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(2004/04/13)
いわゆる「自己責任論」について
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まったく、信じられないことを平然と言う人がいるものだ。
12日の午後7時少し前、私は衆議院前からタクシーに乗った。議員面会所で行われていた、イラクの人質救出を訴えている市民ネットワークの集会が続いていた。歩道には、会場に入りきれない人たちがプラカードやバナーを手に並び、政府の対応を批判し、救出に向けての決意を熱く語る市民グループの声が聞こえてきた。
そういう場所で私を乗せたタクシーの運転手は、走り出すなり「なんですか、これ」と聞いてきた。
私が、3人の救出を願う人たちの集まりだと説明するや、この運転手はうんざりした口調でこう言った。
「アメリカ人はイラクでたくさん死んでるのに、日本人は誰も死ななくていいんですかね。まったく人質になったからといって、自衛隊を撤退させろだのとヒステリックに叫んでるんだから……」
今回の事件については、様々な意見があることは承知している。日本のイラク問題についての政策についても、いろいろな議論がある。
しかし、人の命に対して、どうしてここまで鈍感でいられるのか。あまりにも歪んだその感性に、私はぞっとした。狭い車内という同じ空間にいることが、耐え難かった。
しかも残念なことに、こうした感性の持ち主は、どうやらこのタクシー運転手だけではないようなのだ。
事件が報じられてから、被害者の一人高遠菜穂子さんのホームページの掲示板には、様々な誹謗中傷が書き込まれ、閉鎖に追い込まれた、という。
他のいくつかの掲示板を覗いてみても、本当に口汚い言葉で3人を罵ったり、家族をあざ笑ったり、残酷なことが平然と書き連ねられている。例えば、3人を「恥さらし」となじったり、家族の名前を挙げてその容貌について難癖をつけたり、犯人グループが3人を焼き殺すと脅していることを「バーベキュー」「丸焼き」と呼んでこれを「楽しみ」にしているなどという記載がたくさんある。
そんな中で、家族が待機している北海道東京事務所の電話とFAXの番号を公表した。多くの人たちの協力を求めるためというが、家族が傷つけられ、心労を増やすだけの結果にならなければいいのだけれど……。
先のタクシー運転手はもう忘れてしまったようだが、日本は2人の若い優秀な外交官をイラクで失っている。
この時には、亡くなった2人や家族、あるいは外務省などに対する批判や非難の声はあまりなかったように思う。
事件や仕事の態様が異なるということもあるが、言いがかりをつけようと思えば、それは可能だろう。
今回、ここまで口汚い被害者叩きが行われるのは、事件発生から間もない時点で、メディアや政治家などから被害者の「自己責任」を問う発言が相次いだこととは無縁でないような気がする。
例えば、読売新聞の4月10日付社説。以下のように書いたのは、事件発生の第一報から24時間も経っていない時期のはずである。
<3人にも問題はある。イラクでは、一般市民を巻き込んだテロが頻繁に発生している。それを承知でイラク入りしたのは、無謀な行動だ。3人にも、自らこうした事態を招いた責任がある>
同じ日の産経新聞・産経抄は、こう書いた。
<▼誤解を恐れずにいえば、“いわぬこっちゃない”とは、本来、人質になった三人の日本人に対していわねばならぬ言葉だ。イラクでは日本人外交官も殺害されて治安悪化は深まっていた。外務省は再三、最高危険度の「退避勧告」を行ってきたのである。
▼三人のうち一人は週刊誌に写真や記事を売り込むフリーのジャーナリスト、もう一人もフリーライターの若者。女性だけはイラクの子供たちへのボランティア活動に従事していた。同情の余地はあるが、それでも無謀かつ軽率な行動といわざるをえない。
▼確かに、国家には国民の生命や財産を保護する責務はある。しかしここでは「自己責任の原則」がとられるべきだ。危険地帯に自らの意志で赴くジャーナリストにはそれなりの覚悟が、またNGO(非政府組織)の活動家らにもそれぞれの信念があったはずだからである。>
