★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ34 > 796.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
リノの聖骸布 - その布はイエスを包んだか(X51)
http://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/796.html
投稿者 エンセン 日時 2004 年 4 月 05 日 16:06:06:ieVyGVASbNhvI
 

 
2004年04月05日
リノの聖骸布 - その布はイエスを包んだか

【Mirror】トリノの聖骸布という布をご存知だろうか。この布はキリストの死後、その遺骸を包み込んだ布であると伝えられている最も有名な聖遺物のひとつである。これまで凡そ800年、この布を巡ってキリスト教信者、そして科学者達の間でその真贋が問われ続けてきた。ある者は布をキリストの復活の紛れもないもない証拠であるとして崇め、そしてまたある者はこれを誰かが捏造した良く出来た偽造物であるとして嘲笑ったのである。最後に行われた1998年の調査では、炭素年代測定を用いて布の年代が計測され、この布が実際には1260年から1390年に縫合されたもので、良く出来た捏造物であると結論されている。しかし、最近行われた布の修復作業の際に、修復に当たっていたスウェーデンの織物研究家メヒティルト・フルリーレンベルグが布の後ろ側に新たに縫合後を発見し、調査を進めた結果、これまでの計測結果を根底から覆す驚くべき結論に至ったのだ。「これまでの調査では布の素材ばかりに着目していましたが、実際のところ、縫合の方法こそがこの真贋を見極める最大の手掛かりになると思います。この布は確かに、紀元1世紀か、もしくはもっと古い縫合方法を用いて作られていたんです。」レンベルグは語った。

また今回の発見にあたり、レンベルグはかつての調査では本来の聖骸布に加え、16世紀に行われた修復作業の際に付け足された部分を同一に扱ってして調査した事が測定ミスの原因であると指摘している。

「今回のこの縫い目の発見は、実際にキリストが布に包まれていたことを示す重要なものです。そして炭素年代測定が間違っていたことも間違いないと思います。前回この布を調査した科学者達はおそらくこの布が捏造であることを発見して満足したでしょう。しかし、彼らは布に何故、このようにキリストの顔が転写されたか、その重要な事実にはとうとう明確な理由を見つけることが出来なかったんです。」英国の聖骸布調査団体マーク・ガシン氏は今回の発見を受けて語った。

1978年に初めて聖骸布を調査した科学者のバリー・シュワルツ氏は以下のように語っている。「正直なところ、初めて布を見たときは偽物だと思って馬鹿にしていました。しかし、今はこの布は確かにあのナザレのイエスが磔刑にあった後にその身体を包んだものであると思っています。」

このトリノの聖骸布が初めて表の歴史に現れるのは1357年のことである。その年、フランスのリレイの教会にて初めて展示され、その布に映し出されたキリストの姿 - 聖書に描かれた通りの身体の前後に傷を備え、イバラの冠をかぶった - は当時のキリスト教徒達を驚かせたのである。

しかし布には手首の部分に杭打たれた傷跡が発見され、一部の信仰者達を混乱させた。何故ならば、それまでの伝承ではキリストが杭打たれたのは手首ではなく手のひらであると信じられていたからである。しかし、当時の科学者達の見解では実際には手の平に杭打って身体を十字架にくくり付ける事は困難であり、身体の重さをしっかりと支えるために手首に杭を打ったのではないかと結論したのである。

また聖骸布は、リレイの教会に届けられるまではおそらくはエデッサにて保管されていたと言われ、イエスの信者のひとりであるアブガル王のもとにあったという。そしてそれから後しばらくは現在のイラクの都市の中に隠され、時々行われる祭事の際だけ外に持ち出されたと言われている。そして時は流れて紀元944年、現在のトルコのコンスタンティノープルに運ばれ、その後、十字軍によって聖骸布が奪取され、一旦歴史から姿を消す。(そしてその後テンプル騎士団の手に渡ったという説もある)その後聖骸布は再びシドン(現在のレバノン)に現れ、キプロス島へと渡る。その後聖骸布は、フランスの騎士ゲオフレ・ドゥ・シャルネの手に渡り、フランスに運ばれたと言われいる。(写真は聖骸布)

