサイズは、そうした理路があります。私自身が極右師匠と
極左師匠に同時に師事したのも、同じ理路です。実際、アジア主義に連なる極右が、新左
翼を長らくケツ持ちして来たんです。そうしたラディカルな右や左の本義本懐を思い出す
ために、日本でそうした本義本懐を途切れずに維持してきた被差別部落の方々に、どんど
ん情報宣伝活動をしていただく必要があります。その意味で、ハンナンの浅田さんの振舞
いには明らかに「義侠の筋」があることを、何としても述べ立てなければなりません。
宮崎 時限立法が切れて、例えば福岡などの場合は、産炭地と部落という関係が深かった。
つまり、ボタ山があるところには、部落ありと言われた。福岡の産炭地の被差別部落とい
うのは、本当に悲惨なのです。石炭産業があった頃は、会社もあったし、そこで働けば、
食っていけたのです。しかし、60年に三井三池の大争議が起こるわけです。会社側も、労
働組合側もガンガンやりあう。しかし、この人たちは両方ともいなくなってしまって、自
分たちだけが取り残されてしまった。土地はやせ衰えているし、本当に悲惨な状況になっ
ています。歴史的に言えば、新しい形の部落かもしれないけれども、新しい形での構造と
いうのは、結局日本の成熟する資本主義の過程の中でクリアできなかった地域としても現
存するし、人としてあるといえるのではないでしょうか。
宮台 どこの社会でもそうですけれど、ダーティーワークほど手当てを必要とする。それ
が人の道であり、アダム・スミスの「同感論」からロールズの「無知のベール」論に至る
近代リベラリズムの本義です。ところが分断統治のガバナンス・エンジニアリングによっ
て、同感可能性を分断する形である種の差別構造が人為的に持ち込まれ、ダーティーワー
カーたちを手当てするどころか、「劣っているのだ」「穢れているのだ」と後知恵的に仕
分けていき、手当てを放棄するようになってきています。手当てのコストを支払わないこ
とを正当化するための、専ら富者を利するネオリベ的エスタブリッシュメントのエゴイス
ティックな戦略であり、本義を心得た極右と精神性において分岐する地点です。私の考え
では、ヘタレな右とは区別される極右とは、そしてアジア主義者とは、自分だけでなく全
ての者たちの、共同体的自己決定を尊重する者の謂いです。
宮崎 今の日本の構造の中で、ダーティーワークに関する考え方を根本から変えなければ
ならない。
宮台 同じことがこれから起こる可能性があります。海外から日本にやって来た人たちに、
社会に不可欠なダーティーワークに割り当てておいて、「ダーティーワークをしているか
ら穢れたるものだ」などと、手当てをしないことを「聖穢」観をもって正当化するような、
恥辱にまみれた精神が、澎湃として拡がる可能性があるのです。
宮崎 アウトローの話になるけれど、これからもう日本のヤクザは抗争事件を起こさなく
なるのではないでしょうか。外国人を雇って抗争事件を起こすということになります。ヤ
クザはいけないということで、叩くだけ叩いたわけですが、結果的には、そういう風になっ
てしまうことでしょう。根本に入り込まないで、対処療法だけを官僚の言葉で積み重ねて
言った結果だと思うのです。ある
宮台 アウトローの中でも、集権的再配分の利権に群がる官僚どもに追いつめられた結果、
背に腹はかえられずに利権官僚のケツを持つことで生き延びようとする者たちと、集権的
再配分のシステムに抗してそれでも何とか自律的相互扶助のメカニズムを護持しようとす
る者たちとが分岐するのでしょう。無惨な話です。そして集権的再配分の利権に群がる官
僚どもが、集権化の正当性として、セキュリティとエスニシティを結びつけた情報宣伝を
するでしょう。エスニシティ差別は言葉や肌の色で差異を識別できるので、部落のように
居住地域に言及する必要がなくなります。そうやって、官僚のケツを持つアウトローが新
たな差別に加担していくことにもなりえます。
宮崎 最近のフリーターの男の子女の子と話してみると、結構学歴と言ったものでの差別
などが強くなっているのではないでしょうか。
宮台 その通りです。フリーター現象については、エセ右とエセ左のそれぞれからの定番
な解説があります。エセ右は「勤労倫理の低下がすべての原因だ」とし、エセ左は「イレ
ギュラーな労働力を必要とする資本の論理のなせるわざだ」とします。ところが社会学の
研究では、学校化がベーシックなファクターになっていることが分かるのです。中高時代、
勉強ができないとか仲間に入れないなど、学校的なものに適応できないつ連中が、「いい
学校→いい会社→いい人生」といった「レギュラーな」ライフコースはもはや自分にはあ
りえないと断念するのが出発点です。かくして、地元の人間関係ネットワークに所を得て