読売新聞は、4月13日付の社説で家族に対しても批判をしたうえで、こうたたみかけた。
<3人は事件に巻き込まれたのではなく、自ら危険な地域に飛び込み、今回の事件を招いたのである。自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係諸機関などに、大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題である>
私も、いずれ「自己責任」については、きちんと議論をしなければならないと思う。
ただし「危ない所に行ったのは自分が悪い」という言い方には、私は与しない。そうした考え方は、人が助けを求めているのに、「自分さえよければいい」と見て見ぬふりをする風潮につながる。困っている人がいれば何とか手助けがしたいと思う気持ちは尊いものだし、困難な現状が明らかにされていないのであればそれを伝えるために行くことこそ、ジャーナリストの役割だと思うからだ。
ただ、行くからには、自分の安全を確保しなければ、本来の目的も完遂できない。だからこそ、安全対策には万全を期す必要があり、その点で3人の行動がどうだったのか、検証する必要はある。そして、そこから学ぶべき教訓を引き出すことが大事だ。
そのためには3人から直接、彼らがどういう情報を得て、どのような判断をし、どういう安全対策をして出発したかなどを聞いてみる必要がある。そのうえで、彼らの行動について総合的な評価ができる。
同時に、国の一連の対イラク政策が果たして適切なものであるか、そうした政策が彼らの活動にどのような影響を及ぼしたかについても総合的に検討したうえで、民間人の行動に関する自己責任と政府の責任にあり方を、きっちり議論するべきだと思う。
しかし、3人の命が危機に瀕し、事実関係も未だはっきりせず、彼らが何の弁明も説明もできない状況の中で、彼らの「自己責任」を云々することはフェアではない。
もし今の状況下で、読売新聞があくまで「テロが頻発している」→「イラク入りしたのは無謀」→「本人が悪い」と決めつけるならば、同新聞は1991年6月に雲仙普賢岳の噴火災害で自社のカメラマンが亡くなった件についても、カメラマンと編集部の「無謀」を糾弾しなければならない。
なぜなら、当時火砕流は「頻発」しており、火山の専門家からの「警告」も出ており、行政の「避難勧告」も発せられていた。そんな中で発生した大火砕流によって、読売新聞社のカメラマンと彼が乗っていたタクシー運転手も死亡した。このタクシー運転手は、問題の大火砕流が発生する前に同僚から無線で早く逃げるように促された時に、「自分だけ逃げられない」と答えている。
そして、彼らの遺体を収容するために、火砕流が頻発する危険な中を、自衛隊員が命がけで現場に入った。遺体の収容作業中にも、大規模な火砕流が発生し、自衛隊員たちがあやわ、という場面もあった。
私は、読売新聞社を始め、当時現場にいたメディア関係者は結果として判断ミスを犯したと思う。それは教訓として、私たち取材者が共有すべき財産として、生かすべきものだ。
その一方で、ギリギリの状況まで被写体にカメラを向け、火砕流に襲われながらそのカメラを体で守り、最後に撮った写真を守ったそのカメラマンのプロ意識に、私は心を打たれたし、その姿を記録に止めたいと思って原稿も書いた。
読売新聞社もまた、カメラマンの最後の写真を大々的に掲載し、その死を悼んだ。自己責任だから、自衛隊員を命の危険にさらしてまで遺体を収容しなくていい、などとは言わなかった。
当然だろう。しかし、今回の社説を是とするならば、読売は自分たちのカメラマンの死についてこう書かなければならなくなる。
読売のカメラマンは火砕流に巻き込まれたのではなく、自ら危険な地域に飛び込み、あの事態を招いたのである。しかも、タクシーの運転手まで巻き添えにしたのである。自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに大きな無用の負担をかけたことを深刻に反省する、と。
これは私の意見ではない。私自身は、いろいろ教訓にすべき点はあるとしても、最後まで現場で被写体と格闘していたカメラマンの思いを尊いと思う。なのに、読売の論説流に考えると、その尊い志までが、こんなふうに貶められてしまう。
