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韓国大統領弾劾と半島情勢
〜半島情況を把握し、東アジアの過去と未来を自らのなかで構築しなおしてみよう〜
3月12日、韓国国会は大統領弾劾案の可決という憲政史上初の事態を演出した。盧武鉉(ノムヒョン)政権誕生からわずか1年。3月初めに野党民主党が「弾劾も辞さず」と動き出した時点では弾劾案の発議すら危ぶまれており、本紙も弾劾の可能性は考慮はしていたものの現実にはあり得ないと考えていた。弾劾決議に持ち込めば、ハンナラ党をはじめ野党側にマイナスとなる可能性が高いからだ。それが一転して弾劾可決。一見、政権が崖っ淵に追い込まれた恰好になってしまった。
盧武鉉大統領は職務停止で表向き国政に直接携われないという「謹慎状態」になるため、韓国国民には空白感が生まれている。重要案件などで国政の滞りを心配する声もある。
憲法裁判所の最終審判では、弾劾理由が弱いこともあって弾劾反対論が優勢の見通しだが、審判結果がすぐに出る可能性は少ない。結局、盧大統領の「辞任か続投か」は4月総選挙の結果しだいということになる。与野党は今後、総選挙を舞台に激しい総力戦を展開する。
世論調査では、与党ウリ党の支持率が上昇し、政治資金疑惑で人気急落のハンナラ党を上回ってトップに立っている。この数字こそ盧大統領を強気にさせている理由だ。政党支持では「未決定」が40%以上という状況だが、盧陣営は市民運動やインターネットなどを利用した選挙上手だけに、総選挙でも「大統領選の再現」で与党の劇的勝利を狙っている。そして今のところ、盧武鉉の圧勝、韓国の親北朝鮮化という流れは止まりそうにない。
しかし、この時期に韓国大統領が表舞台から姿を消すことは、北朝鮮を巡る6カ国協議にも重大な影響を与える。――そうしたすべてを認識、把握したうえで、今回の弾劾決議可決の方向が演出されたと考えておかしくはないだろう。
そもそも盧武鉉大統領誕生のときから、いや、金大中(キムデジュン)大統領の登場からずっと、韓国は北朝鮮に呑み込まれていたと考えて良い。
隣国・日本の庶民大衆の一人として、ここで金大中・盧武鉉の正体を見直し、彼らを呑み込んだ北朝鮮の本質を理解し、極東アジアのあるべき近未来の姿を自らのなかで再構築する必要があると思われる。
盧武鉉とは何者なのか?
2002年(平成14年)3月16日、韓国の全羅南道光州市で行われた与党(新千年民主党)の大統領候補指名大会(国民競選)で、盧武鉉はライバルの李仁済(イインジェ)を204票上回って勝利し、与党の大統領候補となった。これは与党内部はもちろん韓国国民にとって意外な結果だった。
この5年前、1997年12月には全羅南道の金大中が90%超という圧倒的得票率で勝利し、その勝利がそのまま大統領選に直結した。今回もまた、全羅南道の韓和甲(ハンファカップ)が圧勝し、そのまま大統領選に向かうだろうと誰もが思っていた。ところが韓和甲は3位。これは明らかに異変であった。いや、異常だった。事実、半年以上たった2002年10月になって新千年民主党の古参議員(当選6回)の金令培(キムヨンペ)が「国民競選は詐欺だった」と発言している。
「新千年民主党の国民競選は国民が自発的に参加した選挙ではなかった。候補者たちが動員したのだ。それは詐欺だ」……
(2002年10月8日/記者との昼食会での発言。)
この時点で野党ハンナラ党の大統領候補は李會昌(イヘチャン)である。では、李會昌に勝てる与党候補は誰なのか? それは韓和甲か李仁済と言われていたのだが、なぜか盧武鉉が勝利してしまった。そして異常はこれで終わったわけではなかった。その後、盧武鉉にはさらなる強敵が出現する。2002年夏の日韓共催ワールドカップの熱狂を受けた韓国サッカー協会の鄭夢準(チョンモンジュン)会長だ。鄭夢準は現代財閥の御曹司として知名度も高く、マサチューセッツ工科大で博士号を取得している超エリートだ。与党・新千年民主党は候補を一本化し、強敵・李會昌に対抗しようと考えて単一化推進協議会を立ち上げ、鄭夢準一本に絞るはずだった。ところが結果として盧武鉉に統一されたのだ。
なぜ盧武鉉になったのか?
