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「悪の検事総長・原田明夫」の権力犯罪を弾劾する――「三井環不当逮捕」は「現代のドレフュス事件」である(その1)[古川利明の同時代ウォッチング]
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/1011.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 3 月 04 日 08:58:17:dfhdU2/i2Qkk2
以下は、なるほどさんのご投稿の続きになります。
「悪の検事総長・原田明夫」の権力犯罪を弾劾する――
「三井環不当逮捕」は「現代のドレフュス事件」である(その2)
04・2・25
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と、本題に入る前に、昨日(2月24日)、ヤフーBBの何と約460万人分にも上
る顧客情報(=個人情報)が大量に外部に流出した事件で、警視庁は入手したデータを
もとにヤフーBBを恐喝していたとして、3人を恐喝未遂容疑で逮捕したと発表しまし
たが、その逮捕された1人に、ヤフーBB代理店「エスエスティー」の社長・竹岡誠治
(55歳)というオッサンが含まれていました。
ところが、ぬあんと、この竹岡というオッサンは、今から30年以上も前の1970
年に、当時、池田大作の片腕だった創価学会顧問弁護士・山崎正友の指示で、日本共産
党委員長だった宮本顕治宅の電話盗聴を行っていた実行犯2人(ちなみに、もう1人は
広野照夫)のうちの1人だったのです。
おそらく、本サイトの若い読者の中には「ミヤケンって誰?」という人すらいるかも
しれませんが(笑)、年配の人なら、まず、だいたいがこの事件は藤原弘達の『創価学
会を斬る』への言論出版妨害事件と並んで、信濃町の暗黒・謀略体質を如実に表したチ
ョー怖い事件として、知っています。
この宮本顕治宅盗聴事件は、池田大センセイの承認のもと、当時、副会長だった北条
浩の決裁で、公明党の陣中見舞金をごまかして作った裏ガネから盗聴のための活動資金
を捻出し、山崎正友が、学生部数十人を動員して、実行に移したものです。
宮本宅の電話盗聴は、1970年3月から約3カ月間に渡って行われ、2、3の重要
な会話の盗聴には成功したものの、発信器の不調で発覚したため、共産党は東京地検に
告訴しました。
刑事事件は犯人不明のまま迷宮入りとなりましたが、山崎正友がその10年後の19
80年に内部告発したのを機に、共産党側が当時、会長だった北条浩らを相手取り、最
高裁で共産党側の完全勝利が確定し、学会サイドは100万円の損害賠償金を支払って
います(私が赤旗の記者から直接聞いた話では、「本当は池田大作を被告にしたかった
が、そこは涙を飲んで、あくまでの確実に勝訴が見込める北条浩をターゲットにした」
と言っていました)。
んで、この宮本顕治宅盗聴事件では、当時、検事だった神崎武法に、山崎正友が「証
拠隠滅工作が万全だったかどうか」について、相談を持ちかけています(ま、神崎のオ
ッサンは検察内部における信濃町のスパイだったわけやな)。与党の現職党首がこうし
た大スキャンダルに関与しているにも関わらず、池田大センセイの覚えがチョー愛でた
いために、内部で責任を追及されることもなく、現在に至っています(笑)(#このこ
とは、また笑えることに、あの野中広務が野党時代の93年、当時、郵政大臣だった神
崎に対して、国怪で名指しで追及しとるんや)。
じつは、私は「460万人分という大量データ流出」という、いまのITブロードバ
ンド時代を象徴するこの事件の規模にも度肝を抜かれたのですが、それに加えて、何と
「池田大センセイの直弟子」である、ミヤケン盗聴事件の実行犯が関与していたことに、
何とも言えない感銘を受けました(笑)。
んで、この竹岡誠治は、少なくとも今から10年前までは創価学会の幹部であったこ
とは間違いなく、「その後、脱会して法華講に入った」という話は、少なくとも私は聞
いていないんで、たぶん、今も学会の幹部だと思います。まあ、大新聞はこのことは例
によって黙殺でしょうが(笑)、週刊新潮をはじめとする他の週刊誌勢は張り切って取
材するでしょうから、今後の続報に期待したいと思います(#これもたぶん、いろんな
ウラがあるで)。
創価学会員の関与している情報通信分野におけるプライバシー大侵害事件が、NTT
ドコモだけだったと思ったら、今度はヤフーBBですので、さすが、池田大センセイの
「総体革命」も、もはや中央官庁だけにとどまらず、今は時めく情報通信のIT関連分
野にも浸透しまくっているということでしょうか。
こうした深刻なプライバシー侵害は、武富士の盗聴事件を出すまでもなく、ケーサツ
並びにケンサツは、徹底的に捜査をしてウミを出さなければなりませんが、まあ、法務
・検察のトップが、今や自・公政権と一体化した「国策捜査機関」の象徴でもある、あ
の「悪の検事総長・原田明夫」ですから、「それは八百屋で魚を求める」ようなもので
しょう(笑)。
と、本題に戻ります。
「噂の真相」の01年2月号(同年1月10日発売)で、「複数の地方検察庁の検事
正を歴任した検察OB」という形で、当時、大阪地検検事正だった加納駿亮を、いわば
「刺す」形で三井氏は内部告発します。
当時、三井氏が大阪高検公安部長という現役幹部だったのにここで記事中で敢えて「
検察OB」となっていたのは、ニュースソースを特定できないよう、記事の取材・執筆
