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70年代末、80年代初め、イスラムの戦士は共産主義の拡散を妨害する合衆国の影響力の強化のための手段として生まれ形成され
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投稿者 乃依 日時 2004 年 3 月 25 日 20:57:54:YTmYN2QYOSlOI
 

http://arab.fc2web.com/palestina/cia4.htm

 70年代末、80年代初め、イスラムの戦士は、共産主義の拡散を妨害する合衆国の影響力の強化のための手段として生まれ、形成された。

FSB長官ニコライ・パトルシェフ、2001年4月

 1981年初めのロナルド・レーガンの権力掌握と共に、モスクワとの対決は、ワシントンの公然及び非公然の政策の優先方面となった。その最初の目的の1つとして、第三世界諸国、先ず第1に、近東、アフリカ及びラテン・アメリカにおけるソビエトの影響力の「無力化」が宣言された。更に、その国境に直接隣接する地域におけるソ連の立場を破壊することが計画され、対決の最終段階は、敵の最終的撃破を保障するはずだった。

■アラビアの罠

 叙述されたドクトリンの引き続く実現は、近東及び北アフリカ地域における米ソの競争の急激な先鋭化をもたらした。ホワイトハウスは、同時にアフリカ、西アジア及び中央アジアの複数の地域において、自国の行動と同盟国の努力を 上手に調整しつつ、組み合わされた方法で行動した。蓄積された経験とアラブのパートナーの忠告のおかげで、始まった決戦において、ワシントンは、宗教、民族及び氏族要素を効果的に考慮した。多くの場合、特にこのことは、東洋の精神をめぐる決戦において、米国の成功を保障した。彼らの敵は、逆に、そのイデオロギー的硬直性のため、しばしば、「アラブ」料理の最も狭いニュアンスを無視しつつ、状況を適切に飲み込まなかった。

 PLOの活動が80年代初めまでに米ソの利益の衝突地帯であった広範囲な地域をカバーした以上、両ブロックは、同組織との関係を著しく拡大した。実際、ロナルド・レーガン自身は、親イスラエル・ロビーの影響下にあり、パレスチナ人に非常に否定的に接し、選挙キャンペーン中、PLOを「クレムリンの指示で行動するテロ組織」とすら呼んだ。それにも拘らず、国家安全保障会議とCIAには、別の意見を堅持する少なからない官僚もいた。彼らは、ヤセル・アラファト及び彼の内政上のライバルとの秘密対話の必要性を主張した。イスラエル及び影響力のあるユダヤ人共同体との関係を損なうことを希望しない大統領が要求した以上、秘密裏にだった。しかしながら、パレスチナ人との接触は、そうしてのみ、米国がソ連との対峙において、サウジアラビア及びペルシャ湾の王国の支援を当てにできた以上、彼らに必須的となった。結果として、「パレスチナ問題」への各種アプローチの支持者達は、公式な一歩は踏み出さず、CIAのルートによるPLOとの秘密関係のみという妥協に達した。

