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トム・フランク(Tom Frank)
雑誌『The Baffler』発行人、シカゴ
訳・森亮子
ブッシュ大統領の対抗馬となる民主党候補の名が間もなく明らかになる。この大統領が非常に多くの支持者の心をつかんでいることは、彼が国内外で招いた反発の陰で忘れられがちだ。ブッシュ支持陣営は、対立陣営から浴びせられた軽蔑の視線をそのまま利用して、アメリカ庶民の代弁者を演じてみせることで、選挙戦を有利に戦い抜けると心得ている。アメリカの庶民とは、インテリでもヨーロッパ人でもなく、自分たちが他よりも優れていると信じ、自分たちの価値観に自信を持っている人々なのだから。[訳出]
2004年11月に行われる大統領選に向け、民主党候補者たちがアイオワ州で指名争いをしていた時期、世論調査でトップを走っていたハワード・ディーンを攻撃するテレビ広告が流された。彼は「税金を引き上げ、政府の権限を強化し、カフェラテを飲み、寿司を食べ、ボルボを運転し、ニューヨーク・タイムズを読み、ボディーピアスをし、ハリウッドを賞賛し、左翼のイベントに参加する」のが好きな「文化エリート」たちの候補者だ、というものだ。要するに、アメリカ中西部の善良な市民とは縁もゆかりもない人間だということだ。
この広告のスポンサーは、ワシントンを本拠とする「成長クラブ」という組織である。ビジネスを信奉する金持ちと、同じくビジネスを信奉し、それを金になる法律にしたてる力を持った政治家の懇親団体だ。この組織のメンバーには、新自由主義の経済学者や有名な資産家だけでなく、今はなきニューエコノミーの思想家も含まれている。丸10年にわたり、規制緩和や税金引き下げを救世主の降臨のごとく説いていた思想家たちだ。ナスダックの株価高騰にキリストを思い浮かべ、市場政策に天の声を重ねた人々だ。そうした人々が今、あの忌まわしい「エリート」をこき下ろすテレビ広告を流している。
2004年のアメリカという国の謎の一部は、この逆説にある。過去30年にわたる右傾化の結果、アメリカでは今日、1920年代以降で最大の富の偏在が見られるようになった。労働条件に関する賃金労働者の権利は弱まり、企業がこの世界で最も力のある存在となった。しかし、この保守の波はさらに強まりを見せ、「エリート」に対する戦争、おぞましい指導者階級に対する「庶民」たちの正義の反乱としてアピールされている。
世にも不思議なこの民衆蜂起を率いるのは、石油業界出身でイエール大学卒、大統領の息子で上院議員の孫でもある現職大統領、ジョージ・W・ブッシュである。彼は、アメリカ上流階級の人間が自分の子供に与えうる特権の全てを、人生の各段階で享受してきた。また、気取った東海岸の人々が自分とテキサスの仲間のことを「軽蔑」しているという一心から、自分には「ポピュリスト的な心情」があると語っている。
大統領のポピュリズムは全くの作り話というわけでもない。東海岸のスノッブな人々に対するルサンチマンは滑稽に見えるが、あくまでも本心である。ブッシュ大統領はアメリカ庶民との付き合い方を心得ている。普通の人々に飾り気のない言葉で語り掛け、好感を持たれている。11月の選挙では、白人労働者層で再び高い得票率を記録するだろう。4年前の選挙でも、彼はこの層で過半数の支持を獲得している(これに対し、黒人の90%は民主党に投票した)。
かつてポピュリズムは、アメリカ左派のお家芸だった(1)。労働者は労働組合の力を強め、経済を規制し、社会保障を普及させようとした。その対極にあったのが、経営者の党にして社会的エリートの代弁者、つまり共和党だった。彼らがスタンスを変えたというわけではない。共和党は何年もかけて、独特のポピュリズムを練り上げてきた。そこでは反知性主義、なにかにつけての神への言及、アメリカ庶民とその慎ましさについての愛惜に満ちた説教が混ざり合っている。この混合物を最初に利用したのは、リチャード・ニクソンだった(精神的なものは彼の得意分野ではなかったが)。それ以来、共和党の大統領は皆、ポピュリスト的なところを前面に出してきた。ブッシュ大統領は、この流れの最後尾にいるにすぎないが、実業界の意向に従いながら被抑圧者の言葉を語ってみせる政治家として、出色の部類に属すると言える。
