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ジャワハルラル ネルー『父が子に語る世界歴史』大山聰訳 みすず書房 [ブナ林便り]
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投稿者 なるほど 日時 2004 年 4 月 27 日 05:06:57:dfhdU2/i2Qkk2
 

イラク:現在の対米抵抗運動と1920年代の反英闘争の類似性
http://www.idcj.or.jp/1DS/11ee_josei040419_4.htm



ジャワハルラル ネルー 『父が子に語る世界歴史』大山聰訳 みすず書房
169 イラク問題 1933年6月7日(ネルーのこの書簡の日付)
 まだこれから考察しなければならないアラブの国が一つ残っている。二つの河、チグリスとユーフラテスにはさまれた豊饒肥沃な土地イラク、メソポタミアだ。それはまた古伝説中の国であり、バグダードの国であり、ハールン アッラシードと『千一夜』の国でもある。・・・イラクにも多数のクルド人がいて、かれらはここで主要な少数グループをなしている。ひさしくトルコとイギリスとの争いの種子であったモスルは。いまはイラクの北部クルド人地域にある。−−ちうことは、イギリスの支配下にあるということだ。モスル付近には、アッシリア人の古都ニネヴェの遺跡がある。
 イラクは、イギリスが国際連盟から「委任統治権」を付与された国々の一つに数えられる。「委任統治領」とは、連盟のしかつめらしいことばでいえば、連盟にかわってあずかる「神聖な委託物」という意味だ。この考え方によれば、委任統治を受ける領土の住民はまだ進歩が不十分で、自己の利益を処理する能力がなく、したがって大国からそれの処理の手助けを受けなければならない、というのであつた。いってみれば、一定数の牛、もしくは鹿の利益を守るために、虎の手を借りるようなものだ。・・・・西アジアにおける、トルコから解放された諸国の委任統治権は、イギリスとフランスのくじにあたった。この両国の政治は、いつかも話したように、かれらの目的はもっぱら「諸国民の完全、かつ終局的なる解放と、その土地の住民の発意と、自由な選択に、その権威を発するところの民族的統治と、行政の確立」にあることを宣言した。この十数年間に、この崇高な目的を達成するために、どんな措置がとられたであろうか?
 わたしたちは、これまでに、シリアや、パレスチナや、トランス・ヨルダンについてひとわたり見終った。そこでは妨害やら、不協力やら、ボイコットやらがくりかえして行われ、これに対して住民を射殺したり、指導者を島流しにしたり、新聞を禁止したり、町や村を焼き払ったり、また往々にして戒厳令をしいたりして、「人民の発意と、自由なる選択」が奨励された。このような出来事は別に珍しいことではない。帝国主義勢力というものは、歴史の記録がはじまって以来、暴力と破壊とテロリズムをこととして今日に至ったものなのだ。近代型の帝国主義に珍しいことといえば、「委託制度」だの、「大衆の福祉」だの、「後進民族の自治のための訓練」だのという美辞麗句で、そのテロリズムと搾取をごまかすことくらいなものだ。かれらは、射殺される人々の福祉のためにしか、発砲したり、殺したり、破壊したりしない。こうした偽善は、おそらくは進歩の兆候ともいえるかもしれない。なぜなら、偽善は美徳に手向けられた供養であり、真相が好まれないからこそ、それはこの種の、耳ざわりのよい眩惑的なことばでくるまれ、包み隠されるものだ、ということを物語っているからだ。しかし、どうもこのとりすました偽善という奴は、むきだしの真実より以上に、はるかに下卑たもののように思える。