適当に面白おかしく暮していこうという話になり、コンビニやファミレスやカラオケ屋で
バイトしながら、ダンスやったりバンドやったりすることにな。当初は「将来はダンサー
になる」などと夢で自分を正当化しているが、たいていは2年経たずに夢はあり得ないと
知り、あとは「終わりなき日常」を生きていく、という順序です。
宮崎さんのおっしゃったように、昔の学閥とは違う。もっと幅広い現象なのです。若く
して学校的なものから外れることで、「世の中は学校的なものが動かしているはずだから」
と、レギュラーな道筋から外れたと思い込む。そういう彼らを懐柔するのがオルタナティ
ブな「専門学校的な夢」ですね。ダンサーに、バンドマンに、映画監督になれるかもしれ
ない、云々。なれる人間は殆どいない。確かに夢なくしては砂を噛むような毎日になって
しまうでしょうが、まさにそうした夢が与えられることで、比較的アノミーを来さずにイ
レギュラーな労働力が安定供給されると同時に、学校的なものも温存されるわけです。
宮崎 私の知りあいが割と大きなメンテナンス会社をやっています。メンテナンス会社と
いうのは、ホテルとか、病院とか、学校とかの掃除です。年齢を問いませんから、1人の
募集に300人来るといっていました。たぶん高年齢の方でもそういう問題が起こってき
ているのだろうなということも想像がつきます。
宮台 そうであれば、先ほどおっしゃっていた自律的相互扶助のシステムを、単なるノス
タルジーを超えて、それが日本でどれだけ長い間機能してきたのかを情報宣伝し、自分た
ちが何を失ってきたのかを想像可能にする必要があります。いつの時代も人の道の観点か
ら再配分を必要とする者たちがいて、社会的なモラルハザードの観点からも、実存的な尊
厳(自己価値)の観点からも、「上から金をもらえば済む問題」ではない以上、自律的相
互扶助のシステムが永久に必要とされるはずです。当然ながら、これらのことを部落差別
に言及しないで広めていくことは難しいと思います。こうしたことを踏まえると、差別の
問題は、一見解消しているように見えて、実存構造の問題や社会構造の問題も含めて、本
来ならばもっとホットにならなければいけないテーマではないでしょうか。
宮崎 自由競争という言葉で言ってしまっているのだけれど、要するに弱い奴はくたばれ
ということなのですよね。しかし、本来あった水平社運動にあった相互扶助とは、弱い奴
を生かそうというところからスタートしているわけです。そうした水平社の精神をどう復
権させるかが問われている。
宮台 右翼左翼という概念の本義本懐をお話ししましたが、ローカルな共同体を護持する
ための自律的相互扶助に関心を寄せる点でも、そしてまた自分の共同体だけでなく全ての
共同体の共同体的自己決定を推奨する点でも、極右と極左は通底しています。であれば、
そうした連中の発想が国内に限定されるということはありえず、国外に目が向かなければ
ならないはずです。そう考えると、日本のエセ右とエセ左には、部落差別の問題と切り結
ばないというだけで、既に本義に悖る独善性や勘違いがあったと言わざるをえません。
宮崎 私は、左翼どっぷりでしたけれど、ちょうど赤色旗が盛んなりし頃、日の丸の人た
ちは、どのような相互扶助をしていたのだろうかというと、明らかに右翼の相互扶助のほ
うが、左翼の相互扶助より優れていました。江藤淳と三島由紀夫の交友関係ひとつとって
みても、すごくかばいあっていることが分かる。相互扶助しているんです。戦犯をどう救
うかという意識からはじまったところがあったわけですが、旗色は悪かったですよ。しか
し、旗色がいい赤色旗の連中は、相互扶助の思想からは無縁の人たちだったと思う。そこ
で左翼は負けたのだろうと。
宮台 完全に同感です。その意味では、三島も江藤も共通して、日の丸はネタでしたよね。
自律的相互扶助、あるいはこの相互扶助を支える美風、あるいはこの美風を支える聖性、
この聖性を支えるヘリティジに、関心があったわけです。それが天皇であるかどうかは二
次的な問題で、論理構造こそ大切です。それに比べれば、国民を屠る「君側の奸臣」ども
が日の丸のもとで煽り立てる日本国家への貢献など、右の本義とは本来関係ない。もっと
プリミティブな感受性に焦点があったのです。
今を生きる我々はヘリティジを失い、聖性を知らず、美風を知らず、ゆえに自律的相互
扶助を知らない。だから今の日本人が愛国を語るとあまりにも抽象的になってしまい、大
いなるものに寄り縋るヘタレどもの「弱い犬ほど吠えたがる」現象に堕してしまう。だか
ら2ちゃんねる現象に象徴されるように「自衛隊派遣に反対するサヨ、賛成するのがウヨ」
という三島由紀夫が聞いたら気絶するような低脳な話になってしまう。自衛隊の派遣に賛
成すれば愛国者だと? 馬鹿を言え!
