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『週刊朝日』vol.109(No.23) 5/7・14合併号 (2004/04/27発売 \305+5%税) より
外務省は両親にも「会見しないほうがいい」と言った
安田さんと一緒に拘束された渡辺さん
安田さんと一緒に拘束された渡辺さんは本誌の取材に事件のことや向けられた「自己責任」の声などについてつぎのように語った.
◇
現地では行く先々の治安状態を地元の住民に尋ねながら車を進めるなど危険回避のための注意は払っていたつもりでした. ただ, その住民の通報で犯行グループに私たちの存在を知られてしまった可能性が高いことが後でわかりました. 住民たちの武装グループに対する共感がそれほど強いとは予想していなかった, という点で私の情報収集力が不足していたと反省しています.
帰国してみると私たちの「自己責任」を問う声が高まっているのに驚きました. 解放された直後に私がロイター通信の質問に答えている場面がテレビのニュースで放映されると 実家に「お前の息子はしゃべりすぎだ」といった匿名の電話が十数本あったと聞いています.
NGOやジャーナリストは危険を顧みずに現地で働くのが仕事ですから, 拉致されたことは自業自得に違いありません. その半面, 私たちのことで大勢の人たちに心配をかけたことは, たいへん申し訳ないと思うので, 帰国後は元気な姿を見せ, 公の場でちゃんと釈明すべきだと思っていました.
後で知ったことですが, 両親が成田空港へ私を迎えに来るとき, 世話をしてくれた外務省の職員から,「渡辺君のためにも, 会見させないほうがいいですよ」と言われたそうです. それで両親は, 到着ロビーで私と会ったとき, すぐに帰ろうと言ったらしいのです. 私も到着する前, 一緒に帰国した外務省の職員から「ご両親がやりたくないと言っているので, 会見はしないほうがいいのではないか」と言われました.
また, 私は外務省職員に「メディアが希望するなら, 日本到着後に会見したい」と伝えていたのに, メディア側には伝わっていなかったこともわかりました.
外務省は, 私たちの自己責任に言及する一方で, 私たちを釈明の場から遠ざけようとしていた感じがします. こうした自己保身や事なかれ主義の人たちに批判されるのは納得できませんし,「ご迷惑をかけました」と謝罪するつもりもありません.
日本で報じられていないだけで, 自衛隊の宿営地のあるサマワでも, オランダ軍や米軍による反米勢力への攻撃が続いていて, 多数のイラク市民が巻き添えになって死傷しています. その状況の中で自衛隊は駐留を続けているのです.
私たちが負うべき「自己責任」はありますが, イラクで日本人だというだけで拉致されるような状況をつくった責任は, 日本政府にあるのではないでしょうか.
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『週刊朝日』vol.109(No.23) 5/7・14合併号 (2004/04/27発売 \305+5%税)
武装グループに拘束されたジャーナリスト 安田純平さんが語った解放までの3日間
イラクで相次いだ武装グループによる外国人の拉致・拘束事件. 無事解放され, 帰国した邦人のうちの一人でジャーナリストの安田純平さんが本誌に解放されるまでの約70時間を語った.
安田さんは信濃毎日新聞の記者だったが03年 1月に退社し, 翌2月から3月にかけてイラク政府発行の「人間の盾」ビザでイラク入りし米軍の空爆下で取材活動を続けた. 今回は 3月16日からイラクに入り, 4月 7日に発生した3邦人の人質事件の取材も手がけた.
【4月14日】
≪安田さんと 4月から同じアパートに住んでいた市民団体メンバーの渡辺修孝さん, イラク人通訳の3人はファルージャの戦場取材を目指してタクシーでバグダッド郊外のアブグレイブに向かった. 途中, 車に乗った5人組の男たちから「米軍ヘリの墜落現場を案内してやる」と持ちかけられ後をついて行くと突然3台の車に囲まれた. 安田さんと渡辺さんだけが銃を突きつけられ.て引きずり出され, 男たちの車に押し込まれた. 午後2時半ごろだった≫
車をおろされ目隠しを外されるとそこは小さな民家の中でした. アブグレイブ近くだろうと思います. 「イラクへ何しに来たのか」などの簡単な質問をいくつか受けた後, 「これからビデオ撮影をする」と言われました. ところが彼らはビデオカメラを持っていないんです. 私のカメラを使うと言いだして私に使い方を聞いてきました.