この手法はうまくいっている。大成功していると言ってもいい。議員や新聞のコラムニスト、PR会社、証券会社、広告代理店、経済ジャーナリストらに広く採用されている。右派が目の敵にするハリウッドでさえも同様だ。90年代には、ウォール街のPR戦略に端を発する「市場ポピュリズム」が一世を風靡した。基本的な考え方は単純である。市場は民主主義の神髄であり、それなくしては存在しえない。株を買ったり、2種類のシェービングクリームのブランドの片方を選んだり、ある映画ではなく別の映画を見に行ったりすることで、誰もが市場に参加しているのであり、市場には民衆の選択が反映される。市場とは、我々の求めるものを提供し、旧体制を倒し、消費者に権力を与えるものだ。市場の規制や、その効果の抑制を図るのは、誰よりも上に立とうとする高学歴エリートの高慢や支配欲でしかない(2)。
真のアメリカ人ならテキサス風ステーキ
数年前のような好況期には、市場ポピュリズムは、アメリカ中産階級の運命や彼らの企業の株主の繁栄とワンセットになっていた。90年代のテレビには、株式市場が「革命」を引き起こすとか、おばあさんたちが投資のコツについて情報交換するとか、子供たちがブランドの服を着ることで自立するとか、そんな広告が引きも切らなかった。昼下がりには、アメリカで最も裕福な人々の財産の増え具合を追い掛ける番組が放映された。そして、民衆の投資によって新しく選ばれた億万長者を誰もが称えた。共和党色の強いエンロン社でさえ、電力の規制緩和を求めるロビー活動を60年代の公民権運動に結び付けてみせたほどだ(3)。規制緩和や民営化が、民衆の権力と同一視されていた。ストライキがそれを打った労働組合もろとも潰されるたびに、新聞の論説には、労働者が縛りから解放されて喜んでいるという構図が描き出された。
時勢が厳しくなると、市場ポピュリズムの売り込みはなかなか微妙なものになる。代わって出てくるのが、今日見られるように、昔ながらの反動的な「ポピュリズム」、つまり「左翼」に対する非難の嵐である。左翼が市場、つまり民主主義への信頼を欠いているからではない。アメリカ庶民の穏やかな暮らしに、ありとあらゆるゆがんだ文化を強要してきたのが左翼だからである。このトラブルメーカーたちは、妊娠中絶を合法化し、公立学校でのお祈りを禁止したのに続き、その次は同性愛者の結婚を合法化しかねない。ここでもまた、民衆の敵は、悪魔のごとき「リベラルなエリート」である。彼らは高慢さがトレードマークのインテリと同一視される。共和党はここでもまた、名前も地位もない庶民の代弁者として、彼らの「価値観」を見下した指導者階級に対抗して立ち上がってみせる。
ラジオやフォックス・ニュースを賑わわせている(4)この古臭い反動的「ポピュリズム」は、消費文化の象徴に満ち溢れている。権力者(多くは共和党系だったりするが)を直接非難する代わりに、例えば特製コーヒーや高級レストラン、一流大学での教育、ヨーロッパでのバカンス、とりわけ外車など、権力者ご愛用の洗練されたスノッブな品々を罵倒するのである。
古臭いポピュリズムは、こうした「女々しい」趣味を毛嫌いし、アメリカ庶民が好みそうなものを並べ立てる(2000年11月、民主党はカリフォルニア、ニューヨーク、マサチューセッツなど、忌まわしいコスモポリタニズムを象徴するような都市で圧倒的勝利を収めたが、内陸部のほとんどの州では敗退した)。それがどんな好みかと言えば、真のアメリカ人ならテキサス風の分厚いステーキや田舎暮らしを好み(ブッシュはレーガンと同様、牧場を所有している)、ごく普通のビール(輸入品にあらず)を飲み、手ずから仕事をし、国産の車に乗るものだ。ヒューストンやウィチタの石油王たちがバカンスをヨーロッパで過ごし、コーヒーの繊細な香りを好み、ジャガーを運転するなんて考えられないということになっている。
