(Fig.6,Fig.7参照) 氷河時代、北アフリカ、アラビア半島はカンブル雨季の最中で一面に緑の草原 に覆われていた。当時、人々は狩猟・採集の獲得経済の枠内で、最高度の文化を 営んでいた。遺された遺跡の絵画から伺えるように、生活には精神的ゆとりさえ が感じられる程であった。ところが、氷河時代が終わり、自然環境の大変動が訪 れた時、人々は生存を根底から覆される程の厳しい衝撃を受けた模様であった。 その故か出土される遺物等から優美な絵画等が 1万年前を境に蔭を潜めてしまっ た。氷河終結直後の気温は現在よりも2- 3度上昇し前4000年頃ピークに達した。 ナイル、チグリス、ユーフラテス諸河の周辺では大雨が降り河を氾濫させたが、 一方、サワラ草原、アラビア草原では乾燥による砂漠化が始まった。そして人々 の生活圏は次第に大河の畔や海辺に狭められ、ストレスが高まった。アフリカ地 方より気象変化が激しかったメソポタミア地方では、人々の生活不安は相当なも のであったようで、遺されている神話が陰惨であることから推してそのように伺 える。それだけに、人々は生活刷新へ努力を傾注し、遂に農耕・牧畜(生産経済 )を発明した。前7000年前頃には現在のイラン西部、イラク、シリア、パレスチ ナを結ぶ、いわゆる「肥沃な半月地帯」において、既に農耕・牧畜が始められて いた。イラクのチグリス河、中流に遺されたカリム・シャヒル文化が世界初の農 耕・牧畜文化と云われている。これ以後、歴史は坂道を降る車のように急速に発 展した。それから 1万年もたたぬ間に今日のような成長の限界まで到達した。も しこの時、生産経済(農耕・牧畜)が発明されなければ、人類は自然環境の下で 、未だささやかな生活を営んでいたであろう。そして科学・技術の進歩、農商工 業の発達、人口増加、自然環境破壊等は起こっていなかったであろう。旧約聖書 では「生産経済の発明」を「エデンの園」と称し、極めて抽象的な教えとして述 べている。「アダムとイブは狡猾な蛇にそそのかされて、自制できず「禁断の木 の実」を食べてしまう。そして神の怒りを買って、「エデンの園」(氷河時代の 平和な生活)から追放され、汗を流して、自分が生まれた大地に食物を求める暮 らし「生産経済」へ入る。生めよ殖やせよで人口が増加。そして競争、闘争の業 (ごう)の中を生きるのが神の思し召しである。シュメール時代、ペルシャ湾に 面するチグリス、ユウフラテス両河の河口付近は最良の耕地でシュメル語でグ・ エデイン(平野の首)と呼ばれた。「エデンの園」の名は、これに由来すると云 われている。 イスラエル第二の都市ハイファの近くにカルメル山がある。丘の斜面に多くの 洞穴がある。ナトーフ人(新人)と呼ばれる人達が1万年前頃ここに住付いていた 。彼等は素晴らしい新石器を使い、既に鎌を持っていた。「羚羊(かもしか)」の 大量の骨が出たので、当時の草原が乾燥し始めていたことが解った。1958年死海 の近く海面下300mの低地に旧エリコの城壁が発見された。年代測定の結果前7000 年であった。前述のカリム・シャヒル文化と同様、パレスチナでも、この大昔に 、既に都市が存在し、当然、農耕も行われていたことが判る。発掘の結果、前 3000年頃、シュメール地方に大洪水があったことが解る。旧約聖書のノアの大洪 水の話しは事実であった。当時、ペルシャ湾は現在より約200 km北西へ大きく伸 びていたが、地層測定で確かめられた太洪水は奥行き 500km,幅170km、東部メソ ポタミアの殆ど全域が水没する程の規模であり、当時の初期村落は全滅した。
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