 選挙キャンペーンの成功に対するお礼として1981年1月にこのポストを受け取ったアメリカ諜報部のボス、ウィリアム・ケイシーは、パレスチナ人との対話の主要な支持者の1人だった。つまり、彼は、CIAの管轄分野を拡大しようとしただけではなく、アラブ、特に選挙での共和党の勝利に強く貢献したエル・リャドの利益のロビイストともなった。それ故、諜報部長官就任初日から、ケイシーがモスクワとの競争の「東部」戦線に一義的な重要性を付与したことは驚くに値しない。彼の主要なパートナーとなったのは、エジプト、アラブ首長国連邦、パキスタンの特務機関の指導者、特に、サウジアラビア総合情報庁長官トゥルキ・アル-フェイサル王子だった。多国間協議の過程において、コードネーム「Program-Pd」の名を受け、当時の地政学的現実に完全に一致したパレスチナ民族運動に対するCIAの新戦略が立案された。これは、正に複数の目的、特に、PLO極左派の弱体化及びソ連とファタハの関係の破壊を追及した。しかしながら、CIAは、これらの希求に止まらなかった。トゥルキ・アル-フェイサルの発議により、ケイシーは、モスクワと結び付いたPLO指導部への選択肢の創出のために、パレスチナ運動における「独立の」イスラム分子の秘密支援への参加に同意を与えた。周知の通り、ヤセル・アラファトは、敬虔なムスリムではあったが、常に世俗かつ民主的な未来のパレスチナ国家像のために闘っていた。そのような立場は、PLOのマルクス主義集団の宗教への否定的な態度、並びに同組織の指導的ポストにおける多数のキリスト教徒の存在により引き起こされた。それ故、トゥルキ・アル-フェイサルとウィリアム・ケイシーは、競合するイスラム勢力の出現がアラファトに圧力を与え、一方、ソ連の立場の全般的弱化の結果、西側との接近に進ませるものと予想した。成功した場合、PLOは、エル・リャドとワシントンの完全支配下に入るはずだった。これらの努力の調整の下、イスラエル(米国のもう1つの地域同盟国)側からのパレスチナ人に対する圧力と共に、「Program-Pd」は、その「操縦性」を保障するはずだった。

 このようにして、「イスラム要素」は、再び、アメリカの秘密政策の最も重要な手段の1つに変わった。実際、CIAの以前の実験と異なり、ケイシーは、19世紀にロシアに対してスーフィー教団を中央アジアに見事に送った大英帝国の豊富な経験に支えられつつ、この強力な武器を利用した。アフリカ及び近東からソ連を追い出す目的を追求しつつ、米国は、このようにして、シリア、南イエメン、アルジェリア、リビア及びエチオピア等、可能なところ全てで、「イスラム要素」を稼動させた。「パレスチナ」方面も、例外ではなかった。

■モスクワの無力

 1982年夏のイスラエル軍のレバノン侵入と、PLOの主力がいたベイルートの封鎖と共に、CIAには、パレスチナ人に対するモスクワの影響力を最小化するユニークなチャンスが提示された。多くの場合、これは、ソビエト指導部自身の無作為のおかげで可能となった。問題は、既に同年春、ファタハの諜報部がKGBのルートで来るべきイスラエルの作戦についてクレムリンに通報したことにある。パレスチナ人は、何よりも、当問題に関するソ連の立場に関心を有していた。回答として、彼らは、軍事援助の提供に至るまで、状況のいかなる発展の下でも、「兄弟」の支援の確約を得た。しかしながら、レバノン戦役が始まったとき、クレムリンは、自分の約束について忘れ、政治レベルですら無作為だった。1ヵ月半後、以前の同盟国に失望したアラファトは、苦々しく語った。「米国は、少なくとも、この紛争において何らかの役割を演じているが、ソビエト連邦は、完全な沈黙を保っている」。

 状況は、ベイルートでの戦闘行動開始と共に、更にモスクワが自国大使館及びKGB現地支局との連絡を失った ことによっても深刻化した。東ドイツ諜報部によりアンドロポフの官庁に提供された援助は、生起した状況に顕著には影響しなかった。結果として、PLO高位指導部との常時接触を維持したラングレーは、最終的に主導権を奪った。CIAベイルート支局長ロバート・クレイトン・エイムズは、国務省の使節フィリップ・ハビブと並行して、包囲されたベイルートからのアラファト支持者達の無血撤退を保障するため、イスラエル司令部とパレスチナ人間の仲介者となった。その指導者の「反帝国主義的」レトリックにも拘らず、パレスチナ人は、特にアメリカ人に、PLOの行政機構だけではなく、その武装部隊の 維持に恩義があることを良く理解していた。

 その成功を確実なものとしようとして、ケイシーは、トゥルキ・アル-フェイサルの発議により、ソビエト特務機関とファタハの協力にピリオドを打つことが求められた作戦を個人的に立案した。最近の同盟国間の事後の接触が、単に不可能となるような状況の創出が期待された。このために、古く、信頼できる信用失墜方法を利用することが決定された。