慶尚南道の貧農の家に生まれた盧武鉉は大学にも通えず、独学で司法試験に合格。短い判事の経験の後、いわゆる人権派弁護士、民主化運動の弁護士として労働者大衆を中心に支持基盤を広げていた。彼の妻の父は共産パルチザンであり、刑務所で獄死している。たしかに労働者を中心とした大衆から支持される要素はじゅうぶんにある。しかしその要素は、韓和甲や李仁済、鄭夢準と比べて圧倒的ではない。いやどちらかと言えば見劣りするし、新千年民主党が望む人材ではない――はずだった。
なぜ盧武鉉になったのだろうか?
さまざまな要因が複雑に絡んでいる。ただひと言で片づけるならば、こう説明するしかない。「金大中が望んだのだ」と。
すべては、前大統領である金大中が仕組んだものなのだ。もちろん他にも複雑な事情がある。だが、盧武鉉は間違いなく金大中が作り上げた大統領なのだ。
カネで演出された南北会談
金大中は大統領を退任する10日前、すなわち2003年2月14日の朝に「対国民談話」の記者会見を開いた。その席で金大中は、歴史的南北会談に絡んで現代財閥の一つ現代商船が北朝鮮に送金したと噂される事件に関し、「2億ドルを北朝鮮に送金した」ことを認め、「すべての責任は大統領である私が持つ」と明言。しかし「この問題を法律的に取り上げるのは国益のために適切ではない」と矛盾する発言をしている。
この2日後の2003年2月16日、鄭夢憲現代財閥会長が記者会見で、「2000年6月に北韓(北朝鮮)での事業のために5億ドルを送金した。これが金大中・金正日の南北会談に寄与した」と語った。ここで疑念が拡大することになった。金大中が語った2億ドルは、鄭夢憲の5億ドルの一部なのか? あるいは……。ちなみに鄭夢憲会長は、この日から約半年後の8月4日に投身自殺をしている。
韓国国内では当然ながら疑惑糾弾の声が高らかにあがった。鄭夢憲会長が記者会見を行った2003年2月16日にはハンナラ党が特別検事法を強行採決して捜査が進められることになった。5月末には現代財閥に不正融資を行ったとして産業銀行の李瑾栄(イグニョン)が逮捕され、続いて融資に圧力をかけたとして大統領府経済首席補佐官の李起浩、大統領秘書室長の朴智元が逮捕された。
そして興味深いことに、6月に入ると平壌放送は「(韓国の)特別検事法の無理な導入は南北関係を対立の方向に駆り立てるばかりか凍結状態に追い込む」と、5億ドル送金の捜査に対して脅迫めいた放送を流したのだ。この一事を見ただけでも、噂されている金大中と北朝鮮との親密な関係を推測できる。
特別検事法に基づく捜査は同年6月25日に終了し、関係者8人が起訴された。しかし金大中の関与については、「送金の事実は承知していたが違法行為にどこまで関与していたか判明されなかったので捜査から除外された」と報告されたのだ。
これこそが盧武鉉新大統領が金大中に対して行った最大の配慮だった。
金大中を守り、金大中が唱えてきた南北政策(太陽政策)を継承し、金大中が望む方向に韓国を導くこと。――それが盧武鉉に与えられた使命であり、盧武鉉が大統領になった最大の理由なのだ。
では、金大中とはそもそも何者なのか?