にあたった西岡研介君(のちに週刊文春にトラバーユ)の配慮からでした。
西岡君は、同じウワシンの99年5月号で「東京高検検事長・則定衛の女性スキャン
ダル」をスッパ抜いた辣腕記者ですが、じつは個人的な話をして誠に恐縮ですが、この
西岡君は私が初任地だった毎日新聞の高知支局の後、2度目の支局勤務として、91年
5月から私は姫路支局に約2年いましたが、そこで最初の1年目は私はサツ回りのキャ
ップをやっていて、だいたいいつも姫路警察署の記者室に詰めていたのですが、そのと
き、神戸新聞の新人記者として入社していたのが、この西岡君でした。
当時、私は入社4年目だったので、年次でいうと、彼よりかなり上だったので、記者
室の中でも、あんまり話すことはなかったのですが、一緒に事件の「抜いた抜かれた」
をやっていたので、その頃を懐かしく思い出します。
西岡君の印象は、いかにも見るからに「体育会系」って感じで、あいさつがキビキビ
していたのを覚えています(#彼はよく、あのこ汚たねえ姫路署の記者室の簡易ベッド
で昼寝しとったな)。すっごく、元気はよかったですね。新人記者同士は各社とも結構
仲がよかったんで、連中同士ではよく飲みに行っていたようでした。
ちょうどその頃、91年12月に、姫路を皮切りに、京都、松江でスナックママばか
り4人が殺害される事件が起き、姫路警察署に捜査本部が置かれたのですが、兵庫県警
がいち早く、現場に遺留していた指紋などから兵庫県警がいち早く、強盗殺人容疑で逮
捕状を取って指名手配をした、いわゆる「119」(=警察庁指定広域重要119号事
件)が発生し、その事件で私はその「逮捕状取った」で、一社6段ブチ抜きのスクープ
を飛ばしました。
それで私は編集局長賞ももらうなど、西岡君と同じ「社会部系エース記者」の道をま
っしぐらに歩んでいたのですが、その彼も新聞社に辞表を叩きつけて、ウワシンに入り
則定事件をスクープし、今回、三井氏の内部告発を記事にする――何ともいえない「縁」
というものを、あらためてかみしめる思いです。
三井氏がそこで敢えて、加納駿亮の高知地検検事正時代の調活流用による裏金づくり
を内部告発したのは、加納を刺すことで、腐った関西検察の性根を叩きなおし、逆恨み
で私情で人事を振り回すことを正そうと考えたからだといいます。
三井氏は、こうしたウワシンからの取材とほぼ同時並行する形で、彼が高松地検次席
検事時代に懇意にしていた高松市の在住のミニコミ紙「四国タイムズ社」の川上道太社
長とも連携を取り、実質的な告発人は三井氏がなる形で、表向き川上社長が告発人とな
って、まず、加納の高知地検検事正時代の調活費流用による裏金づくりついて、01年
3月末に虚偽公文書作成、同行使、詐欺などの罪で最高検に告発状を出します(前回の
原稿で、私は「加納は三井氏が高知地検次席検事時代に使えた3人の検事正のうちの最
後の1人」と書いてしまいましたが、私の勘違いで、加納の高知地検検事正在任は95
年から96年で、三井氏は高知地検次席検事時代には、加納には仕えていませんので、
そこの部分をこのように訂正させていただきます)。
で、告発先は最高検でしたが、高知地検の管轄は高松高検ですので、告発状は高松高
検に回ってきました。
そこで川上社長の刑事告発と前後して、加納は大阪地検検事正から高松高検の検事長
への昇任が内定していたのですが、この告発によってその人事が「凍結」になってしま
ったのです。
ここで少し、法務・検察のトップの人事について説明しますと、全国に8つある高検
の検事長については、それ以下の検事とは違って、(なぜか)天皇の認証を得るため、
法務省が事前に内閣(=首相官邸)に上申し、その了承を得たうえで正式に決定します。
特に何の問題がなければこうした高検検事長人事というのはそのまま法務省案ですん
なりOKが出ます。
ところが、例えば、99年4月に例の女性スキャンダルで、検事総長に次いで、ナン
バー2のポストだった東京高検検事長の則定衛が辞職した後の人事で、当初は法務・検
察内部の実質ナンバー3にあたる当時の堀口勝正・最高検次長検事の名前が上がってい
たのですが、この堀口のオッサンがうっかり「(浮気の経験などが)現場の活力になっ
ている」と口を滑らしてしまったことに、国民世論ははもちろん、当時、官房長官だっ
た野中広務からもチャチが入り(#もっとも、この堀口のオッサンの意見もオトコとし
ては別にフツーやけど、それを大勢のブンヤのいる公式の場で言ったらアカンよなあ)
何と、ダークホース的存在だった名古屋高検検事長の村山弘義が「右斜め45度」く
らいの角度で東京高検検事長に昇進しています。
ちなみに、この99年4月の時点で、原田明夫は法務省事務次官で、盗聴法を何とか
して国怪を通すために、同じ東大卒の但木敬一“原田の腰巾着”法務省官房長を引き連
れて、マルハムの冬柴鉄三に直接会って、頭を下げるなどして、涙ぐましい努力をして
いる真っ最中でした。
んで、この原田のオッサンは「則定の次の検事総長」ということは、既に当時からほ
ぼ確実視されていたのですが、ここで則定が突如、パージされてしまったため、当時6
2歳だったこの村山弘義が東京高検検事長になったことにより、検事長の定年は63歳
(ちなみに検事総長は65歳)であることから、自動的にこの村山のオッサンはいわば
「検事総長になれない東京高検検事長」という、異例の「ワインポントリリーフ」とな
ってしまいました。
それゆえ、村山東京高検検事長は、わずか在任7カ月で、定年を間近に迎えた同年1
2月に退職し、その後釜には、規定通り、この原田がサクッと東京高検検事長になりま