撮影中, 銃や刃物を突きつける「演出」はありませんでした. 「身分証を手でかざすようにして持っていろ」とは指示されましたが, 最初の撮影では録画に失敗したようでした. 撮影後, リーダー格らしい男からは「このテープを(カタールの衛星テレビ局)アルジャジーラに送る. 放送されたら解放してやろう」と言われました.
1時間もしないうちに, 別の民家へ移されました. 家の外では牛や鶏を飼っているようで, 戸口の外にはトマトやキュウリの畑も見えました. 監視役の男に職業を聞くと, 農民だと答えました. 監視役は銃を持っていないし, 外からは子供たちの遊んでいる声が聞こえてきて, とてものどかな雰囲気でした.
この日は, 銃を突きつけられた時の恐怖感がまだ残っていましたし, 3邦人の人質事件で日本が大騒ぎになっていることも頭をよぎって,「うちの親にも迷惑をかけることになるな」と考えたりもしました. ただ, 男たちから「解放」という言葉を聞けたことや, 監禁場所の雰囲気から, なんとなく手荒なことはもうされないだろうと思い始め, そうなると「武装グループの取材をしたかったのだから, この機会に」という気持ちのゆとりすら出てきたのです.
子供と遊んだ平穏な拘束生活
食事は豪華, アラビア語も習う
食事は, 大盛りのご飯に鶏肉をのせた, もてなし用の料理で, 10歳くらいの少年がお茶を運んできてくれました.
【4月15日】
この日も1回, 移動させられました. 目隠しをさせられるのは移動のときだけで, 部屋に入ると外されます.
武装グループといえば, クフィーヤ(頭に巻く布)で顔を隠している男たちを連想しますが, 私たちを拘束した男たちは, 覆面はしていませんでした. それでも私が身ぶりでクフィーヤの巻き方を教えてくれと頼んでみると, 男たちは丁寧に, しかも2通りのやり方を教えてくれました. 日本人がそんなことをするのが意外だったのか, 男の仲間たちが次々と見に来ては笑っていました. 児童用の教科書を使って, アラビア語も教えてもらいました.
とにかく暇だったので, 渡辺さんと「日本で自分たちはどう報じられているのかな」などと話し合ったり, 昼寝をしたり, 部屋に入ってきた子供たちと腕相撲をして過ごしました.
彼らの断片的な話をつなげると, ファルージャではスパイが米軍に攻撃目標を知らせていると信じられているため, ファルージャへ行こうとする外国人はすべてスパイだと思われているようでした. そこで周囲の村々で自警団のような組織が検問所を設け, ファルージャへ向かう人たちを片っ端から捕まえてはイラク人だけを解放していたので, ふるいにかけられたように外国人ばかりがいっせいに拘束される結果になったようです. 私たちは検問所で捕まったわけではありませんが, ファルージャへの道を尋ねながら, うろうろしている東洋人ということで, 目を付けられたのでしょう.
ときどき監視役に連絡を伝えに来る伝令役の男は, 片言の英語が話せました. フセイン政権時代は警官だったと聞きました. 彼には, 米軍の攻撃による被害を取材したいので, ファルージャへ連れて行ってくれ, と何度も頼みました. 彼はそのたびに,「よし, 明日連れていってやる」と答えていましたが, 結局は実現しませんでした.
一転, 自動小銃突きつけられ
「米国に従う日本人も殺す」
【16日】
この日連れて行かれたのは, 室内に黒板が設置されている学校の廃墟のようなところでした. 校舎に入ると, 中で待っていた男たちが, 血走った目をして「お前はスパイだ. FBI(米連邦捜査局)か, CIA(米中央情報局)か」「ファック・アメリカ(くたばれ米国)」などと叫びながら, いきなり自動小銃を突きつけて安全装置を外したのです. これまでと全然違う展開に頭の中が真っ白になり, 冷や汗が流れました. 今までの農家の監視役とは違い, この男たちは実戦を経験している, 本物の武装グループという緊迫感が漂っていました.