正体不明の金大中
歴史的な南北会談を実現させノーベル平和賞を受賞した韓国の大統領。かつて朴正熈時代にKCIAによって日本から拉致された民主化運動の旗手……。他にも「親日的」とか「太陽政策の推進者」とか、多くの方々は金大中のある面を理解していると思う。だが実際のところ、金大中ほど謎に満ちた人物はいない。
なにしろ生年月日すら不明なのだ。いちおう公式には1926年1月6日生まれとされている。だが金大中は最初の大統領選(1971年・昭和46年/朴正煕と戦った選挙)では「亥年生まれ(1923年末〜1924年)」と自ら述べている。そして次の選挙、1987年(昭和62年)では公式記録に「1925年12月3日生まれ」と記入し、この数字は現在もネット上でも確認できる。ところが1997年に大統領に就任した際には青瓦台(チョワンデ)のホームページに「1926年1月6日生まれ」と記している。
生年月日のことは、まあ大した問題ではないとしても、学歴詐称のほうはどうだろうか。最初の大統領選のときには「高麗大学経営大学院修了」だったのが、次には「慶熈大学院経済科卒」となり、大統領に当選したときには「木浦公立商業学校卒」となる。――韓国でも金大中の学歴疑惑が問題化したことはあったが、金大中の秘書(韓和甲)がこの問題に強烈な批判を展開、「エール大学やハーバード大学から名誉博士号を与えられた世界的碩学者に失礼な話だ」ということで、疑惑騒動は収束した経緯がある。
(ちなみに現在、青瓦台の「金大中略歴」には、1947年以前が省かれている)
卒業してからの活動記録も怪しい。木浦商校を卒業して全南汽船に入社、大東亜戦争後の1947年(昭和22年)からは木浦海運を経営していたと本人が語っているが、彼の親戚によると卒業後すぐに満州(現中国東北地方)に渡り、豊田と名乗って日本軍の情報機関で働いていたという。
また金大中が左翼活動を行ってきたことは誰もが知っているが、朝鮮戦争のときには何をしていたのだろうか。本人の言によると、自営していた木浦海運の仕事をして、戦争の最中に人民解放軍(北朝鮮軍)に捕らえられ、銃殺寸前のところだったという。銃殺寸前だった者がどんな手段で助かり、どうしてそんな人物が政治の世界で生きることになったのだろうか。謎は深まるばかりなのだ。
過去の話はどうでも良い。だがカネに纏わる疑惑も非常に多い。
金大中は昨年2003年2月末に青瓦台からソウル市麻浦区東橋洞の私邸に戻った。その私邸は彼が大統領であった時代に隣家を続々と買って広げられ、2000坪近い土地に私邸や金大中図書館、アジア太平洋財団(亜太財団)の事務所、2か所の警備哨所を備えている。地下1階、地上2階、総建坪199坪の私邸はエレベーター付きで浴室が7つ、室内庭園もあるという超豪華なものである。韓国大統領とは、それほど儲かるものなのだろうか?
金大中のカネに纏わる話は山ほどある。ここですべてを語ることなど到底できない。ひと言で表すなら、金大中は「政治家」という営利事業を行う経営者であり、政治のすべてを私腹を肥やすことに使ったと言えるだろう。
金大中に対する疑念疑惑はいくら書いても尽きることがない。その謎の実体は情況証拠だけで山のようにある。金大中とはそもそも何者なのか。簡単に言えば以下のようになる。――終始一貫して反韓国運動を展開し、また同時に反日活動を展開し、そして反米であった。反韓・反日・反米こそ、金大中のすべてだと語って良い。しかも彼は、反韓・反日・反米という運動をカネにしていた驚くべき人物だったのだ。