す。そして、時間軸を辿っていくと、この加納駿亮の調活費流用問題が発火していく最
中の、01年7月2日付けで、そのナンバー2の東京高検検事長から、めでたく「最高
検察庁検事総長」という法務・検察トップの座を、原田はゲットするわけです。
つまり、則定の失脚によって、原田が「棚からボタ餅式」で、当初の予定より早く「
検事総長」として君臨することができ、最近の検事総長としては、これまた異例の“超
長期政権”を維持しているわけで、じつは原田明夫は西岡研介君に感謝しなければなら
ないのです(笑)。
なお、原田明夫は1939(昭和14)年11月3日の生まれですので、「検事総長
は65歳定年」ということで言うと、何と今年の10月末まではこのオッサンは検事総
長の座にしがみつくことができるわけで、何とも暗澹たる思いがします(#ま、もっと
も巷のウワサだと、この夏で原田のオッサンは辞めるという話らしいがな)。
さて、話を戻して、01年4月の時点で、加納駿亮の「高松高検検事長昇任」の内示
について、法務・検察サイドは法務大臣(当時は高村正彦)に報告せずに、内閣に打診
しようとします。
ところが、その情報を事前にキャッチした川上社長が4月20日ごろ、高村の秘書官
と直接会い、加納に関する刑事告発の資料を渡して、事情を説明しました。その結果、
高村法相はこの加納駿亮の高松高検検事長昇任の人事の内閣上申を先送りにしました。
んで、森シンキロウの退陣で行われたその直後の自民党ソーサイ選で、「最後の15
代将軍」であるあの小泉純一郎がソーサイになって、小泉“最低最悪”内閣が発足した
ことに伴い、法務大臣が高村から森山真弓へと交代になります(つまり、ここで加納の
高松高検検事長昇任問題が「最重要案件」として、高村から森山に引き継がれたのは間
違いない)。
法務・検察サイドはそれでも、しつこく加納の検事長昇任を森山・新法務大臣に打診
しますが、残念なことに、ここでも「ノー」と言われたため、代わりにに、加納より採
用年次が1つ下の20期の宗像紀夫が高松高検検事長になることになります(ちなみに
三井氏は24期で、司法修習生としては白川勝彦氏と同期とのことです)。
こうして加納駿亮の高松高検検事長への就任はひとまず阻止され、加納の調活費流用
に対する刑事告発も高松高検で受理されたはものの、一向に捜査を始める気配がありま
せんでした。
そのため、01年5月、加納が神戸地検検事正だったときの調活費流用による裏金づ
くりについても、川上社長は最高検に刑事告発したため、管轄の大阪高検に回されるこ
とになりました。
既にこの時点で、検察内の「内部告発者」が三井氏であることはだいたいわかってい
て、その直後の01年6月、加納のかつての上司で、「関西検察のドン」と言われてい
た逢坂貞夫・元大阪高検検事長に突然、三井氏は呼び出され、大阪は北新地の料亭で一
緒にメシを食べます。
三井氏は逢坂・元大阪高検検事長とは面識はなかったのですが、職場に電話がかかっ
てきたときにピンと来たといいます。んで、会食の場では差し障りない話に終始したと
いいますが、「退官したらウチの(弁護士)事務所に来ないか」とか、「なあ、三井君
組織を裏切ったヤツはモリカズみたいになるんや。そのことはよう覚えておきい」と
言われたといいます。
ここで出てくる「モリカズ」とは、元特捜検事の田中森一のことで、現役時代は敏腕
検事として鳴らしていましたが、捜査方針の食い違いから検事を辞め、その後は大型経
済事件の被疑者や、いわゆる闇の紳士たちの顧問を引き受けたことで、検察側と鋭く対
立したために、2000年3月に手形詐欺事件で東京地検特捜部にパクられてしまいま
す。
つまり、「お前も、そうやってやり過ぎると、モリカズのようにパクられるで」とい
う“脅し”だったのです。
じつは、このへんの様子も、私がいた大新聞とまったくクリソツで、私は94年8月
末をもって、毎日新聞の大阪本社社会部を最後に退職したのですが、そのとき、当時の
社会部長にこう言われたのを覚えています。
「もし、田舎に帰って農業をやるのならともかく、そうでもなければ、わが社に関わ
る余計なことは口外しないことだ。新聞社を甘くみたらアカンで」
残念ながら、私は農業をやれるほどの才能も資質も根気もないし、また、他にやるこ
ともないので(苦笑)、こうした文筆乞食をやっていますが、ま、私は当時の社会部長
の脅しはまったくの「馬耳東風」で、ガンガンと新聞社の恥部を内部告発しました。そ
れが、99年6月に第三書館から上梓した『新聞記者卒業――オレがブンヤを二度辞め
たワケ』であり、そのときの内部告発を踏み台にして、今の私が存在しているわけです。
私もそうですし、三井氏もそうでしょうが、「辞めた組織の“悪口”を言う」という
いわば「掟破り」を敢えて行ったのは、「検察」(私の場合で言えば、「新聞」ですが)
に対する、この上ない愛情からです。
捜査官もそうですし、新聞もそうですが、本来の目的は「権力の腐敗という『真実』
を暴き出すことで、『社会正義』を実現する」ことです。それ以外に、検察官も新聞記
者も存在意義はないはずです。
しかし、検察も新聞も、「足抜け」した人間が内部の実情を外部に明かすことに対し
て、まさに「ヤクザ顔負け」の脅しをかけてくるわけですから、私に言わせれば、「何
をか言わんや」です。「果たして、真の『悪』はいったいどっちなのか」と私は問いた
い。
さて、こうした最中に、前述したように、01年の7月2日付けをもって、原田明夫
が北島敬介の後釜として、めでたく(?)「検事総長」に就任します。
しかし、「加納問題」という、法務・検察のノドに突き刺さった“骨”は、その後も