身内に対しては思いやりがあり、最も人の情に篤いと思っていた新聞社が、今回の件では事実関係も明らかにならないうちから、被害者を論難するような決めつけをしたことが、本当に悲しい。
いつから日本のメディアは、自分に直接縁のない者に対して、こんなにも冷たくなってしまったのだろう。
また産経抄は、以前私がいろいろと危険な中でもオウム真理教を追及したと、とても褒めてくれたことがある。そのコラムがなぜ、フリーのジャーナリストは「週刊誌に写真や記事を売り込む」などという嫌味な書き方をするのだろうか。
彼らの行動が、本当に「無謀で軽率」なのかは、実際にどういう判断に基づいてどのような行動をとったのか、分ってからでなくては論評できないではないか。
こうしたメディアは、心配している家族の目に触れるかもしれない。にもかかわらず、「いわぬこっちゃない」などと刺激的な文言を使うのは、どういう神経だろう。
3人の救出に全力を尽くすべき外務省関係者まで、こうした一部メディアの尻馬に乗っているらしい。共同通信の速報は、こう伝えた。
<竹内行夫外務事務次官は12日午後の記者会見で、イラク日本人人質事件に関連し「邦人保護に限界があるのは当然だ。自己責任の原則を自覚してほしい」と3人の行動に疑問を呈した。>
外務省自身はどうか。奥大使と井ノ上参事官の死について、例えばなぜ危険が増している北部で会議を持たなければならなかったのか、その出席について判断のミスはなかったのか。他人の「自己責任」を問う前に、自分たちの問題を、きちんと検証して国民に分りやすく示すべきだ。
それにしても、竹内氏の物言いの何と冷たいことだろう。今回の件を、冬山での遭難にたとえて自己責任を論じる人がいるが、仮にその例えに沿って話を進めたとしても、その捜索にあたる警察の山岳救助隊が、救助作業の途中で遭難者の「自己責任」を云々するだろうか。そんなことはありえない。
本人と無線で連絡が取れれば、ひたすら励まし助言を与え、そうでなければ持ちうる情報を元にとにかく捜索を行う。救助隊員も決して安全が100%確保されているわけではない。それでも彼らが考えているのは、一刻も早く助けることだけだ。
純粋に命を想う山岳救助隊に比べ、外務省の態度はどうだろう。
こうした言説が積み重なることで、本人たちの無謀な行動が国を巻き込んだ騒ぎを招いたという雰囲気が醸成され、一部の歪んだ心に正当性を与えてしまっているのではないか。
繰り返す。
3人が戻ってきて、事実経過が明らかになったうえで、3人の判断についての評価や自己責任について論じよう。
私にも、自分の少ない経験をふまえて、思うところや疑問に感じる点はいくつかある。
直接、それを3人にぶつけてみたい。
民間人のあるべき「自己責任」を論じ合うためにも、3人に無事に戻ってもらうのが一番だ。
今井紀明さんのお母さんも、昨日未明、24時間以内に解放、との声明を受けて、「(帰ってきたら)殴ってやりたい」と言っていた。なじるのも殴る問いただすのも、当人が生きて帰ってこなければできない。
家族は、犯人グループが当初通告した3日間が過ぎるのを十数分に控えた11日夜、アルジャジーラに対して次のようなメッセージを発した。
<もうすぐ事件から3日が経とうとしています。
「あなたたちの愛する家族は無事ですよ、もうすぐ会えますよ」という日本政府の声は、いまだ一度も聞こえません。(中略)我々家族の不安はピークを迎えています。
生きているのか、ケガはしていないのか、水は飲んでいるのか……
誠実な態度で接してくれているアルジャジーラを始めとするアラブの友人へのお願いです。
彼らの無事な姿を、一度でよいから我々に届けて下さい。(中略)
できることがあれば何でも言って下さい。
我々は平和のために行動しています。
平和を愛するアラブの友人が望むことは、我々が望むことと同じだと信じています。
家族の姿を確認させて下さい。
身代わりが必要ならば、我々が喜んで身代わりになりましょう!
どうか、気持ちを察して下さい>
今は、極限状況にあるこの家族をいたわり支え、3人の命を守り、救出することに専念すべきだ。
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