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イラク:現在の対米抵抗運動と1920年代の反英闘争の類似性
http://www.idcj.or.jp/1DS/11ee_josei040419_4.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm
→ジャワハルラル ネルー 『父が子に語る世界歴史』大山聰訳 みすず書房
169 イラク問題 1933年6月7日(ネルーのこの書簡の日付)
1922年8月の反英蜂起がどう鎮圧されたか<数ヵ月後にパーシー・コックス卿は、表面的には国王と内閣の機能を復活させ、彼らにイギリスと一つの条約を結ぶことに同意させた。イギリスはイラクの独立を助け、その上、国際連盟の加盟国にも迎えるという保障が、またしても発せられた。こうした体裁と、聞こえのよい約束の蔭には、イラク政府はイギリス政府の官吏、乃至は、彼らに後援される官吏の関与のもとに、行政を運営することに同意せしめられた、という厳然たる事実があった。1922年10月のこの条約は、人民の意志を無視して成立せしめられ、彼らの非難のまととなった。アラブの政府はみせかけだけのまがいものであり、実権はイギリス人が握っていることが暴露された。指導者たちは将来の憲法を起草するために召集された憲法制定議会への選挙をボイコットすることを決めた。この非協力運動は成功し、国会は成立し得なかった。徴税に際しても騒擾や妨害が行われた。
1923年を通じて一年以上もの間、これらの紛争は継続したあげく、条約はイラク側に有利な、若干の変更を受けると同時に、数人の世論の指導者が国外に追放された。世論はおさまり、1924年はじめに憲法制定議会の選挙が施行された。こうしてできた国会もやはり対英条約に反対した。これを制御するために、イギリス側から強力な圧迫が加えられ、結局条約は、議員の大多数はこの会期には出席さえもしなかった議会で、三分の一をやっと越えるほどの数で批准された。
憲法制定議会はイラクの新憲法を起草した。イラクが立憲世襲君主制と、議会政体をともなう独立主権自由国家であることを規定したこの憲法は、紙の上では公正なものに見えた。しかし両院のうち上院は、国王による任命制であった。したがって国王は大きな権限をもち、国王の背後にはイギリス人官吏がいて、養殖を掌握していた。この憲法は1925年三月に効力を発生し、数年間は新議会が活動したが、しかし委任統治に対する反対はつづいた。モスルに関するイギリスとトルコとの間の論争は、イラクもこの地方を要求していた関係から、大きな関心のまととなった。この論争は最後にはイギリス・トルコ・イラク共同条約によって解決した。モスルはイラクのものとなり、イラクはイギリス帝国主義の傘下にあったので、したがってイギリスの利益は守られた。
1930年6月には、イギリス・イラク間に新たな同盟条約が結ばれた。またしてもイラクの、国内、国外の問題に関する完全独立が承認された。しかし、留保条項と例外条項とは、この独立を偽装保護領たらしめていた。インドへのルート防衛するために、その条約もいうとおり、「イラクは航空基地用地を通じて、イギリスに不可欠の連絡点を提供」した。イギリスはまたモスルそのほかに駐兵した。イラクはもっぱらイギリスの軍事教官を雇傭し、イギリスの将校がイラク軍の顧問役を担当し、また兵器、弾薬、航空機等々は、イギリスから購入することとなり、戦争に際しては、イギリスは対敵作戦を実行するために、あらゆる国の便宜を使用することとなった。そういうわけでイギリスは、モスル周辺の戦略地域から、容易にトルコや、ペルシア(イラン)や、アゼルバイジャンを通じてソヴィエットを攻撃できる態勢にある。
この条約にひきつづいて1931年までに、裁判協定がイギリスとイラクの間に結ばれ、これによってイラクは、イギリス人裁判顧問一名、同じく高等法院長一名、バグダッド、バスラ、モスル、そのほかのイギリス人長官各一名を招聘することを約束した。
これらの規定によるもののほかにも、イギリス官吏は多数の顕職を占めているようだ。したがって、この「独立」国は、事実上はイギリスの保護領であり、これを確定した1930年の同盟条約は、25ヵ年間有効とされている。