このように、あくまで消費の観点で戦いを展開する利点は、階級的ルサンチマンの力が右に旋回していくことにある。「エリート」に典型とされる品々は、確かにリベラルを自称する高学歴者がよく愛用するものだ。彼らに「スノッブ」のレッテルを貼っておけば、共和党は無数の一般人の支持という栄誉を独り占めできる。なにしろ善良なアメリカ人は、「エリート」やその趣味を毛嫌いしているのだから。それが、現大統領やその父親、レーガン、ニクソンといった飾り気のない話し方をする人物が支持された理由だ。ニクソンは、(西海岸よりも「ヨーロッパ的」な)東海岸のインテリや、ケネディ一族に対する嫌悪感を、徹底的に利用した。これらの「一般人」は、大統領に選出されるやいなや、せっせと特権階級に恩恵を与える努力をすることになる。
共和党がゆがんだエリート像を描き出してみせるのは、盲人の目を眩ますようなものだ。そこには第一に、「エスタブリッシュメント」は左派の人間で出来上がっているという不可思議な定理がある。第二に、ブッシュ大統領の支持者は、「リベラル」が寿司を食べたりボディピアスをするといって非難するが、同じ寿司やピアスの愛好家でも、果敢な「企業家」であるとか、自由闊達な消費者であるという場合には、迷わず賞賛する。ある時は、不純な価値観によって自国文化を汚すおそれのあるハリウッドに軽蔑を示すが、またある時は、ハリウッドの創造性や収益性、また人々が見たいと思うものを嗅ぎ分ける嗅覚を賞賛する。ハリウッド出身のレーガンやシュワルツェネッガー知事の存在も忘れてはならない。そんなことは、どうでもいいのだ。共和党の戦略家は、時に応じてどちらか片側の力を上手に利用しながら、これら二つの正反対の立場を見境なく操っているのだから。
民衆を嫌悪する「リベラル」
アメリカの右派が自分の言葉の矛盾を克服できるのは、一部には左派のおかげでもある。(ヨーロッパのメディアからちやほやされている)アメリカの多くのリベラルは、こういった「文化ポピュリズム」が理解できず、カムフラージュされた人種差別ぐらいにしか思っていない。それも彼らの目には、国中に広がる伝染病のように見えている。このポピュリズムを少しでも突き付けられると、彼らはすぐさま(オクラホマ・シティの連邦ビル爆破事件を起こした)ティモシー・マクヴェイや極右の民兵を思い起こす。シカゴで最近開かれた左派活動家の集会で、私はこの保守的な病理を目の当たりにした。
メディア業界や、その世論操作、うそに関する辛辣でもっともな批判を聞いた後、私は立ち上がって、多くは信仰心の厚い無数のアメリカの「一般大衆」も、こうしたメディア批判には共感するだろうと強調し、その場合の彼らの共感が、アメリカとその情報システムを牛耳る財界の実力者を「リベラル」と同一視するという誤りの上に立っていることを指摘した。そこで私は先の発言者に対し、こうしたアメリカの一般大衆と関係を築く努力をし、彼らが感じている階級的ルサンチマンを左派の支持につなげるべきではないかと示唆した。しかし、私の意見はすぐさま出席者の一人にはねつけられた。彼女は「腹が立った」のだそうで、その理屈だと、いずれはクー・クラックス・クラン(KKK)の支持者を相手に、説得を試みなければならなくなるだろうと言うのである。
右派「ポピュリスト」の意見は一部には正しい。「リベラル」の中にはヨーロッパでバカンスを過ごしたり、カフェラテを飲んだり、ボルボを運転するのが好きな人もいる。しかし、「リベラル」の目立った特徴は、自分たちの同類ではないアメリカの民衆を嫌悪していることだ。動物愛護団体の集会に行ったり、大学のキャンパスを歩いたりしてみると、ある種の政治活動が高等教育を受けた上流中産階級の人々、歴史家クリストファー・ラーシュが貼ったレッテルによれば「少数派文明人」たちの専有物と化していることにすぐ気付くだろう。こういった人々が行う政治は、運動を生み出していくための活動というよりも、個人的なセラピーや自己実現の実践になりがちだ(5)。彼らにとって、左派であるというのは心の安らぎ、貧民や移民の「迫真性」への感情移入、こうした人々をたまには気にかける者がいることを示すための手段でしかない。身に付けたバッジや車のバンパーに貼ったステッカーは、リベラルの善良さを世間に訴えかけようとするもので、「倫理的」と言われる消費を選択したり、ガラス瓶のリサイクルに気を配ったりするのと似ていなくもない。左派雑誌の中には、抗議活動を魅力あふれることとして、スター活動家とともに取り上げるものさえある。「アクティヴィスト(活動家)」という名のオードトワレまであるくらいだ。