チクチクと響いてきます。
いったんは、川上社長の刑事告発を受けて、宙に浮いた形になった加納駿亮の「高検
検事長昇任」でしたが、何としても「関西検察の秩序とメンツ」を守りたい前出の逢坂
・元大阪高検検事長や土肥孝治・元検事総長らによる強烈な巻き返しがあり、01年1
0月に入って、法務省は加納を福岡高検検事長に昇任させる人事を内閣に上申しました。
通常、高検の検事長人事は、発令の約3週間前に内示されます。
当初は、「加納福岡高検検事長」について、01年11月15日付けの発令を法務・
検察側は予定していたので、その3週間前である10月23日までに官邸サイドのOK
を取らなければなりません。
ところが、内閣(つまり、最終的には小泉純一郎ということですが)が、「再考」を
求めてきたのです。
こんなことは、通常ありえず、まさに「前代未聞」なのですが、内閣サイドにしてみ
れば、そうやって刑事告発されている曰く付きの人物にOKを出して、もし、その後、
刑事訴追されるということになれば、内閣はもちろん、認証を行う天皇の権威にもキズ
が付いてしまうことになります。
というわけで、加納に対する捜査は、彼の高知、神戸の両地検検事正時代の裏金づく
りについて告発を受けた高松高検、大阪高検が例によって、辻元清美チャンや田中真紀
子の秘書給与流用疑惑(最近では、創価学会3人組によるNTTドコモ通信秘密侵害事
件)を彷彿とさせるように、受理はしたものの、具体的なことはまったくしないままほ
ったらかしにしておいて、「店晒し」の状態が続いていました。
それもそうです。これは現場の担当検事で判断できる問題ではないからです。
つまり、国怪議員の秘書給与流用問題と同様、調活費流用による裏金づくりは、検察
内部では「公然の事実」として、長年の間、慣例的に行われてきたからです。
三井氏の手記『告発! 検察「裏ガネ作り」』(光文社)の中に、この問題を取材し
ていた朝日新聞の落合博実記者の「取材メモから」というくだりがあり、そこでは落合
記者が「名前を伏す」という条件で取材をすると、調活費の裏金流用について、検事正
、次席検事、検事、事務官に至るまで、ほぼ全員が「事実だ」と認めた上で、「三井は
暴力団とオンナにたかる極悪人や」と言い立てているある大阪高検の幹部さえ、こう言
っていたと明かしています。
「先日、あるOBと話をしたら、『調活がたくさん使えるうちに辞めてよかった』と
言うんですわ。そらいるんですわ。調活費使うために検事長になるんやと堂々と口にし
ていた先輩もいました。女房にも『あんた調活費なんか使ってないよね』と言われる始
末です」
こういう状況であるわけですから、これは法務・検察サイドにしてみると、もはや加
納駿亮一人の問題ではないのです(笑)。
それゆえ、高松、大阪両高検の担当検事レベルはもちろん、検事長でも判断できない。
最終的には法務・検察のトップである原田明夫が判断しなければならないことになります。
その加納に対する捜査結果は、「クロ」を「シロ」にして、加納を「嫌疑なし不起訴
処分」と、“無罪放免”にしたうえで、加納の「福岡高検検事長昇任」の内諾を官邸か
ら取ることになるのですが、ここで原田明夫の取った致命的なミスは、加納駿亮を「ト
カゲの尻尾」として切ることができなかった点です。
これはあくまで、法務・検察の側に立って、組織のメンツも守りつつ、世論の批判も
それなりにかわす「窮余の一策」として、冷静に対応すれば、次のことができたと私は
考えます。
つまり、加納をクビ(=懲戒免職)にして、起訴したうえで、あとは適当に過去4〜
5年ぐらいに遡って調活費の調査を行い、どうせ、検事正、検事長、検事総長経験者な
んてのは、大企業の顧問弁護士をやったり、公証人役場に天下ったりして、カネに不自
由していないわけですから、ま、そこからポケットマネーで負担させて弁済し、「どう
もスミマセンでした」と頭を下げていれば、「おうー、さすが秋霜烈日のわが国の検察
は違うで。やっぱ、自浄作用というものがある」と感心を示したと思います。
しかし、そんな中学生でも思いつくことが、原田明夫にはできませんでした。
前出の落合記者の「取材メモから」には、「ある大物検察OB」の証言として、「原
田君にも迷いがあったと聞いている。事は彼の一存で決められるほど簡単ではない。調
活費に火がつけば、歴代の検察首脳にも累が及ぶことは必至で、OBから三井を黙らせ
ろと圧力があった」ということを明かしています。
そこにあるのは、おそらく、連中が「法務・検察の無謬神話」に囚われていたところ
だと思います。
つまり、どこぞやの大カルトの教祖サマと同様、「検察官は不正をしない。間違いな
ど犯さない」というフィクションに囚われ、そうした「実態」を明るみにすることが、
自分たちのメンツを失ってしまうと、(勝手に)思い込んでしまっていることです。
私もそうですが、世間一般的にも、調活の「裏金づくり」が明るみになったとき、「
まさか」というより、「ああ、やっぱりな」というのが正直なところだったのではない
でしょうか。かつてはどこでも、役所において、そうした裏金捻出はある種の“慣習”
として、蔓延していたのですから。
ただ、時代のトレンドが変わり、長引く景気の低迷から、税収も落ち込み、世間では
リストラだ、失業率の上昇だと、だんだんと余力がなくなってきています。
ですから、一昔前と違って、そういったことがなかなか許容できないふうに世論も変
わってきたのです。そうした時代の変化というのが、じつは結構、大きいファクターな
のです。
それゆえ、とりわけ原田明夫みたいに、霞が関の中央合同庁舎の6号館の北と南を行