1925年の新憲法採択後、新議会は活動をつづけたとはいえ、人民は決して満足していたわけではなく、辺境地方ではおりおり騒擾が勃発した。ことにクルド人地区はこれがはなはだしく、繰り返して暴動がおこり、イギリス人空軍の爆撃や、全村破壊などという、おだやかな手段で鎮圧された。>あとはこの次に
→ジャワハルラル ネルー 『父が子に語る世界歴史』大山聰訳 みすず書房
169 イラク問題 1933年6月7日(ネルーのこの書簡の日付)
<1930年の条約後、イラクをイギリスの庇護のもとに国際連盟に加盟せしめる問題がもちあがった。しかし、国は平穏な状態ではなく、騒擾はつづいていた。これは委任統治国であるイギリスにとっても、また国王ファイサルの現政府(その当時の)にとっても名誉になることではなかった。なぜならこれらの反乱は、イギリスによって上からおしつけられた政府に、人民が満足していなかったことの、明白な証拠であったからだ。万一にもこうした事件が国際連盟に上程されることは、はなはだ望ましくないこととみなされた。だからこそこれらの騒擾を、武力やテロリズムで絶滅することに、格別の努力がはらわれたのであった。この目的のためには、イギリス空軍が使用されたが、この平和と秩序回復の企図の結果は、イギリスの一高官の記述から、ある程度までうかがわれる。1932年6月8日、サー・アーノルド・ウィルキンスン中佐は、ロンドン王立アジア協会の記念講演で「(ジュネーヴの諸宣言にもかかわらず)イギリス空軍が、最近十年間、ことに最近六ヶ月間にクルド人住民を爆撃し来たった執拗さ」に言及していっている。
「荒廃に帰せしめられた部落、屠殺された家畜、不具にされた婦女子は、『タイムズ』の一特派員の言葉を借りれば、文明の一律的形式の普及を証明する。」
飛行機が接近すると、村の住民が往々にして逃亡して身を隠し、彼らを殺す爆弾を待ち構えているほど、物好きでないと見ると、新型の爆弾ー時限爆弾ーが使用された。これは落下してもすぐには爆発せず、しばらくしてから爆発するように仕掛けてあるものであった。このあくどい仕掛けは、村民の目をあざむいて、飛行機が飛び去ってから小屋に帰らせ、それから爆発にうたれて傷つくように企まれたものであった。死んだものはまだしも幸いなほうだった。ときには手足をもがれたり、そのほかの重傷を負ったりしたものは、医療施設もないこれらの辺鄙な村村ではもっと悲惨であった。
こうして平和と秩序は回復され、イラク政府はイギリスの庇護のもとに、国際連盟に代表を出し、加盟国となることを認められた。イラクは爆弾で国際連盟にはじきこまれた、といわれたものだが、これは至言だ。
イラクが国際連盟に加入するとともに、イギリスの委任統治は廃止された。それはこの国家の、イギリスによる有効な支配を保障する、1930年の条約におきかえられた。イラク人民は完全な独立と、アラブ諸民族の統一を欲していたので、このような状態に対する不満はたえなかった。国際連盟加入国の地位などは、あまり彼らの興味をひかなかった。東洋における大多数の他の被圧迫民族とおなじく、連盟はヨーロッパ列強が彼ら自身の殖民、その他の目的の推進のために供せられる、ヨーロッパ諸列強の道具にすぎない、と彼らは考えた。
わたしたちは、これでやっとアラブ諸国民の研究を終わった。おまえは、それらが大戦後こぞってインドやその他の東方諸国といっしょにどんなに強くナショナリズムの波に揺り動かされたかを、認識しただろうと思う。それはまるで電流のように、それらはまったく同時に通り過ぎた。いまひとつ注目に値する特徴は、採用された方法の類似性だ。この国々ではたいていはまず蜂起で、暴力反乱が起こったが、しかしやがては次第に非協力とボイコットに依存する度合いが強くなった。この抵抗の新形式は、会議派がマハトマー・ガーンディーの指導のもとに立ったときに、インドに始まったものにちがいない。非協力運動と立法機関ボイコットの観念は、インドから他の東方諸国に波及し、民族独立の闘争の十八番の方式の一つになった。>
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm