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国民が政治を批判するのに「対案を示せ、示せない批判ならガキの戯言と同じだ」という論理を展開する国民が増えて来たことは憂慮すべき事態だ。しかし、この論理は甚だしい勘違いと言わねばならない。
「もし反対するのなら対案を示しなさい」と言ったのは故田中角栄元首相だったかと記憶している。彼はこの言葉を同じ政治の立場に居る野党に向かって言ったのであって、立場の違う国民に向って言った言葉ではない。それはそうだろう。立場の違う者に対案を示せなどと、言えば言った当人の見識が疑われるのだから。
たとえば、コンピュータ・ソフトを購入したユーザーがこのソフトにはバグある、使い辛いなどとクレームを着けたら、それは製作者を批判したことになる。その批判に対して製作者がユーザーに向って、「それなら対案を示せ」などとは言わない。どんな製作者でも、批判するユーザーに「対案を示せないなら黙っていろ」とは言わない。それは、どのようなものを製作するかの権限と、製作したものに対する責任が、製作者自身にあることを自覚しているからに他ならない。
法治国家において、政治は法律という容(かたち)をとる。法律はソフトだ。だから、このソフトが国民にとって迷惑であれば国民はクレームを着ける。なぜなら、コンピュータ・ソフト同様に、法律を作った者に権限と責任があるからだ。
しかも、法律はコンピュータ・ソフトと違い強制力を持っている。国民にとっての死活問題も含まれる。となれば、国民にとって迷惑なとなるものを止めさせようとして、必死になって批判するのは当然のことだ。これが政治批判だ。
権限と責任を背負っている政治権力者がそのようなものを持たない国民に向って、「対案を示せないなら批判をするな」と言うことであれば、これは政治権力の独裁ということになる。だから「対案を示せ」というのは、政治批判の封殺を意図としたもので、紛れもなく言論弾圧の一手段である。
その言論弾圧手段を国民自身が吹聴して歩くとするなら、その行為は民主主義国家の自殺の手伝いをしているようなものである。
http://homepage1.nifty.com/kikugawa_koubo/index.htm