ったりきたりばかりして、永田町の国怪議員の連中ばかりとつるんでいて、捜査現場だ
とか、地方といった「時代の風」を感じることのできない“法務・検察のエリート”と
いうのは、新聞や週刊誌沙汰になった段階で、急にビビッて大騒ぎしてしまうのでしょ
う。
それともう一つは、この加納の福岡高検検事長昇任問題が、原田の検事総長就任のわ
ずか3カ月後に勃発したことです。
つまり、原田明夫にしてみると、せっかく念願の「最高検察庁検事総長」の椅子に座
ることができたのに、下手をしたら、一連の責任を取って「辞職」と、わずか3カ月で
そのポストを投げ出さなければならなくなります。
それを考えるとき、私はあの「則定失脚」の意味の大きさを感じるのです。
つまり、あの愛人スキャンダルが出ていなければ、法務・検察内部における“政変”
もなく、則定がそのまま順当に検事総長になっていたはずです。たぶん、2000年に
いずれかの時点で彼が検事総長になり、その後にこの「加納問題」に直面していたのな
ら、「ま、ワシは1年は検事総長も務めたことだし、ちょっと運が悪かったかなあ。で
あれば、私がここで身を引いて、じゃあ、後は原田君に任せようか」という選択肢もあ
りえないではなかったような気がするのです。
それが、「運命のいたずら」とでもいうのか、原田が予定より早く、則定失脚のおか
げで検事総長になってしまったために、つまらない「欲」に囚われてしまったのではな
いのか。そんなことを、ふと、私は考えてしまうのです(#敢えて言わせてもらえば、
則定のオッサンの方が、愛人を抱え持つという甲斐性があったってことやしな)。
そこで、話を戻しますと、01年10月下旬に「加納駿亮の福岡高検検事長昇任問題」
という、“時限爆弾”を抱え込んでしまった原田明夫は、ついに、三井氏が言うとこ
ろの「けもの道」に足を踏み込んでしまいます。それが、何ともおぞましい、政権中枢
との「裏取引」だったのです。(この稿つづく)
http://furukawatoshiaki.at.infoseek.co.jp/article/2004/225.html
「悪の検事総長・原田明夫」の権力犯罪を弾劾する――
「三井環不当逮捕」は「現代のドレフュス事件」である(その3)
04・2・26
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さて、前回(その2)の続きで、関西検察勢のゴリ押しを受け、加納駿亮を福岡高検
検事長に昇任させる人事について、法務・検察サイドは内閣(=首相官邸)に、01年
10月23日ごろに打診したところ、「こんな裏金ギワクの出ているモンダイの人物に
OKを出して、後々、尾を引いたらどうするのか」と前代未聞の再考を求められ、検事
総長の原田明夫以下、法務・検察の最高首脳は例によって、頭を抱え込んでしまいます。
そこで、原田明夫はまさに掟破りの「けもの道」へと足を踏み入れてしまうのです。
ここでいう「けもの道」とは、三井氏が手記(『告発! 検察「裏ガネ作り」』)の
中で使っているフレーズですが、私は何とも文学的かつ、本質をピシャリと言い当てて
いる表現だと思います。
けもの道――それは、つまり「人としての道」(=人道)に反しているがゆえに、と
ても表に出せるような話ではないからです。そして、その後に画策する「内部告発の口
封じのための不当逮捕」と相まって、まさに人間ではなく、ケダモノ(=キチク)のな
す技ともいうべきものです。
三井氏の手記によれば、加納駿亮の人事が揉めていた01年10月末ごろ、原田は当
時、法務省事務次官だった松尾邦弘(02年1月より最高検次長検事)、最高検刑事部
長だった古田佑紀を引き連れて、政界の超大物OBの事務所を訪れ、「加納の検事長人
事が承認されないと、検察が潰れてしまいます」と泣きを入れ、官邸に働きかけを行う
ことで、「OK」の承諾を得ます。
で、手記の中では、敢えて「政界の超大物OB」と匿名にしてありましたが、三井氏
が先日(2月20日)の講演で明かしたところでは、この人物とは後藤田正晴です。
これについては、かなりのマスコミ関係者が取材に動いていますが、双方ともそうし
た事実はないと否定しているらしいですが(#ま、アタリマエだわな。こんな超ディー
プリーな話、当事者がそんなにカンタンに「はい、そうですわ」と認められるワケあら
へんがな)、三井氏は確度の高い筋から情報を取っていますので、まず、これは間違い
はありません。
後藤田正晴といえば、最近ではすっかり生臭さが抜けてしまった好々爺になってしま
って、例えば、『現代』の昨年12月号のインタビューでは、「敢えて言う、一国平和
主義がなぜ悪い」と、小泉内閣の自衛隊イラク派兵、さらには改憲の動きに対してクギ
を刺し、いまや「ハト派のシンボル」みたいに祭り上げられています。
が、少なくとも、私が知っている後藤田正晴とは、東大法学部卒の旧内務省出身のま
さにエリート官僚で、警察庁長官も務め、その後は田中角栄に引きで政界入りした後は
中曾根内閣の官房長官と、私の頭の中では「カミソリ後藤田」、そして、「ゴリゴリの
タカ派」のイメージだったのですが、「あれ、このジイサン、いつの間にこんなマトモ
な物言いをするようになったんだろう?」と、びっくりしているくらいです。
確かにこの後藤田のジイサンが、1976年から96年まで7期にわたって自民党の
衆院議員を務め、その間、自治大臣や内閣官房長官など内閣の要職を歴任したことで、
今なお永田町に強い影響力を保持しているのはわかりますが、では、なぜ、原田明夫は
後藤田のところに「泣き」を入れに行ったのでしょうか?
