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http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040428i101.htm
奈良市の法華寺境内で、旧講堂の基壇の下から宮殿並みの大きさの柱穴(ちゅうけつ)が、奈良文化財研究所の発掘調査で出土したことが、27日、わかった。
藤原不比等(ふひと)(659―720年)の邸宅跡に、法華寺が建てられたとする記述が「続日本紀(しょくにほんぎ)」などにあることから、不比等の邸宅跡の一部とみられる。
平城宮跡の東に隣接する同寺の境内を発掘したところ、南門付近で、旧講堂の基壇(残存の高さ30―50センチ)とみられる盛り土や凝灰岩などが出土。その下から、柱穴1基(直径約1メートル)が見つかった。柱は抜き取られていたが、直径は推定30センチ前後で、平城宮の内裏の柱穴に匹敵する大きさだった。
法華寺については、「続日本紀」に766年、称徳天皇が「わが外祖父の藤原大臣(不比等)の家に在り」と語る記述がある。また、13世紀中ごろに同寺で見つかった天平宝字3年(759年)の金銅板には、不比等の娘の光明皇后が「居宅を捨てて伽藍(がらん)を建てた」とあり、不比等邸跡に寺を建てたと推定されてきた。
◆古代の策略家、謎の実像に光◆
古代日本の国家体制が整えられる時期に、抜群の功績があった藤原不比等だが、現存する史料は断片的で、その生涯には多くの謎が残る。今回、明らかになった不比等邸とみられる建物跡は今後、「等しく並ぶ者なし」との名を持つ大物政治家の知られざる実像に光をあてそうだ。
最近の研究では、不比等邸の敷地面積は、法華寺に隣接する海龍王寺を含む約13・5ヘクタールと推定されている。長屋王邸の2倍、孫の太政大臣、仲麻呂邸の1・5倍に相当し、突出した広さだ。
しかし、不比等が正史に登場するのは30歳を超えてからで、それ以前のことはほとんどわかっていない。奈良時代後期に著された藤原氏の人物伝「藤氏家伝」も、上巻は鎌足伝、下巻は不比等の長男の武智麻呂伝で、「不比等伝」はない。
絶大な政治力をうかがわせながら、不比等はなぜか左大臣や太政大臣の要職に就くことを固辞。その下の右大臣にとどまり続けた。
こうした不比等のフィクサーぶりを指摘するのは、千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)。「今回の成果から、不比等は天皇に最も近い場所にいたことがわかる。表に出ないで賢く動いたのだろう」と語る。その上で、「詳細がわかっている長屋王邸との比較を通じて、当時の権力者の暮らしぶりが解明できれば」と今後の調査に期待していた。
◆藤原不比等=大化改新の立役者、中臣鎌足の2男。大宝律令編さんに加わり、平城遷都を進めたとされる。天皇家と外せき関係を築き、藤原氏繁栄の基礎を築いた。
(2004/4/28/03:22 読売新聞 無断転載禁止)