こういう馬鹿を相手にしても始まらないのですが、確かにアジア主義をタブーとした護
憲左翼にそもそもの責任がある。しかし、平和憲法の下で惰眠を貪るエゴイステックな護
憲左翼を批判することが、直ちに小泉や外務官僚の輩による「米国ケツ舐め自衛隊派遣に
賛成」となるなど、ありえない話です。小泉首相こそは、利権官僚どもの御輿に担がれ、
集権的再配分によって簒奪されつつ生き延びてきた地方の共同体を、20年遅れのネオリベ
的合理性の小賢しさによって最終的に解体し、官僚集権制を完成させる国賊です。日本の
アジア主義的伝統や、愛国の志ゆえの謀叛を肯定する極右の伝統からすれば、実にとんで
もない。あるいは「敢えてする日米安保」という本義を忘れない保守本流の志からすれば、
小泉はまさに吉田茂の風上にも置けない売国奴です。
宮崎 かつて日本の軍隊の中で強い兵隊と言われた人たちの大半は、ベトナム戦争の黒人
兵と同じで被差別部落民が多かったのですよね。
宮台 日米戦争のときの日系人部隊と同じですね。
宮崎 よく言われるのは、爆弾三勇士と言われる人たちを調べてみると、部落民だったわ
けです。それは、水平社運動が、途中戦争でいろいろと捩れていくのだけれど、戦争に勝っ
て差別をなくそうという人もいたわけです。それと同様に天皇制という問題とも関係する
のだけれども、軍隊は天皇の軍隊、皇軍なわけです。この天皇の軍隊の中では皆平等だ。
軍隊の中には差別はないのだ、ということで、被差別部落民が軍に協力するということが、
意識の上では成立する。
宮台 日系人部隊についても同じです。差別された日系人たちは、合衆国憲法に他のいか
なる者どもよりも忠誠を誓いうることを示し、自らのポジションを上げようとしました。
曲がりなりにも建前として平等な軍隊の中で、自らが誰よりも能く天皇に忠誠を誓いうる
ことを示し、天皇に近かりしことを証明せんとした部落民たちも同じです。加えて、敗戦
して日本人がアメリカの奴隷となってしまっては、部落解放もクソもなくなるのもあった。
宮崎 だから福岡連隊事件といって、軍隊の中で差別問題が起きたときに、大騒ぎになる
のですけれども、そのときにその理屈で攻められると軍隊は動揺したのです。我々は、天
皇の赤子ではないか。赤子の間で差別するということはけしからんではないかという理屈
は、論理としてはそうなのです。だから、認めざるを得ないわけであって、軍は謝罪する。
軍との関係で言 、とかつてはそういうことがありました。もう一つ同じような同じ
ような意識の中であったのは、「近代の奈落」でも触れたことですが、被差別部落民出身
でからゆきさんとして、アジアに売られていった女性たちがいるのです。この人たちが、
日露戦争のときにやはり同じような意識を示すのです。マラッカ海峡にバルチック艦隊が
入ってきたときに、50隻を超えるすごい軍艦がお国に攻め入ったら、お国の男どもは皆殺
されてしまうのではないかということをマラッカ海峡で見ていた。彼女たちは自分の身を
売って稼いだ金を全部、日本の領事館に持っていったわけです。現在のお金に換算すれば、
1人あたり1千万円単位のお金なのです。お国ということに対する意識は、ものすごく強
烈にあった。
彼女たちは国から捨てられたにもかかわらず、お国に対する意識は強かったのだろうと
思います。そのとき同時に、今度イギリスやアメリカとやるときはこの3倍も4倍も持っ
てきますよ、と言ったそうです。彼女たちは、黒人も客として相手にしたし、インド人も
相手にした。自分の体は汚れきっているというのですが、そういう人間にとって、一番つ
らいのは、同じ日本人で自分の出自を知っている人間が、来ることだったと言うのです。
物凄い逞しさが一方にあって、物凄い寂しさがまた一方にある。
宮台 彼女たちの志に全面的に賞賛を送ります。が、しかし、そこに巧妙かつ定番の軍事
的動員のアーキテクチャーが機能していることも忘れてはいけません。アメリカの海兵隊
に下層黒人たちがたくさん入隊します。そうしないと食えないというファクターよりも、
建前にせよ平等が貫徹しうる場所であることが大きい。わかりやすく言うと、国内的な差