 ではイラクでは、どのようにして住民の希望が達成され、どのようにして彼らはイギリスの委任統治下に独立をめざして進んだかを見よう。戦争中イギリスは、イラク、すなわちその当時の一般的な呼び方で言えばメソポタミアを、彼らのトルコに対する作戦基地とし、この国をイギリス人部隊やインド人部隊で充満させた。かれらは1916年4月に大敗北をなめ、このときタウンセンド将軍のひきいるイギリス軍は、クートアッアマらでトルコ軍に降伏を余儀なくされた。メソポタミア作戦全体に恐るべき浪費と失態があったが、インド政府がこれに対して重大な責任を負っていたので、その無能と遅鈍に対して盛んに激しい非難が浴びせられた。、しかし、長い間にはイギリスの大きな資力が結局ものをいって、かれらはトルコ軍を北方に駆逐してバグダードを占領し、やがてモスルに迫った。戦争が終わったときには、イラク全体がイギリスの軍事占領下におかれていた。イギリスへのイラクの委任統治の付与の最初の反応は、1920年はじめに見られた。これに対して強硬な抗議があり、抗議は騒擾となり、騒擾は反乱となり、全国にひろがっていった。この1920年前半に、トルコ。エジプト、シリア、パレエスチナ、イラクおよびイラン(ペルシア)にほぼ一斉に騒擾がもちあがったことは、偶然というか、興味をひく事実だ。インドでも丁度このころ非協力運動のきざしが見えていた。イラクにおける反乱は結局、主としてインドから派遣された軍隊の協力によって打ち倒された。かねてからひさしい間、インド軍隊の機能は、イギリス帝国主義の汚れたお先棒をかつぐことにあった。そして、このために、わが国は中東そのほかではまるで不評判な国とされてしまった。
 イラク反乱は、一面武力によって、また一面将来の独立の保障によって取り静められた。かれら(イギリス)はアラブによる臨時政府を樹立したが、その長官にはいちいち真の実権者であるイギリス人顧問がついていた。これらの従順な、指名された長官でさえ、イギリスの好みからいえば、やはりあまりに闘争的であることがわかってきた。イギリスの企図は、イラクに完全な屈従をしいるものであり、数名の長官はこれに参画することを拒否した。それでイギリスは1921年4月に、その仲間では一番有能な人物であった長官中の大立者サイード タリブ シャーを逮捕した上、追放した。これによって国の独立のために、また別の措置がとられ、1921年の夏、イギリスはへジャズのフセインの息子ファイサルをつれてきて、かれらの将来の国王の地位に据えた。ファイサルは、ご承知のように、丁度そのときシリアで一旗あげようとして、フランスの攻撃にあって挫折し、手持ち無沙汰のところであった。彼はイギリスとは親密な友人であり、世界大戦中、トルコに対するアラブの反乱では指導的な役割りを果たした。だから、彼は、今までの地方の指導者たちに比べて最もイギリスの計画に都合がよさそうであった。「要人」といわれる富裕な階級やそのなかの指導的な人物たちは、民主的議会をもった立憲政府を条件として、ファイサルを国王とすることに同意した。かれらはほかにどうしようもなかった。かれらが欲したものは真の議会であった。そしてファイサルはどっちみち国王になりそうだったから、かれらはこのように議会を(ファイサル王承認の)条件としたのであった。一般人民は相談にあずからなかった。こうしてファイサルは1921年8月に国王となった。
 しかし、これは問題の解決にはならなかった。イラクの人民はイギリスの委任統治には猛烈に反対し、完全独立を獲得sた上で、アラブ諸国との統一を欲していたからだ。世論への呼びかけで、示威運動はたえまなく続けられた。1922年8月に事態は頂点に達した。
 イギリス官憲は、イラク人に対して、またもうひとつ、独立に関する教訓を与えた。イギリス高等弁務官パーシー コックス卿は、(その当時病臥中だった)国王と、内閣と、イラクにあてがわれていた参事会の職能を停止し、政治を完全に自分の監督下においた。事実上彼は絶対的な独裁者となり、彼の意志を強制し、イギリスの武力、ことに空軍の力を借りて騒擾を鎮圧した。インド。エジプト、シリア等々、多少の脚色の変化を見せながらいたるところで見られる筋書きがくりかえされた。ナショナリストの新聞は禁止され、政党は解散され、指導者は追放され、爆弾を抱いたイギリスの飛行機はイギリスの強権を確保した。
 これもやはり問題の解決にはならなかった。数ヶ月後にパ-シー コックス卿は、表面的には国王と内閣の機能を復活させ、かれらにイギリスとの一つの条約を結ぶことに同意させた。>続きは明日に

