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金寿換(キム・スファン)枢機卿は今年3月21日光州(クァンジュ)の某聖堂で、「弾劾問題により国論が分裂してはならない。憲法裁判所の判断を待とう」と述べた。これに対し、カトリック正義具現全国司祭団の顧問 咸世雄(ハム・セウン)神父は、先日の某インターネットメディアとのインタビューで「あの方(枢機卿)の考え方は多少時代遅れのものと判断される」と批判した。
咸神父は「金枢機卿は時代の徴表を正確に読み取れなかった。あの方に情報を提供した方々の限界だ。枢機卿の『辛抱しろ』という言葉は、不義な独裁時代に権力者たちが常に口にしていた表現」と批判したと報じられた。
枢機卿の原論的かつ当たり前な発言に対し、カトリックの重鎮神父が過激な表現を使いながら真っ向から異議を申し立てる姿は、まず私たちには不慣れな場面だ。枢機卿の発言が特定政派や社会勢力を支持するものだとは思えない。健全な常識をもって、国の将来を心配する人なら誰でも言える話であり、言うべき話だ。
にもかかわらず、咸神父が同インタビューで「盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に対し深い愛情と高い期待を持っている。ハンナラ党や新千年民主党(民主党)、ヨルリン・ウリ党(開かれたわが党の意/ウリ党)の方々は、仕方なく少数派に転落するほかないと考える」とし、自分の政治的性向を明らかにした。
このような政治的性向から枢機卿の発言を解釈すれば、「時代遅れの発言」であり「独裁時代の権力者の表現」になるほかないだろう。
今、私たちは「目上の人」不在の時代を生きている。家庭にも社会にも目上の人は存在しない。さらに正確に言えば、目上の人が存在しないわけではなく、目上の人を尊敬しない時代だ。
独善の中でも最も危険なのは、まるで正義が自分の専有物だと思い込み、行動することだろう。宗教者がこのような独善と自慢を最も警戒する理由もこのためだ。
枢機卿を批判した咸神父の発言を聞いていると、まさに「目上の人」を尊敬しないこの時代に自分だけが正義を行っているかのように振舞う人々の考え方がみえるようで、さらに寂しくなる。
枢機卿は先日、反米および親北問題と関連して国を心配する発言をし、「民族の明日における深刻な足かせ」と批判された。今や枢機卿の受難時代だ。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/04/02/20040402000084.html