じつは、後藤田は92年12月の宮沢改造内閣で、いわば一本釣りの形で法務大臣に
抜擢された際に、当時の法務・検察の最高首脳の人事をいじくり回したこともあって、
他の国怪議員よりはさらに強い影響力を「千代田区霞が関1丁目1番1号(=法務・検
察合同庁舎のある住所地)」に対して保持し続けているのです(んで、このとき、法務
省大臣官房の人事課長として、法務大臣・後藤田正晴の“使い走り”をしていたのが、
この原田明夫なのです)。
んで、後藤田が、法務大臣に就任早々、放った第一声とは「吉永君はどこにいるか」
ということだったといいます。
ここでいう「吉永君」とは、1976年に東京地検特捜部が摘発したロッキード事件
で特捜部の副部長を務め、「特捜のエース」とまで言われた吉永祐介のことです。
吉永は岡山大法学部卒という、チョー傍流の出身でありながら、「特捜の鬼」と呼ば
れた河井信太郎の手ほどきを受けた最後の門下生で、その独自捜査の手腕には抜群のも
のがありました。
ただ、法務・検察に限らず、一般に中央省庁はだいたいが東大法学部卒が幅を効かせ
ていますので、どんなに捜査能力が優秀であっても(逆に優秀であるがゆえに)、メイ
ンストリームからは外されてしまうことがままあるわけですが、吉永もまさにその典型
例でした。
しかし、後藤田が法務大臣に就任した92年12月というのは、法務・検察にとって
はかつてない「逆風」が吹き荒れていました。
というのは、当時、自民党副総裁だった金丸信の政治資金規正法違反事件で、例の「
5億円をもらって、罰金はたったの20万円」ということに世論が怒りまくり、「腰抜
け検察」「権力悪に目をつぶるのか」との批判がごうごうと巻き起こります。法務・検
察合同庁舎の入り口にある「検察庁」と書かれた石碑にペンキがぶちまけられたり、当
時、札幌高検の検事長だった佐藤道夫(現・民主党参院議員)が、「特別な人を特別に
扱うのは司法の世界であってはならない」と批判を浴びせるなど、内部はガタガタにな
っていました。
そうした世論を敏感に感じ取った後藤田は、そうした「世間の風」をバックに、検察
最高首脳の人事をいじくることになるのですが、そこで後藤田は大阪高検検事長を最後
に「ご苦労さん」状態だった吉永を、いきなり、検事総長のテンパイポストである東京
高検検事長に引っ張る人事を行ったのです。
これで大騒ぎになったのは、法務・検察のトップ連中です。
ちなみに、この金丸事件を捜査していたときの布陣を見ると、最高検検事総長・岡村
泰子孝、同次長検事・土肥孝治、同刑事部長・井嶋一友、東京高検検事長・藤永幸治、
東京地検検事正・増井清彦、法務省事務次官・根来泰周、同刑事局長・浜邦久――です
が、じつはこのメンツは全員が何と「京大法学部卒」なのです。
通常、他の官庁というのは、「東大法学部卒」が跋扈していますが、なぜか法務・検
察というところは、「京大にあらずんば、人にあらず」という状況だったのです。
んで、当時、「次期検事総長」の本命は、当時、政権中枢にいた自民党竹下派の小沢
一郎や梶山静六と近いとされていた「根来泰周」で、この根来を東京高検検事長にもっ
ていって、「次の検事総長に」というのが、京大閥の思惑(その背後で糸を引いていた
のが、同じ京大卒の元検事総長・安原美穂)だったのですが、後藤田はそこは政治家ら
しく、、当時の「検察逆風」の世論をうまく味方につけて、「現場派のエース」だった
吉永を「一本釣り」の形で、東京高検検事長に持ってきたわけです。
結果的に、宮沢政権末期の93年7月2日付けで後藤田は吉永を東京高検検事長にす
る人事を発令した後、総選挙で政権交代が起こり、非自民連立の細川内閣が成立します
が、その年の11月のゼネコン捜査で、静岡地検浜松支部から東京地検特捜部に応援に
来ていた検事、金沢仁(なお、この金沢は創価大法学部卒という池田大センセイの“直
弟子”です)が、参考人に対して暴行させ、大怪我を負わせるという不祥事が起こり、
法務・検察は金沢を懲戒免職処分にした末、特別公務員暴行陵虐致傷罪で起訴しました。
ちなみに現役の検察官が懲戒免職となるのは、過去には1952年に一度あるだけと
いう、何ともレアケースでした。
こうした“アクシデント”の責任を取る形で岡村は65歳定年までの任期を半年も残
しているのに、検事総長を辞めるハメに追い込まれます。んで、その後釜に満を持して
吉永が第18代検事総長に昇格します。東大、京大以外の大学出身の検事総長として
は初、また、いわゆる「現場派」としても約10年ぶりという“快挙”でした。
ただ、ここで吉永祐介が、いわばイレギュラーの形で検事総長に就いた意味というの
は、「人道」や「社会正義」より「出世」が大事だと考えている、ラインに乗っかって
いる法務・検察官僚の面々にとっては、ことのほか大きかったといえると思います。
というのは、それまで続いていた「京大にあらずんば、人にあらず」という法務・検
察の出世コースの地図が、これを機に大きく塗りかわることになるからです。そうした
従来のメインストリームだった「京大閥」の流れを断ち切る形で、のし上がってくるの
が、原田明夫を筆頭とするこの東大卒の連中なのです。
それゆえ、現在、最高検検事総長・原田明夫(ナンバー1)、最高検次長検事・松尾
邦弘(ナンバー3)、法務省事務次官・但木敬一(ナンバー4)ら、現在、法務・検察
の最高首脳はすべて、東大法学部卒で固まってしまっていますが、そこで、この連中を
わかりやすく表現するため、これからは便宜的に「原田一派」と呼ぶことにします。
んで、私の手元にいま、「法務省幹部名簿」(平成5年12月22日現在)というケ