左派の家に生まれたから左派という人々もいる。由緒ある家系の者ならば、ご先祖の系図を自慢げに披露してみせるだろう。こういう場合には、社会運動としてのアメリカ左派の破滅的な退潮、その衰退は、たいして重要なことではない。左派であることは十中八九、上流の人間が恵まれない人間に向けた「同情」にすぎず、社会の変革を目指した「運動」ではないからだ。左派の数が減れば、国民的な医療保険や組合活動の権利を勝ち取るのが難しくなると考えられる。ところが一部のアメリカ左派の場合には全く逆に、自分たちが貫こうとする非協調主義の株が上がるとか、自分たちが擁護する「反逆」思想の「創造性」を発揮できるとかいう風に考えているのだ。
つまり、星条旗を振り回すような「田舎者」に対しては、多数派を目指す政治闘争に参加するよう説得するよりも、とにかく対抗して立ち上がるということになる。というのは、ほとんどの場合、左派であるということは、アメリカの民衆と共通の大義を形成していくことではなく、彼らに説教し、誤りを正し、欠点のひとつひとつを指摘するということだからだ。
イラク戦争に先立って国連で行われた議論の際、フランスのド・ヴィルパン外相は、アメリカ側の間違った主張を打ち崩すたびに、これでブッシュ大統領の支持者を説得できたと思い込んだに違いない。洒落た服装で、品がよく、数カ国語を話し、世界中の大使から賞賛されるド・ヴィルパンは、窮屈そうに腰掛けたアメリカの謹厳な国務長官に対し、自分の正しさを確信する貴族のような横柄な態度で詰問した。ド・ヴィルパンが見落としていたのは、無数のアメリカ人が事実などというものを気にかけず、シンボルの世界に生きていることだった。この点からすると、かわいそうで不器用なアメリカ人と、してやったりとばかり詩など引用してみせるフランス人の一騎打ちというのは、ブッシュ大統領のポピュリズムにとって期待しうる最上のシナリオだった。
激変は、ほぼ4年おきに、全く予想外のところで起こるものだ。左派の有権者を予期していたところに右派の有権者が現れ、満足感が行き渡るはずのところで怒りが爆発する。アメリカのリベラルたちは、このような力学の文化的な原動力をもっと見つめてみない限り、自分たちが理解する努力をやめたアメリカという国が思い定めた政策や戦争に(世界ともども)引きずりこまれていくことになるだろう。
(1) アメリカのポピュリズムについては、セルジュ・アリミ「ポピュリズム、これこそ敵だ!」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年4月号)および特集「曲げられた民主主義」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年11月号)を参照。
(2) See Tom Frank, One Market Under God : Extreme Capitalism, Market Populism and the End of Economic Democracy, Doubleday, New York, 2000.
(3) トム・フランク「エンロンのあの手この手」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年2月号)参照。
(4) エリック・アルターマン「アメリカのメディアは左寄り?」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年3月号)および「右派はラジオに、左派はゲットーに」(同1994年10月号)参照。
(5) See Christopher Lasch, True and Only Heaven: Progress and Its Critics, Norton, 1991.
(2004年2月号)
All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Mori Ryoko + Watanabe Yukiko + Saito Kagumi
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