別に係わりあっているより、戦争に勝たなければならないので戦争に勝つための能力を最
大限に重視するという原則に立たざるを得ない。だからこそ、差別されたる者が最も勇猛
果敢な戦績を残す。誰よりも国体への貢献をなす。
しかしここにも逆説がありうる。冒頭近くで言いましたよね。「国体を護ることが自ら
を護ることにつながりうるのか」。自らを永久に差別する国体なりシステムなりを護持す
るために、差別されたる者こそが最も貢献してしまうという悲惨な逆説がありうるのです。
日本だけでなく古今東西に見られる逆説です。その延長線上に、アジア主義的な連帯に最
も動機づけられうる被差別民こそが、アジアを屠る拡張主義的な侵略行動を翼賛してしま
うという悲惨な逆説も生じえます。
宮崎 我々の世代からすると、戦前の社会運動の中で水平社運動というのは、他の労働組
合などから比べても、規模も大きな運動だったわけです。左翼右翼で言うと、運動体とし
ては左翼の牙城のように考えがちなのだけれど、そうではない。水平社ができたのは、よ
り良く生活しましょうという話でやっているわけであって、保守か、革新かというような
対決ではない。それが、反差別運動の特徴だろうと私は思っている。言ってみれば、社会
改良運動なのです。革命運動ではないのです。
だから当然、戦争みたいな事態が起こってくると、分解するわけです。戦争に賛成した
から、その運動がいいとか悪いとかというのは、反体制の運動に対しては言われる筋合い
はあるかもしれないが、水平社運動に対してはいわれる筋合いはないはずです。ところが、
戦後の左翼は転向した人間に関する見方が、偏狭だと思います。西光万吉という一番の指
導者が、転向したから彼の評価できないとなっています。しかし、水平社運動はそうでは
ない。転向した西光万吉も被差別部落民だというが彼らの意見なのです。
宮台 自律的相互扶助の風呂敷の中に包まれるわけですね。
宮崎 大政翼賛会に吸引されていくという歴史を持つ水平社運動ですが、それは世の中の
流れであって、そのことをフレームアップして批判される筋合いはないのです。マルクス
主義者からすれば、許すべからざる行為ということになるのだろうけれど、あまり大きな
問題ではないのではないか。転向者ということで社会的な批判を受ける人がいる。利権を
あさってパクられる人がいる。それらを包み込めるような内容をもっているから、水平社
運動は成立していたのだと思います。
アナ派の平野小劔など、熱烈な天皇主義になるのです。彼は、水平社運動から離れていっ
たのだが、それでも、部落の問題に対していろいろな意見も言うし、集会にも出るし、運
動自体が彼を許容するわけです。決してイデオロギーによって分けていかない。
宮台 そこに実は、今日的には最も難しい問題があるのかもしれません。「我らは同じ弱
き者なり」ということで、自律的相互扶助の相互尊重という風呂敷に包んだときに、どこ
までが「我ら」なのかということです。これが、先ほどのアイロニカルな逆説にも繋がる
わけです。「我ら」が「アジアの弱き者ども」を意味する場合には、侵略などという話に
はなりえないわけです。ところが「我らは弱き者なり」が国内的視点の中に限定されてい
れば、「我ら」が生き残るためにこそ、ここは一つ大政を翼賛し、天皇の赤子として誰よ
りも忠義なることを示し、侵略の尖兵として奮闘せん、という話になりえます。
誤解してほしくないのですが、単に良し悪しを述べているのではない。このようなアイ
ロニーを誰も逃れることができないということを言っているのです。あたかも自らのみは
逃れているかのごとき高見に立つマルクス主義者をこそ、批判したいのです。「我らは同
じ弱き者なり」というときの「我ら」とは、いったい誰でありうるのかという問題。これ
は未来永劫つきまとう問題なのだと思います。今後「被差別部落」というカテゴリーがま
すます皆の知るところではなくなるときに、それゆえにこそ、ますます重要になっていく
問題だと思います。
カテゴリー:お仕事で書いた文章
投稿日時:13:15:51
投稿者:宮台 真司
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=93