そしてそれ以降、聖骸布はヨーロッパで最も重要な宗教的遺品として尊ばれるようになるが、1532年、保管されていた教会が火災にあい、その一部が損傷する。そして1578年、今度はイタリア北部のトリノに運ばれ、度々町の中で展示され、多数の人々の目に触れるようになるのである。

そしてその後も聖骸布を一目見ようとトリノの町を何千人もの人々が巡礼に訪れるが、事態が一変したのは1898年のことである。その年、セコンド・ピアという人物が初めて聖骸布の写真を撮影すると、その写真のネガにとんでもないものが映し出されていたのだ。それは紛れもない、キリストの姿だったのである。

1955年には英国の慈善活動家レナード・チェシャー氏が障害を持った少女を聖骸布の元に連れて行くという出来事があった。しかし、奇蹟は起こらなかった。少女の容態は何ら変わることはなかったのである。そしてその結果を受けてか、それまで聖骸布の真贋を確かめる本格的調査は以前として禁止されていたが、(注1)1978年になり、ようやく調査の許可が降りたのである。そしてその年、凡そ120時間を費やして初めて本格的な調査が行われたが、一体なぜそこにキリストの像が浮かび上がったのか、その理由についてはとうとう理由は掴めず、謎のままに終わっている。その当時調査に参加した写真家のバリエ・シュワルツ氏は調査の結果を以下のように語っている。

「一体どのようにしてこの布にキリストの姿が現れたのか、我々は徹底的な調査を行いました。X線調査、紫外線テスト、波長解析はもちろん、布の全てを1インチごとに写真に収めました。でも結局、原因は分からないままだったんです。我々のチームは決してアマチュアなんかではありません。調査に参加した科学者は、最初の原子爆弾の開発に携わった人間もいましたし、宇宙プログラムの専門家もいました。しかしそれだけの人間達が必死に原因を探っても、とうとう理由は見いだせないまま終わったわけです。キリストの像が確かにそこにあること、そしてそれは決して写真でもペイントでもないこと、我々が確認できたのはたったそれだけです。それと、布と身体が直接くっついて出来たことはおそらく間違いがありません。またそれによって血液などの特徴は掴めます。しかし、一体どうやってそこに像を転写することが出来たのか、それは本当に謎のままなんです。」(写真は聖骸布を撮影した写真のネガ)

そして第二回目の調査は1988年に行われた。今度は科学者らは聖骸布の一部分を切り取り、布片を考古学調査などで用いられる炭素年代測定にかけたのである。この炭素年代測定とは物質に含まれる炭素の特性を調べることで、その物質がいつ頃作られたかを特定するものである。

そしてその結果、聖骸布は中世に作られたものであると断定され、1988年10月13日、大英博物館において調査団が偽物であったということを発表、トリノの枢機卿アナスタシオ・アルベルト・バレストレモロ氏はその結果を認めたのである。そしてその後、その結果はカトリックの教会でも認められ、その8年程前に聖骸布にキスして祝福したヨハネ・パウロ2世に屈辱を与えたのである。

しかし、その後その調査における炭素年代測定は誤りであるという批判が聞かれるようになった。トリノの聖骸布について本を著わしたイアン・ウィルソン氏は、調査団は布のサンプルを切り取る場所からして間違えていたと主張している。

「全くおかしな事だよ。科学者達は聖骸布を前に集まって、さてどこを切り取ろうか、なんて議論しあってるんだ。しばらくして隅っこの方を切り取ったんだけど、そこは明らかに本来の布でない場所でね。つまり間違った場所を切り取ってそれを研究用のサンプルにしてしまったんだ。」

また「Burial Cloths Of Christ」の著者でもあるマーク・ガシン氏は更に、聖骸布を本物である証明とする最も重要な証拠はスペイン北部のオビエドから発見された血まみれた布片であると語る。(注2)その布はキリストの頭部の血を拭った布であると信じられており、その布片を調査した結果、それはトリノの聖骸布と異なり、あっさりと紀元一世紀前後のものであることが明らかになったのである。またその布片についていた血痕はAB型を示していたという。

