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驚くことが続く。だが、必ずしも意外ではない。ああ、やっぱり、とどこかで予感している。
イラクの邦人人質事件もそうだが、前日の小泉純一郎首相の靖国神社参拝違憲判決にも驚かされた。最近の司法は法の番人らしくない、という予感が当たった、とも言える。
8日の衆院憲法調査会の討議で、自民党の森岡正宏(衆院・近畿比例)が、
「なぜ首相が、国家のために命を落とした人をまつる神社に参ってはいけないのか。1人の地裁判事が私的な気持ちを判決の名を借りて吐露し、それに対して(首相側が)控訴もできない仕組みがおかしい」
と異議を唱えたが、そのとおりだ。
判決文を読んで異様な感じに襲われたのは、首相参拝が<宗教的活動>かどうかの核心部分で、裁判官が示した判断の粗雑さと政治的文言の数々である。
第1の争点は、首相参拝の目的が宗教的意義を持っていたか。判決は、
<憲法上の問題、国民や諸外国からの批判があり得ることを十分に承知しつつ、あえて自己の信念、政治的意図に基づいて参拝したというべきだ>
とした。何をもって信念、意図とみているのかまったく不明で、それがなぜ宗教的意義を持つかはもっとわからない。
第2の争点、参拝の効果が、宗教への援助、助長、促進、または圧迫、干渉になるか。判決は、
<参拝直後の終戦記念日(01・8・15)には前年の2倍以上の参拝があるなど、靖国神社を援助、助長、促進するような効果をもたらした>
とし、従って、憲法が禁ずる宗教的活動と認定した。これは恐るべき飛躍である。参拝客の倍増は直前の小泉参拝(8・13)と無縁ではないだろう。
だが、参拝をめぐる騒動の主たる原因は、中国の執ような反対圧力によるもので、いわば騒動の震源地に一般の興味が集中した結果とみるのが常識的だ。神道への信仰心が高まったわけではない。それがなぜ、援助、助長なのか。
こうした判決文の粗雑さの原因は、末尾の、
<違憲性の判断を回避すれば、今後も同様の行為(首相参拝)が繰り返される可能性が高いと言うべきで、参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考えた>
の記述ではっきりする。首相参拝を止めるべきだという、森岡指摘の<私的な気持ち>が先に立っていた。<責務>などという上等な言葉にうっかり惑わされる。
<歴代の内閣総理大臣も慎重な検討を重ねてきたものであり……>
と判決にもあるように、靖国問題は戦後政治の悩ましい、しかし、避けて通れないテーマだった。歴代首相は内外に目を配りながら、工夫をこらしてきたのである。
宮沢政権下、夏が近づき、河野洋平官房長官が、
「そろそろ靖国のシーズンですが」
と伺いを立てると、宮沢喜一首相が、
「あ、それはこの前、夜1人で参ってきたから、いい」
と答えた、という話が伝わったことがあった。いかにも宮沢らしい処理法だと話題になった。
宮沢流なら、参拝客を増やすこともなく、従って<援助>にはならず、違憲性は乏しいことになるのか。
歴代首相と多くの関係者、国民が、それぞれの立場で考えあぐねてきた、戦争を引きずる深刻な難題に、戦後生まれの一裁判官が気負って軽々しい憲法判断を下す。手をたたくのは、靖国問題を外交カードに使う中国と韓国だ。
司法の本領は冷静さではなかったか。
(敬称略)
=毎週土曜日に掲載
毎日新聞 2004年4月10日 2時09分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20040410k0000m070162000c.html