http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm

→ジャワハルラル ネルー 『父が子に語る世界歴史』大山聰訳 みすず書房
169 イラク問題 1933年6月7日(ネルーのこの書簡の日付)
1922年8月の反英蜂起がどう鎮圧されたか<数ヵ月後にパーシー・コックス卿は、表面的には国王と内閣の機能を復活させ、彼らにイギリスと一つの条約を結ぶことに同意させた。イギリスはイラクの独立を助け、その上、国際連盟の加盟国にも迎えるという保障が、またしても発せられた。こうした体裁と、聞こえのよい約束の蔭には、イラク政府はイギリス政府の官吏、乃至は、彼らに後援される官吏の関与のもとに、行政を運営することに同意せしめられた、という厳然たる事実があった。1922年10月のこの条約は、人民の意志を無視して成立せしめられ、彼らの非難のまととなった。アラブの政府はみせかけだけのまがいものであり、実権はイギリス人が握っていることが暴露された。指導者たちは将来の憲法を起草するために召集された憲法制定議会への選挙をボイコットすることを決めた。この非協力運動は成功し、国会は成立し得なかった。徴税に際しても騒擾や妨害が行われた。
 1923年を通じて一年以上もの間、これらの紛争は継続したあげく、条約はイラク側に有利な、若干の変更を受けると同時に、数人の世論の指導者が国外に追放された。世論はおさまり、1924年はじめに憲法制定議会の選挙が施行された。こうしてできた国会もやはり対英条約に反対した。これを制御するために、イギリス側から強力な圧迫が加えられ、結局条約は、議員の大多数はこの会期には出席さえもしなかった議会で、三分の一をやっと越えるほどの数で批准された。
 憲法制定議会はイラクの新憲法を起草した。イラクが立憲世襲君主制と、議会政体をともなう独立主権自由国家であることを規定したこの憲法は、紙の上では公正なものに見えた。しかし両院のうち上院は、国王による任命制であった。したがって国王は大きな権限をもち、国王の背後にはイギリス人官吏がいて、養殖を掌握していた。この憲法は1925年三月に効力を発生し、数年間は新議会が活動したが、しかし委任統治に対する反対はつづいた。モスルに関するイギリスとトルコとの間の論争は、イラクもこの地方を要求していた関係から、大きな関心のまととなった。この論争は最後にはイギリス・トルコ・イラク共同条約によって解決した。モスルはイラクのものとなり、イラクはイギリス帝国主義の傘下にあったので、したがってイギリスの利益は守られた。
 1930年6月には、イギリス・イラク間に新たな同盟条約が結ばれた。またしてもイラクの、国内、国外の問題に関する完全独立が承認された。しかし、留保条項と例外条項とは、この独立を偽装保護領たらしめていた。インドへのルート防衛するために、その条約もいうとおり、「イラクは航空基地用地を通じて、イギリスに不可欠の連絡点を提供」した。イギリスはまたモスルそのほかに駐兵した。イラクはもっぱらイギリスの軍事教官を雇傭し、イギリスの将校がイラク軍の顧問役を担当し、また兵器、弾薬、航空機等々は、イギリスから購入することとなり、戦争に際しては、イギリスは対敵作戦を実行するために、あらゆる国の便宜を使用することとなった。そういうわけでイギリスは、モスル周辺の戦略地域から、容易にトルコや、ペルシア(イラン)や、アゼルバイジャンを通じてソヴィエットを攻撃できる態勢にある。
 この条約にひきつづいて1931年までに、裁判協定がイギリスとイラクの間に結ばれ、これによってイラクは、イギリス人裁判顧問一名、同じく高等法院長一名、バグダッド、バスラ、モスル、そのほかのイギリス人長官各一名を招聘することを約束した。
 これらの規定によるもののほかにも、イギリス官吏は多数の顕職を占めているようだ。したがって、この「独立」国は、事実上はイギリスの保護領であり、これを確定した1930年の同盟条約は、25ヵ年間有効とされている。