ッタイなものがあります。なぜ、こんなものを私が持っているのかというと、私は毎日
新聞にいた94年1月から3月までの3カ月間、当時、在籍していた大阪本社社会部か
ら、東京本社政治部へ出張応援の形で、首相官邸で取材していたのです。
で、官邸の記者クラブに詰めているいちばん下っぱの若手は、(当時としてはさほど
重要視されていなかった)法務省の省庁を担当として持たされ、私もその例に漏れず、
法務省を持ち場にしていて、よく、法務省の記者クラブに昼寝をしに行ったものです。
んでもって、当時の人事を見ると、大臣官房の官房長が原田明夫で、その下にいる秘
書課長が但木敬一、人事課長が松尾邦弘、さらに刑事局の官房審議官が古田佑紀と、原
田を筆頭に、ぬあんと、全員が東大法学部卒なのです(年次で言うと、原田が昭和38
年卒、松尾が昭和41年卒、但木と古田が昭和42年卒)。つまり、官房長・原田明夫
のもとに、まさに東大卒の「原田一派」が結集していたわけです。
んで、この原田一派は、その後、ほぼ一貫して、霞が関の中央合同庁舎6号館の南館
(=最高検&東京高検)と北館(=法務省)を行ったり来たりする中で、例の盗聴法を
通すための国怪対策に汗を流してきたというわけです。
例えば、あの第145“土石流”国怪で、盗聴法が自・自・公で成立した99年前半
で見ると、法務省事務次官・原田明夫、法務省刑事局長・松尾邦弘、法務省官房長・但
木敬一という布陣で、原田と但木は自民党やマルハムの幹部と会って、法案を通しても
らうようコマネズミのように動き回る一方で、松尾は法務委員会などの国怪質疑で答弁
に立っていたわけです。
余談ですが、私が毎日新聞政治部で官邸を回っていた当時、法務省の刑事局長があの
則定衛でした。そのころの法務省は、99年の自・自・公路線における盗聴法や現在の
共謀罪新設といったような重要法案を抱えていなかったため、政治部の記者はほとんど
回っていませんでした。
ただ、そのころ、ゼネコン汚職で自民党の中村喜四郎をパクるということで、開会中
は院(=国怪)に逮捕の許諾請求をしなければならないため、その取材のため、則定が
住んでいた中野の官舎か自宅はわかりませんが、その家には、黒塗りのハイヤーで夜討
ちに行ったのを覚えています。
ところが、そこでバッティングするのは、みんな社会部の地検担当記者で、なぜか、
政治部の記者は私だけでした(笑)。
まあ、サンズイを含めて、事件取材の要諦というのは、初任地の高知支局時代に三井
氏に鍛えられたおかけで、社会部の連中にはヒケを取らないどころか、いま、地検や警
視庁を回っても、ヤツらよりはディープなネタを取ってくる自信はあります。
んで、その中野の則定の家の中にも入れてもらって、逮捕許諾請求に関して、いろい
ろレクチャーを受けたのを覚えていますが、正直、一見したところ、何ともクールに淡
々と物事を進めていくという感じの人で(いわゆる熱血漢タイプであるとか、捜査の鬼
といった感じではなく、ちょっとぬめっとした爬虫類系が入ったカンジでしょうか)、
後でウワシンの例の女性スクキャンダルの記事を読んだとき、「いやー、人は見かけに
よらんもんだなあ」とビックリしたのを覚えています。どこをどう見ても、女っけなん
てどこにもありませんでしたから。
そのウワシンの記事では、私がちょうど則定邸に夜回りをしていたときは、例の銀座
のホステスと出会って間もない頃だったのですが、「まさかあのオッサンに、女を口説
いて囲う甲斐性があったのか」と驚いたのが、正直なところでしたから。
まあ、則定も、法務・検察の主流派(=永田町派)ということで、鼻持ちならない“
エリート”ということなのでしょうが、逆に私個人としては、還暦を迎える年齢で、お
ねえちゃんに熱を上げるという行為そのものは、むしろ、うらやましくさえあります。
ウワシンがあの記事を掲載したのは、刑事の名誉毀損事件で岡留編集長らを検察側が
“メンツ起訴”をし、両者が「全面対決」していたからゆえで、もし、それがなければ
、ウワシンがその情報を入手していたとしても、掲載に踏み切ったかは、わかりません
ね。
で、話を元に戻して、原田明夫と法務大臣・後藤田正晴とのつながりは、彼の法務省
内閣官房人事課長時代(そのすぐ後に、原田は官房長になる)に遡りますが、まあ、後
藤田に限らず、法務省内部でも超メインストリームである「人事課長→官房長→刑事局
長→事務次官」というのは(いずれも原田が就いたポストである)、法案や予算を通し
てもらうために永田町の与党国怪議員とつるむ(=癒着する)のが仕事みたいなもので
すが(笑)、そのとき、法務大臣・後藤田が検察最高首脳の人事をいじくり回したこと
で、いわば、ハプニング的に傍流である岡山大卒の吉永祐介が検事総長になってしまい
ます。
んで、その本質的な意味を考えたときに、このときの吉永の一本釣り(=東京高検検
事長就任)によって、「京大閥」の法務・検察の首脳人事独占を切り崩し、それに成り
代わって東大グループの原田一派が中央合同庁舎6号館を乗っ取る形になりました。
つまり、京大閥の凋落を尻目に、原田一派が「我が世の春」を迎えることができたの
は、後藤田が法務大臣としてのその“指揮権”をいかんなく発揮したことで、京大卒の
エース・根来泰周の検事総長就任を、結果的に阻止したことにあるわけです。
そうした“恩”もあって、検事総長就任早々、わずか3カ月あまりで、いきなり「加
納問題」に直面し、追い詰められていた原田は、後藤田のところに「泣き」を入れに行
ったのではないか。そう思えてならないのです。
そこで、01年10月末(三井氏によれば、10月27日とのことですが)、同じ東
大の後輩である松尾と古田を引き連れた原田は、東京は麹町にある後藤田正晴の事務所