■クレムリンに対する中傷

 アラファトの支持者達がベイルートを離れた後、レバノンの地における彼らの最後の拠点となったのは、トリポリ市北東に位置するアル-バッダウイ難民キャンプだった。しかしながら、PLOに敵対的なシリア大統領ハフェズ・アル-アサドは、この地区からアラファトの支持者を追い出そうとしていた。決定的衝突の直前、1983年秋、ファタハは、全市を占領する試みに着手した。アラファトの支持者達が外部から支援を得ることを期待していたトリポリ港に、特別な意義が付与された。市の海岸区域を支配するレバノン共産党(LCP)の武装部隊が、彼らに積極的に抵抗した。そのような敵に対する決定的な行動がモスクワの否定的な反応を引き起こすことを理解し、ソ連との完全な関係の回復を期待しつつ、アラファトは、極めて困難な状態にあった。予期せずして、現地イスラム組織「アル-タウヒード・アル-イスラミ」のリーダー、サウジ諜報部との関係で知られるサイド・シャーバン師が、彼に援助を提案した。彼は、数人の「赤い」指揮官を買収さえすれば、余計な流血なしに港湾に対する支配を保障できる可能性をPLOの指導者に納得させた。短い躊躇いの後、アラファトは、これほど単純な決定に同意し、トゥルキ・アル-フェイサルとウィリアム・ケイシーが仕掛けた罠に掛かった。ファタハとの同盟を公式表明して、狡猾な師と彼の数百人の戦闘員は、現地サウジ支局の援助により、LCPトリポリ支部の47人の主要活動家を略取した。文字通り、数時間の内に、彼ら全員は、 首を切られ、クレムリンのレバノンの同盟者に対してアラファトの戦闘員により加えられた残忍な制裁に関する情報は、全国及びアラブ世界に直ちに流布された。

 ペルシャ湾、エジプト及びヨルダンのマスメディアで職業的に組織されたキャンペーンは、アメリカとサウジ諜報部のトリポリの行為の効果を著しく向上させた。それ以来、モスクワとファタハの関係は、決して戦前の水準に達しなかった。アラファトは、結局、戦争の最も決定的な瞬間における「ロシア人の完全な沈黙」を許さなかった。一方、ソビエト指導部は、レバノン政策におけるLCPの立場の破壊をファタハのリーダーの責任にした。近東におけるソビエトのプレゼンスへのヤセル・アラファトの態度は、特にこのことで説明もされる。公的に、彼は、モスクワの「同志」との交流において、丁重かつ友好的な態度すら維持したが、実践においては、ますます頻繁に、ソ連の敵対勢力と協力した。その雄弁な事例は、1985年秋のソビエト市民4人(KGBベイルート支局職員2人を含む。)の誘拐へのアラファトの参加である。 このようにして、トリポリにおけるシリア軍の「掃討」から自分の味方を助けようと試み、ファタハのリーダーは、シーア派の「ヒズボラ」の「作戦課」と共同で、モスクワを通してダマスカスを脅迫しようと試みた。ソビエト市民の誘拐直後、誘拐犯は、トリポリにおける懲罰行為の停止を要求した。さもなければ、人質を片付けると約束した。アラファトは、ファタハの特務機関指導者が 、ソ連が米国の強い圧力に屈服して、地域におけるその立場を急速に失っていることを確信した後初めて、この一歩を踏み出した。その結果、PLO議長は、シリアにおけるソビエトの影響力の残余を利用することに最終的に決めた。彼は、モスクワとの大規模関係の復活の展望を既に真剣に当てにしていなかった。それ故、ファタハのリーダーは、以前と同様、人質の解放に従事したKGB駐ベイルート支局長ユーリー・ペルフィリエフに「永遠の」友情を誓うと同時に、彼らの抑留に関する指示を個人的に下した。ここにおいて、ソ連とファタハの「協力」は、事実上、終わりに近づいた。実際、ソビエト特務機関は、1991年夏に至るまで、PLOの若干の集団と非常に密接な関係を維持し続けた(ソ連崩壊の少し前、 彼らの助けで、特に、近東及びアフリカへの武器売却を伴う壮大な取引が展開され、今に至るまで、全く秘密とされている。)。しかしながら、これは、主として、「人民戦線」、「民主戦線」その他のPLO左派だった。既に90年代、パレスチナ民族運動の指導的勢力との堅固な関係の喪失は、近東地域の状況に対するロシアの現実的影響力の喪失を加速した。イスラエル・アラブ紛争調停に関して、西側の「完全な」パートナーとなったモスクワは、当方面をアメリカ諜報部に完全に譲った。