昭和48年(1973年)8月8日、金大中は滞在中の東京九段のホテルから拉致され、5日後にソウル麻浦区の自宅に戻された。KCIA捜査局が総指揮をとったとされている。この事件によって彼は「民主化の旗手」としての名を高め、また日本の警察警備の甘さが指摘され続けてきた。だがこの事件の「慰労金」としてKCIAが金大中に莫大なカネを支払ったという話は、あまり知られていない。
北朝鮮工作員が戦後50余年、韓国、日本で延々と続けてきた工作の一つに社会不安定化工作がある。金大中本人が強い意思を持って北朝鮮の工作活動に従事したか否かは定かではない。しかし金大中が韓国、日本の不安定化工作を行ったことは事実であり、日本での拉致事件にもその一端を垣間見ることができる。
話題が大きく逸れて申し訳ないが、日本の不安定化について強く思うことがある。
最近――というか、おそらく戦後十数年を経てからというもの、新聞TVの報道は悪事ばかりを暴きたてているように思える。とくにこの数年は、目を覆うばかりの凶悪犯罪が目立つ。かつて――とくに戦前の新聞を見てみると、軍国主義を強調する意味合いもあっただろうが、感動の実話、善行といったものがどこかに載っていたものだった。そうした記事は確かに感動を呼び、心を踊らせるものだった。
新聞TVのニュースだけではない。評論家、批評家、文化人等と呼ばれる人々はただひたすら政治家の悪口、財界人の悪口、他人の悪口を並べている。辛口の批評や悪口を言うことが恰好良いこと、知的なことと誤解している輩が多い。その結果、世間では「この程度の悪事は普通のこと」「政治家というのは悪事を働く存在」といった雰囲気が充満し、社会全体がどんどん腐敗堕落していくように思える。
この状態こそ、社会を不安定の方向に導くものだということに気づくべきだ。政府に、社会に、わずかでも希望を繋ぐために、庶民大衆の一人として何ができるか――。それは周囲を恐れずに良い部分を徹底的に褒め上げることだろう。
大東亜戦争終結後の半島を再考
話題が大きく逸れてしまった。元に戻そう。
私たちはここで、戦後日本を生きてきた庶民大衆の一人として大東亜戦争直後の半島を再認識する必要がある。半島の現在と未来に日本人がいかに関わるか――。「よその国の事には口を挟む必要はない」などと逃げている場合ではない。戦後日本を生きてきた庶民大衆の一人として、われわれは半島の未来に関与する義務があるのだ。
昭和20年8月15日の日本の敗戦。この直後朝鮮半島はどのような状況になったのか。
半島南部は米国の軍事体制下に置かれ、北部はソ連軍が支配するという状況のなか、日本の占領支配からの解放で半島は熱気に満ちていた。
大東亜戦争終結4カ月後の昭和20年(1945年)年末、モスクワで開催された米英ソの3カ国会議では朝鮮半島を5カ年間信託統治に置くことが決定された。だが、その具体化のために翌年(1946年)3月と翌々年(1947年)5月にソウルで開かれた米ソ共同委員会は決裂。朝鮮半島をどのような形にするかという問題は国連に委ねられた。当時の国連は米国主導のものであり、その国連決議に基づいて1948年(昭和23年)5月から韓国政府が統治をすることになった。初代大統領には大戦中に上海に臨時亡命政府を築いていた李承晩(イスンマン)が、38度線以南の総選挙で選ばれた。
いっぽうソ連軍支配下の北朝鮮では、戦後直ちに「反帝反封建・民主主義革命を行う独立国家」の建国が叫ばれ、ソ連の沿海州から戻った金日成(キムイルソン)が主導権を確保。翌1946年2月には早くも「北朝鮮臨時人民委員会」という政府組織を発足させた。米国主導の国連がその決議で朝鮮全土の総選挙を求めたことに反発し、国連代表の入境(入国)を拒否。韓国政府が誕生する前月の1948年(昭和23年)4月には韓国居住の左系論者を平壌に呼び寄せ、米ソ両軍の完全撤退と朝鮮半島統一の決議を行っている。