を訪れ、後藤田に「加納人事が実現しないと、調活の裏金問題が噴出して検察が崩壊し
てしまう」と泣きを入れます。
で、これを聞いた後藤田は「よっしゃ」とばかりに、首相官邸に働きかけたところ、
ぬあんと、官邸サイドから「とにかく、(加納の刑事告発を)シロ、クロはっきりとさ
せろ」とのサインが送られてきます。つまり、「シロ(=不起訴処分)にすれば、人事
はOKしてやるよ」とのサジェスチョンがあったというのです(笑)。
これを受けて、原田は突然、泥縄式に加納駿亮の告発事件についての捜査を命じる一
方、01年11月1日には加納の福岡高検検事長昇任の人事の内示が出され、神戸地検
検事正時代の裏金作りについては、11月5日に大阪高検が、高知地検検事正時代につ
いては11月13日に高松高検がそれぞれ、「嫌疑なし不起訴」の刑事処分を下しまし
た。
というわけで、同日(=11月13日)に、加納駿亮の福岡高検検事長昇任の人事を
たちに内閣(=小泉純一郎)が承認。そこで、2日後の11月15日には加納に対する
正式な人事発令がなされ、めでたく(?)、天皇による認証式が行われることになりま
す。
こうした検察人事の法的根拠は、検察庁法にあります。
んで、その第15条に「(最高検)検事総長、(最高検)次長検事及び(高検の)各
検事長は一級とし、その任免は内閣が行い、天皇が、これを認証する」とあります。
つまり、あくまでカタチの上(=法律上)においては、検事長以上の検察トップの任
命権者は、「内閣」、すなわち、総理大臣にあります。
さらに、同法の第14条では「法務大臣は、第4条及び第6条に規定する検察官の事
務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取り調べ又
は処分については、検事総長のみを指揮することができる」とあり、これが一般に「法
務大臣の指揮権発動」と称されるところとなっています(それで、昭和29年4月21
日、当時の法務大臣・犬養某が佐藤藤佐検事総長に対し、与党自由党の幹事長だった佐
藤栄作への逮捕状執行を見合わせるよう命令し、造船疑獄の捜査をストップさせたので
す)。
でもって、ロッキード事件で、田中角栄が東京地検特捜部にパクられた後は、角栄は
法務大臣に必ず、自分の息のかかった人物を法務大臣に据えましたが、その意図は最終
的には法務大臣に指揮権を発動させ、刑事訴訟法第257条に基づいて、己の事件に関
する公判請求を取り消すのが狙いだったと言われています(もっとも、そうした指揮権
発動を許容する世論は、当時、まったくありませんでしたが)。
こうした、検察庁法に規定された人事、さらには捜査内容にまで踏み込んだ条文が、
一般には「政治(=永田町)による検察支配の元凶」と批判に晒されています。が、し
かし、逆にこれによって、検察の独走、すなわち、「検察ファッショ」に対して、一定
の歯止めをかけることができるともいえます。
それゆえ、もし、私が法務大臣であれば、いま、ただちに「指揮権」を発動し、刑事
訴訟法第257条に基づき、現在、大阪地裁で公判中の三井氏の事件について、検事総
長の原田明夫に命じて、起訴を取り消させます。
そして、01年10月下旬の時点で、もし、私が内閣総理大臣であれば、法務・検察
サイドから具申のあった「加納駿亮の福岡高検検事長昇任」の人事案件について、「こ
んなアホな人事を持ってくるな」と、断固として「NO」と言っていたでしょう。
というのは、それこそが、ある一つの権力の独走に対して、「チェック&バランス」
を保障するデモクラシーだと思うからです。
しかし、戦後で最もうさんくさい自・公全体主義連立政権であるがゆえに、そうした
民主主義的な検察庁法の運用がなされることは、まったくありませんでした。
つまり、時の内閣総理大臣・小泉純一郎は「飛んで火に入る夏の虫ならぬ、秋の虫」
とばかりに、この加納駿亮の検事長昇任人事にOKを出すことによって、検事総長・原
田明夫のキンタマを握ることになります。
というのは、検察庁法を駆使すれば、いつでも総理大臣(=小泉純一郎)は法務大臣
に命じて、指揮権を発動し、三井氏に対する起訴を取り消したうえで、こうやって加納
駿亮の調活費裏金づくりという「詐欺行為」をもみ消した原田明夫に対する犯罪(=刑
法第103条の犯人隠避罪)の捜査を(やろうと思えば)命じることもできます。
しかし、それをやらずに敢えて裏取引に持っていったのが、いまの「内閣」、すなわ
ち、小泉自・公政権のファッショたるゆえんなのです(それゆえに、わざわざ総選挙直
前を狙った辻元清美チャンの不当逮捕が出てくるのです)。
こうやって、原田明夫は己の「保身」のため、詐欺罪として真っ黒クロである加納駿
亮を、ぬあんと、「嫌疑なし不起訴」という“無罪放免”にしてしまったことを知るに
及んで、三井氏は最終的に、大阪高検公安部長という現職のまま、実名で内部告発をす
る決意を固めます。
その理由はこうです。
――もはや、加納駿亮氏の件などどうでもいい。それよりも原田検事総長が、こうし
たことで社会正義の権化たる検察を瓦解させた。これに対する義憤である。それ以外の
何物でもない、と。
三井氏によれば、「検察官の使命とは、真実のみを追求してこれを確定することであ
る」と言い切っています。それはまさに、河井信太郎に始まる「現場派検事」としての
「志」であり、「理想」にほかなりませんが、それをズタズタに切り裂いたのが、「悪
の検事総長・原田明夫」なのです。(この稿つづく)
http://furukawatoshiaki.at.infoseek.co.jp/article/2004/226.html