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ここの処、「他人(ひと)の迷惑」と叫ぶ声が耳を覆いたくなるほど聞えて来る。この言葉自体は古くからあったようだが、その使い方は今と違っていたのではないだろうか。現在の使い方は非常に攻撃的な使い方をしている。時には、自己の正当性を満足させる為に使っているような場合すらある。
古くと言っても私が知るのは戦後十年ほど経ってからのことだが、その頃はこの言葉で相手をなじる、相手を批判することはほとんどなかった。言うなれば内向きの言葉だったと言える。例えば、「他人(ひと)様の迷惑になるようなことは致しません」とか、身内(特に子や孫)に向って「他人(ひと)様の迷惑になるようなことをしてはいけない」というような使い方がもっぱらだった。
この使い方は(主にだか身内と)自分自身を戒める為のものだ(近所の子供たちにもよく言ってはいたが)。大人である他人を難詰するものではなかった。それでは赤の他人が為した悪意のない過失には、どうしていたかと言えば「お互い様ですから」と応じていた。これに言葉を継ぐとしたら「世の中、迷惑のかけっこですから、気にしないでください」だった。これがごく普通の人々の日常会話の中に在った。
一見他人に甘く、自分に厳しいだけのように見える。だがそうしても「お互い様」に甘える人が増える訳ではなかった。皆が皆、自分に厳しい意識を持っているのだから、厳しさは同じと言える。これらの言葉の使い方を見ると、先ずは自己を戒め、他人に寛容であれば、世の中を平穏に過ごせるものだと長い歴史の中で学んだ知恵ではないだろうかと想う。
だが今の時代では「お互い様」は何処からも聞えない。聞えるは「他人(ひと)の迷惑」ばかりになった。「お互い様」は「利害」を問題にしない。一方、「他人(ひと)の迷惑」は「利害」を基準している。と言うよりも利害を最優先させている。エコノミック・アニマルと日本人が呼ばれたのは大分前のことだが、全ての価値観に「利害」が絡まる薄ら寒い日本社会を造り上げたようだ。
「寛容」そのものと言える「お互い様」は、「利害」を優先する「他人(ひと)の迷惑」に駆逐されてしまったようだ。日本古来からの精神的良き風土を現代日本人は自ら捨ててしまったのだ。もう二度と「お互い様」を日常的に聞くことが出来る社会に出合うことはことはないだろう。精神的美風を自らが捨てた、生き辛いこの社会は何処へ行くのだろうか。
http://homepage1.nifty.com/kikugawa_koubo/tanishi.htm
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