こうした状況を経て1950年(昭和25年)6月25日から3年余にわたって朝鮮半島の全土を戦場とした大規模な戦争――朝鮮戦争が勃発した。この戦争に先立ち、金日成はソ連のスターリン、支那北京政府の毛沢東を訪ね南進の許諾を得ている。
北朝鮮軍の南進直後は北側の圧勝で、一端は韓国軍を釜山まで追い詰めたほどだった。だが国連軍が仁川から上陸して形勢は逆転。今度は北朝鮮軍が支那国境まで追い込められることになる。そこに支那人民解放軍(記録上は志願兵。実体は支那正規軍である野戦第4軍)が参戦し、再度38度線まで戻したところで膠着状況となり、ソ連の仲介により休戦協定が結ばれたのだ。
北朝鮮の建国と金日成神話
大東亜戦争の終結を目指して朝鮮半島に進出したソ連軍は半島北部を武力制圧し、日本の敗戦決定と同時にここに共産主義国家の建国を決定する。北朝鮮建国はすなわちスターリンの意思だった。そのスターリンの代弁者として建国に関わったのが朝鮮共産党北部朝鮮分局であり、それは後に北朝鮮臨時人民委員会という政府組織に発展する。この委員会の委員長こそスターリンの傀儡である金日成だった。
金日成は「抗日パルチザンの英雄」とされているが、それは整合性も正統性も存在しない作り話である。かつて1920年代に抗日戦の英雄として金日成将軍という人物がいたが、この人物と北朝鮮建国の父とされる金日成とは別人である。北朝鮮の金日成は明治45年(1912年)4月生まれであり、昭和16年に小規模な抗日運動を行ったとされているが、それすら疑問視されている小物で、本名は金成柱とも言われる。当時、抗日戦という性質上、変名・偽名・改名等は当たり前で、それが問題とされることはなかった。その結果、金日成は十数年前の人物と混同、同化されたようだ。金日成(金成柱)が「抗日パルチザンの英雄」だったという神話は現在にまで語り継がれ、今や北朝鮮以外の地域でもそれを真実だと考えている人もいる。
朝鮮戦争後の労働力不足、深刻な経済危機、さらには支那とソ連との対立という構図のなかで、窮地に追い込まれた金日成は北朝鮮独自の路線樹立とその貫徹を考えるようになる。ここに強力な影響力を与えたのが彼の側近の金策(キムチェク)である。金策は北朝鮮政府内の主流勢力だった親ソ連派を粛清して壊滅に追い込み、金日成独裁政権を誕生させた。この手柄により彼の出身地とされる城津は「金策」と改名され、また金策工科大学という大学が作られたり、金策を冠に置いた工場や研究所が生まれている。
朝鮮民族はその歴史の流れの果てに、国家・民族より宗族を尊重するという独特の族譜(本貫図)を持つようになった。わかりやすく言えば国家よりも民族よりも身内が大切、一族郎党を大切にするという姿だ。金策はこの本貫図を強制的に取り上げ、廃棄し、まったく新たな民族構成図を作成した。それは朝鮮民族の父祖を「白頭山に誕生した壇君神話」に求め、それが「金日成を一族とする朝鮮族に至る」という建国神話の創出だった。
朝鮮半島の民は、常に同族内の対立が原因で周辺国の介入を招き、それが元で自滅していく。本貫図を廃棄し新たな「金日成一族」意識を持たせることにより、いわば戦前の日本の天皇制のような構図を半島の民に授けたと言える。
金日成の独特の理論とされる主体(チュチェ)思想とは、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」(金日成)と表現される。この理論を確立させた黄チョンヨプ元朝鮮労働党書記(韓国に亡命)は、その基礎理論に戦前のドイツ国家有機体説や天皇機関説を採り入れていることを明らかにしているが、金策が提言した建国神話とあわせて、戦前の日本の影響力を考えざるをえない。
金日成・北朝鮮を背後から作り上げた男・金策。
金策とはいったい何者なのか?