「そして検査の結果、その布片についていた血痕とトリノの聖骸布についていた血は同一人物のものであることが明らかになったんです。事実、この布は非常に長い間特別なものとして崇められてきたわけです。それはやはりこの布がナザレのイエスの身体を包んだものであるからに他なりません。」

しかしこうした発見にも関わらず、未だ聖骸布には多くの懐疑論者がいることも事実である。

テキサス大学教授ステファン・マッティングリー氏は聖骸布に浮かび上がったキリストの像は人間の死後、人体に繁殖するバクテリアによって作られたと説明している。

「これは奇蹟などではありません。単なる物理的な現象である以上、そこには必ず科学的な説明が可能なはずです。それに実験の結果、特定の条件の下ではこれは誰にでも起こりえる現象であることが明らかになったんです。つまり、誰でも死後にこういう布を作る事は可能である、ということです。」

また別の解釈としては南アフリカ大学の教授ニコラス・アレン氏はこのキリスト像を人類最古の写真(写真の技術が偶然的に用いられたケース)であると推測している。

このように、現在でもその真贋、そしてその転写方法を巡り様々な憶測が飛び交っているように、トリノの聖骸布を巡る議論が終結することはおそらくまだ遠い先のことになりそうである。

しかし、その真贋をさておいてこのトリノの聖骸布が多くの人を魅了して止まない事はまた紛れもない事実である。2000年に展示された際には実に3百万人の人々がその姿を一目見るために聖骸布のもとを訪れている。

ガシン氏は今後も聖骸布の真贋を巡る議論は決して終わることはないだろう、と話している。「両者の言い合いはまだこれからも当分続くでしょう。確かにこれがあのイエスを包んでいたものであったか、それは究極的には証明不可能だからです。キリストの聖性までも証明する科学的検査など不可能ですからね。しかし、このトリノの聖骸布に多くの吟味すべきポイントが含まれている事は、また否定しがたい事実です。」

次回、聖骸布が展示されるのはおそらく2025年になると言われている。


【参考】TurinShround.com | 写真のはじまりは「トリノの聖骸布」? | 最後の奇蹟─トリノの聖骸布


【X51追記】注1:実際には1973年にも簡単な検査は行われている。またその際には表面に付着した花粉が採取され、その結果、多くの花粉がエルサレム付近のものであることが判明している。

注2:本文中の聖骸布の歴史に関して、マンディリオン(スペインの布)と聖骸布を別のものであるとする説と、同一のものであるとする説がある。スペインのマンディリオンはキリストが磔刑の場へと向かう途中、聖女ヴェロニカが十字架の重みにその場に崩れたキリストの顔を拭うために使った布であると言われている。

また画家のポール・ヴィニョンはこの布に興味を抱き、調査した結果、いかなる画家もこのようにネガのような絵を描く事は不可能であると結論し、またコンスタンティヌス大帝の時代にキリストの偶像の描き方が極端に変化したのは間違いなく聖骸布の影響であると話している。またその説は後に行われた画像解析(転写した部分から立体=元の顔を起こす解析)においても、圧倒的な正確さが示され、画家の作品という説は否定されている。

また多くの写真技術者もこの布を検査しているが、例え中世に作られたとして、何故、その当時まだ存在しない写真技術で転写する必要があったのか、その事実に答えられるものはいない。単純に信仰者を喜ばすには写真に映さなければ移らないようなネガ転写でなくポジで「分かりやすく」転写すべきだからである。

他にも高名な解剖医のピエール・バルベが聖骸布を検査した結果、手首に突き立てられた杭は手の甲の方に突き出ていることが明らかになったが、実際に人体を用いてバルベが検査した結果、手首から打ち込むと骨にあたり、布にある通り、手の甲の方に突き出ることが判明したと話している。また更に聖骸布には腹部に槍を突き立てられた跡があり、それも聖書の記述(キリストは死後、その死を確認するために右腹部に槍を突き立てられたと書かれている)と符号していることを確かめている。

現在ヨーロッパだけでもトリノの聖骸布のようにキリストの身体を包んでいたと伝えられる布は他にも40点以上存在していると言われている。

Posted by : X51 | 2004年04月05日 11:06

http://x51.org/x/04/04/0555.php#more

 次へ  前へ

Ψ空耳の丘Ψ34掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。