渡辺さんの尋問をその部屋でするため, 私が別室に連れて行かれました. 彼が尋問を受けている間, 上空から戦闘機の爆音が聞こえてきました. 銃を持った男の一人が,「あの音が聞こえるか. 米国に従う日本人も殺すぞ」と言いました. 私が「日本にも米軍基地があるので, 聞きなれた音だ. 日本も米国に占領されているようなものなんだ」と答えると, 彼は驚いた顔をしていました.
尋問役は, 英語の上手な中年の男でした. 名前やイラクへ来た目的などを尋ねられ, 最後に「お前を殺した場合に, 日本の首相は責任を取るか」と聞かれました. 私は「それはないと思う」と答えました. すると尋問役は最後にこう言いました.「ボスが決めることだが, 君たちは帰れると思うよ」
それから監視役の男たちと雑談しました. 彼らは「米軍に拘束され毎日殴られた. あいつらを必ず殺す」「手首を細いワイヤで縛り上げられる拷問を受けた」などと口にしました.「米軍と戦っているのか」と聞くと, 「この間, ヘリから降りてきた米兵たちの中に手投げ弾を投げ込んでやった」といった武勇伝も語り始めました.「四輪駆動車を何台も撃破したが, 米軍はすぐに片づけて自分たちの被害を隠してしまうんだ」と話す男もいました.
【解放, その後】
≪17日朝, 安田さんと渡辺さんは車に乗せられ, バグダッドで解放された. 武装グループからは前夜,「日本人はなるべくイラクへ来ないでほしい. なぜなら友人を傷つけたくないからだ. 自衛隊はイラクから出ていってほしい」とのメッセージを口頭で託されていた. 2人は午前11時ごろ, イスラム宗教者委員会の事務局があるモスクで保護され, ヨルダン経由で20日に帰国した≫
アンマンで確認してみたら, 拘束中に知人らから200通ものメールが来ていました. 14日の分は「拉致されたのは本当か? 連絡をくれ」というものがほとんどで, 15日以降のものは「無事でいてくれ」「生きていると信じている」といった内容でした. 毎日送信してくれていた人もいて, おもわずぐっときました. 少しずつでも全員にお礼のメールを返信するつもりでいます.
私は拘束中も「もし自分で危険な場所に飛び込んでおいて, 失敗して拘束されたので政府に助けてもらいました, となったら, ジャーナリストとしての将来はなくなるな」と心配したほどで, 政府に助けてもらいたいという気持ちはありませんでした.
いま盛んに言われている,「自己責任」論は, 実は「政府に迷惑をかけてはいかん」論にすぎない気がします. 「危険だから行くな」「政府に迷惑をかけるな」という議論では, 政府にできない草の根のNGO活動や戦争の第一線取材はやるな, と言っているのに等しいと私は思います.
イラクでは米軍が反米勢力をあぶり出すため, 賞金をつけて密告を奨励しています. 米軍が密告にもとづいて次々に市民を逮捕するので, 市民は周囲の人を信用できなくなるという, フセイン政権に逆戻りしたような恐怖社会になろうとしているのです. 拉致され拘束されても私はイラク市民が置かれている実情をこの目で見て伝えたいという思いに変わりはなく, 状況が許せば, できるだけ早くイラクへ戻りたい, という思いが募っています.
-- 構成 本誌 西堀岳路 / 朝日新聞社『週刊朝日』2004.05.07-14 pp.26-28
http://www.freeml.com/message/truce@freeml.com/0016559
緊急手記 拘束の3日間 安田純平(1)「墜落場所案内」…やられた 早く現場へ 陽動作戦に引っかかる【東京新聞】紙から
http://www.asyura2.com/0403/senkyo3/msg/213.html
御投稿者 クエスチョンさん 日時 2004 年 4 月 24 日