■ハマスのパトロン

 CIAについて言えば、レバノンのイスラム教徒とウィリアム・ケイシー及びトゥルキ・アル-フェイサルの協力は、跡形もなく消えた訳ではない。後に、サイド・シャーバン師の「アル-タウヒード・アル-イスラミ」は、事実上、多数の競合する集団に分裂した。その一部は、イスラム組織「ウスバト・アル-アンサル」及び「タクフィル・ウア-アル-ヒジュラ」に合流した。90年代後半、両組織のメンバーは、チェチェン及びダゲスタンで戦い、「ウスバト・アル-アンサル」は、2000年1月、駐ベイルート・ロシア連邦大使館に対する2度のテロ行為の準備に参加した。ちなみに、トゥルキ・アル-フェイサルの官庁と関係し、ロシア代表部に対する行為に関与したその2人の活動分子、アリ・ユスフ・サーディとビリアル・サーディは、1983年秋、トリポリの共産主義者に対する制裁に参加した。このようにして、CIAとサウジ諜報部は、レバノンのイスラム教徒の強化だけではなく、その活動の近東外、特に、ロシア方面への更なる拡散も促進した。簡単に言えば、アフガニスタンと同じことが存在する。

 その必要性が既に言及した「Program-Pd」に叙述されたPLOの「イスラム選択肢」とCIAの関係も、「成果」以上のものだった。80年代中盤から、ラングレーは、エル・リャドと関係し、アフマド・ヤシン師が率いる「ムスリム同胞団」パレスチナ支部の秘密ロビー活動に着手した。特に熱心に、CIAの専門家は、「PLOと競合できる特別なパレスチナ人宗教組織」の 合目的性をイスラエルの同僚に説明した。結果として、80年代、アフマド・ヤシンの支持者は、ガザ地区及びヨルダン西岸に広範囲な軍事・政治インフラを自由に創設することができ、それに基づき、1987年末、テロ組織ハマスが設立された。

 同年のウィリアム・ケイシーの急死は、CIAのパレスチナ人イスラム教徒への関係を変えなかった。彼の後任であるウィリアム・ヘッジホッグ・ウェブスターとロバート・マイケル・ゲイツは、更に進んで、ハマス指導部とアメリカ諜報部代表の直接接触を許可した。 これらは、厳格な秘密保全の状況下で、「砂漠の嵐」(アラファトがサダム・フセインを支持したとき)作戦中と、その2年後の2度行われた。秘密交渉の場となったのは、主として、駐アンマン米大使館だった。しかしながら、CIA職員とハマス代表間の会見は、ダマスカス、チュニス及びラバトでも行われた。1993年初め、イスラエル特務機関は、パレスチナのイスラム教徒とアメリカ諜報部の関係に関する情報の漏洩を主導した。秘密は、世間に広く知られた。結果として、1993年3月2日、米国務省報道官は、「駐アンマン米代表部がハマス代表と行った接触の中断」について、公式に伝えた。この関係において、同組織議長イブライム・グホシェは、間もなく、米国が 「パレスチナ解放機構の平衡力としてのイスラム運動の選択肢的役割」への特別な関心を現したと表明した。

最終更新日:2004/03/15

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