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(回答先: 斉藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖(その根拠の曖昧さ) 投稿者 アムリタ 日時 2004 年 6 月 25 日 18:37:26)
http://www.asvattha.net/soul/?itemid=358
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子供がおかしい・と言いたがる大人
posted at 00:17:03 on 2004/06/23 (Wed) by charlie - Category: Thinking
YOMIURI ON-LINE / サイエンス:パソコンに熱中するとキレやすい…脳科学者が指摘
「パソコンやテレビゲームに長時間興じると、創造力や理性など人間らしさに関係する脳の前頭前野と呼ばれる部分の機能が低下する」。日本大文理学部の森昭雄教授は前頭前野の活動が低下した状態を「ゲーム脳」と呼ぶ。
ネタとしてはあまりにも醜悪だな、と思う。が、問題はこの先で
一方で、こうした見方を検証する基礎データすらないのが現状だ。そこで文部科学省では、テレビの視聴時間などのライフスタイルと脳の働きとの関係などを調べる「脳科学と教育」プロジェクトを始めている。零歳児と5歳児1万人に対し継続的に生活状況をアンケートするほか、行動や発達を観察する。
科学的根拠を求めて科学的な実証を行う、ということそれ自体は重要なように見えるが、そもそもなぜその手法で「科学的に」実証しなければならないのか、という問いそのものが置き去りにされていないか。
アンソニー・ギデンズは『左派右派を超えて』の中で、近代の高度な再帰化が科学技術をして『作り出されたリスク」、すなわち科学技術そのものに内在するリスクを拡大させたと主張する。単純な近代化の段階では、科学技術は「未知のもの」に対するコントローラビリティを高めるものであったが、そのコントロールしようとする振る舞いこそが、未だ起こらざる危険としてのリスクを拡大させると認知されるのが、ギデンズの考える再帰的近代と科学の関係だ。
それゆえギデンズは、科学技術によって、自然やその他、かつて人間に外在していたものを制御の支配下に置こうとすることをやめ、再び人間に外在するものとみなすべきだと主張する。その上で、再帰的なコミットメントによって生じる「作り出されたリスク」は、科学的にではなく、政治的・道徳的に解決されねばならないと説くのである。
こうした社会では、科学的な根拠は科学的には提供できないのであり、その正統性は常に「より科学的であるかどうか」ではなく、政治・道徳(あるいは心情)の問題として再帰的に選択されるほかない。だとするならば、あらゆるものについて「なぜそれが根拠となるのか」という視点から、根拠の選択の前提を問うような立場こそが重要になる。
さて件の記事だが、この主張が孕む問題とは何か?重要なのは、テレビやパソコンといったメディアが脳に影響を与える、という直結した図式に疑義が挟まれないことだ。むろん脳に対して何の影響もない、ということは言えないのかもしれない。森氏の「検証方法」がまったく科学的根拠を欠いていたとしても*1、それ自体は「脳に影響があるという証拠はない」だけなので、きちんと検証すれば「ゲーム脳」は正しいのかもしれない。
が、それは、こうした主張がそもそも新聞記事として流通可能なまでに「ウケる」こととは何の関係もない。実際には、こうした主張を「科学的根拠」にして、主張のヘゲモニーを争うゲームが別個に存在する。今回の場合、佐世保事件を契機に「よく分からない子供」の存在がクローズアップされ、やれネットが悪い、パソコンが悪い、脳に影響が、という話に繋がったのだと理解できる。要するに問題は最初から科学的根拠の問題ではなく、政治的・道徳的な問題だったのではないか。
では、百歩譲ってそうした「科学の鎧を纏った道徳的主張」が、ある種の「善意」に基づいたものであり、その善意こそは否定されるべきではない、という立場があり得ると想定しよう。こうした「方法はともかく子供達のためを思っているのだから」という主張は、果たして正しいだろうか?僕自身はまったく間違っていると思う。なぜなら、「よく分からない子供達」が存在する理由を外在的なものだとみなすことは、子供達に対する単なる大人の無責任でしかないからだ。
曰くネットが悪い、パソコンが悪い、ゲームが悪い。こうした主張は単なる「悪者探し」であるだけでなく、「悪者でない」ものは責任を問われない、という前提の元に、「原因」への対処を自分以外のものに任せきりにするという事態を拡大させないか。こうしたごくごく当たり前のことさえ、「よく分からない子供達」を前にした大人達は考える気にならないのか。それとも、あまりに「分からない」から考える気さえなくしたのか。
おそらくこうした傾向は、佐世保事件の直後から「どうせネットが悪者にされるんだろ」と斜めを向いていたネットユーザー達の一部にも浸透しているような気がする。つまり、ネット全体を否定しないがために、「ぱど厨」のような存在を「発見」して、挙げ句の果てに「今の子供達は分からない」とぼやいてはいないか。僕の見るところ、たとえばはしご禁止のような振る舞いは、オンナノコなら小中学校でよく経験したであろう思春期特有の人間関係――○○ちゃんは私の友達ね!だから××ちゃんのグループの子と話したらダメだからね!トイレも私としか一緒にいっちゃだめだよ!――の延長でしかない。おそらくこうした問題については、僕のような門外漢じゃなくて、教育心理学や発達心理学の専門家だって言えるはずなのだが、なぜかそうした声は聞こえてこない*2。
問題は「子供達が分からない」ことではなく「われわれが分かろうとしない」ことであるはずなのに、そうした問題は「子供達の見えがたさ」として相手側に帰責される。と同時に大人の側は、子供達が理解できず、それ故生じるある種の義務を放棄してしまう罪悪感から逃れるために、より科学的、より生物学的な根拠を持ち出すとか、一般的な事例を非常に特殊な事態とみなすとか、あるいは逆に特殊な事態を一般化するとか、そういう形で「そもそも自分には責任の取れない問題なのだ」といった形の免罪符を要請する。あらゆる問題が「脳」へ直結することの怪しさは、その科学的根拠の怪しさではなく、その主張自体が孕む免罪作用のゆえだ。そこで免罪されるのは、親や地域や社会や、そして何の関係もない「他者」――つまり「われわれ」――の責任である。
なんだかここ数日この問題についてもやもや考えていて、なかなかストレートな言葉が見つからずに困っているのだけど、書いてしまわないとまとまらないものもあるのだろうということで、色んな問題を散漫に取り扱ったエントリになったけど、ご勘弁下さい。なんだか言ってることがわかりにくいや、という方は、一見全然違うようで実は同じ方向を向いている(と勝手に解釈した)辻大介先生のエントリなどを読まれてはいかがかと。