 1925年の新憲法採択後、新議会は活動をつづけたとはいえ、人民は決して満足していたわけではなく、辺境地方ではおりおり騒擾が勃発した。ことにクルド人地区はこれがはなはだしく、繰り返して暴動がおこり、イギリス人空軍の爆撃や、全村破壊などという、おだやかな手段で鎮圧された。>あとはこの次に

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169 イラク問題 1933年6月7日(ネルーのこの書簡の日付)
<1930年の条約後、イラクをイギリスの庇護のもとに国際連盟に加盟せしめる問題がもちあがった。しかし、国は平穏な状態ではなく、騒擾はつづいていた。これは委任統治国であるイギリスにとっても、また国王ファイサルの現政府(その当時の)にとっても名誉になることではなかった。なぜならこれらの反乱は、イギリスによって上からおしつけられた政府に、人民が満足していなかったことの、明白な証拠であったからだ。万一にもこうした事件が国際連盟に上程されることは、はなはだ望ましくないこととみなされた。だからこそこれらの騒擾を、武力やテロリズムで絶滅することに、格別の努力がはらわれたのであった。この目的のためには、イギリス空軍が使用されたが、この平和と秩序回復の企図の結果は、イギリスの一高官の記述から、ある程度までうかがわれる。1932年6月8日、サー・アーノルド・ウィルキンスン中佐は、ロンドン王立アジア協会の記念講演で「(ジュネーヴの諸宣言にもかかわらず)イギリス空軍が、最近十年間、ことに最近六ヶ月間にクルド人住民を爆撃し来たった執拗さ」に言及していっている。
 「荒廃に帰せしめられた部落、屠殺された家畜、不具にされた婦女子は、『タイムズ』の一特派員の言葉を借りれば、文明の一律的形式の普及を証明する。」
 飛行機が接近すると、村の住民が往々にして逃亡して身を隠し、彼らを殺す爆弾を待ち構えているほど、物好きでないと見ると、新型の爆弾ー時限爆弾ーが使用された。これは落下してもすぐには爆発せず、しばらくしてから爆発するように仕掛けてあるものであった。このあくどい仕掛けは、村民の目をあざむいて、飛行機が飛び去ってから小屋に帰らせ、それから爆発にうたれて傷つくように企まれたものであった。死んだものはまだしも幸いなほうだった。ときには手足をもがれたり、そのほかの重傷を負ったりしたものは、医療施設もないこれらの辺鄙な村村ではもっと悲惨であった。
 こうして平和と秩序は回復され、イラク政府はイギリスの庇護のもとに、国際連盟に代表を出し、加盟国となることを認められた。イラクは爆弾で国際連盟にはじきこまれた、といわれたものだが、これは至言だ。
 イラクが国際連盟に加入するとともに、イギリスの委任統治は廃止された。それはこの国家の、イギリスによる有効な支配を保障する、1930年の条約におきかえられた。イラク人民は完全な独立と、アラブ諸民族の統一を欲していたので、このような状態に対する不満はたえなかった。国際連盟加入国の地位などは、あまり彼らの興味をひかなかった。東洋における大多数の他の被圧迫民族とおなじく、連盟はヨーロッパ列強が彼ら自身の殖民、その他の目的の推進のために供せられる、ヨーロッパ諸列強の道具にすぎない、と彼らは考えた。
 わたしたちは、これでやっとアラブ諸国民の研究を終わった。おまえは、それらが大戦後こぞってインドやその他の東方諸国といっしょにどんなに強くナショナリズムの波に揺り動かされたかを、認識しただろうと思う。それはまるで電流のように、それらはまったく同時に通り過ぎた。いまひとつ注目に値する特徴は、採用された方法の類似性だ。この国々ではたいていはまず蜂起で、暴力反乱が起こったが、しかしやがては次第に非協力とボイコットに依存する度合いが強くなった。この抵抗の新形式は、会議派がマハトマー・ガーンディーの指導のもとに立ったときに、インドに始まったものにちがいない。非協力運動と立法機関ボイコットの観念は、インドから他の東方諸国に波及し、民族独立の闘争の十八番の方式の一つになった。>

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