金策と明石元二郎
金策はもともと満州(現支那東北三省)北部、ソ連との国境近くで抗日パルチザン運動を展開していた小部隊に所属していた。後にここで金日成(金成柱)と合流。昭和16年(1941年)に戦争が本格化するや、金日成など二百余名とソ連の沿海州に脱出。終戦後の昭和20年(1945年)9月に金日成ら60人の「朝鮮工作団」と共に北朝鮮に戻ってきた。
こう記すと金日成の仲間に間違いないと思われるだろうが、じつは金策には謎の部分がある。彼は抗日パルチザンの動向を知るために日本軍が放った間諜(スパイ)だったという説が強く存在しているのだ。いやそれどころか金策は日本人だったという説もある。金策の息子は国泰というが、この名は朝鮮では珍しい部類。「国家泰平」から2文字を採ったとなると、非常に日本人的だ。
彼が金日成に入れ知恵し、北朝鮮の民に本貫図を廃棄させて戦前の日本の天皇制のような構図を授けたとしたら……。辻褄は合う。
金策が日本人だったかどうかは不明だが、彼が明石元二郎に連なる間諜だったという説は真実だと考えてよい。明石元二郎という名は日本の近代史に詳しい方なら良くご存じだろうが、念のため以下に概略を記しておこう。
明石元二郎(あかしもとじろう)は大正7年(1918年)に台湾総督に任命され、台湾の事業推進や司法改正に尽力し、台湾人に対する差別教育を廃止させた名総督とされ、現地の人々から敬愛される人物だった。余談になるが、彼の墓は台湾に作られたが戦後国民党統治時代には荒れ果ててしまった。平成6年になって陳水扁(現台湾総統)が台北市長になり、明石元二郎の墓が新たに設置された。
だが明石元二郎が近代史に名を残したのは台湾総督としてではない。
明石元二郎は福岡藩士の子として生を受け、陸軍幼年学校、陸士、陸大と軍人としてのエリートコースを歩み、陸軍参謀本部員として台湾、東南アジア、清(支那)を巡った後、フランス、ドイツ、ロシアに派遣される。そして明治35年(1902年)10月、駐ロシア公使館付き武官(陸軍中佐)に任命されモスクワに赴任。この地での彼の真の任務は、「ロシア・ヨーロッパにおける諜報活動」。――それは日露戦争開始1年数カ月前のことだった。
日露戦争に日本が勝利した原因は3つある。奉天大会戦、日本海会戦の勝利、そしてロシア革命煽動。
最大の勝因はロシア革命煽動とされるが、その功績はすべて明石元二郎に帰する。明石は全ヨーロッパを舞台に縦横無尽に動き、レーニンの革命運動を支援して帝政ロシア・ニコライ2世を揺さぶった。ときにはレーニンを罵倒してその活動を促したのだ。
明石は参謀本部に連絡して莫大な機密費を投じ、ロシア、ヨーロッパに拡散していた革命分子を大同団結させ武装蜂起の工作を行ったのだが、その資金は百万円――現在の金額に換算すると凡そ百億円ほどである。レーニンが後に、「明石元二郎に感謝状を贈りたい」と言ったことが理解できるというものだ。
ソ連共産党国家の産みの親は明石元二郎だったと言える。
明石元二郎だけが特別だったわけではない。
当時の日本人の多くは、全世界を見渡し世界の方向を見定め、遠い未来を夢見ていた。明治生まれ、大正生まれのなかにそうした人々が山ほどいた。昭和ひと桁生まれのなかにもかなりの数がいたようだ。だが近年、そうした男が存在しない。社会がそのような男の存在を容認しない。
昭和20年8月の終戦直後。支那大陸やロシア各地になお相当数の間者(諜報員)が残っていた。そうした諜報員の一人が日本に引き上げる軍属に漏らした言葉がある。
――そうか、わが軍は敗れたか。仕方がない。自分は大陸に残り、大陸中の女を抱いて50人 100人の子供を作ってやろう。そのなかの何人かが先祖返りをして、再度大東亜共栄圏の夢を果してくれるかもしれぬ……。
こんな思いで支那大陸やアジア各地、ロシアに残った猛者たちがかなりの数にのぼったという。
大陸中の女を抱くという夢が素晴らしいとは断じて言えない。また、大東亜共栄圏構築が正義か否かは意見が分かれるところだろう。それが問題なのではない。敗戦後に自らの意思で大陸に残った彼らに正義感などがあったかどうかも疑問だ。ただ彼らは、遙かに広がる大アジアを体の中で理解していた。
アジアを見据えヨーロッパを見据え、民族の未来、人類の未来を考えていた。
中学卒業程度の英語を操って海外に旅行し、「国際人」気取りになっている昨今の若者たちは、中東で起きた事件を「対岸の火事」以下の認識で深く考えようなど夢にも思っていない。
庶民大衆が今、いったい何をすべきなのか。
無力な個人として今、何をしたら良いのか。
生きざまの真価が問われる刻が来ている。
http://www.gyouseinews.com/foreign_prospect/mar2004/002.html