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94年、米クリントン政権(当時)とカーター元大統領の人権外交の名の下、「民主化の旗手」としてハイチに戻ったアリスティド大統領の末路はアフリカへの追放だった。スラム救済をとなえたアリスティド氏はなぜ落ちたのか。理由の一つに大国や穏健派に理解されない強い黒人意識があったように思える。人種問題を口に大衆の不満を押さえ、経済悪化を奴隷貿易の負の遺産と説く過去の独裁者と同じ道を歩んだのではないだろうか。【ポルトープランス藤原章生】
ハイチは1804年、初の黒人国家としてフランスから独立した。砂糖農場で黒人を酷使した仏人は独立後去ったが、仏語を話しカトリックを信じる混血エリート層が、クレオール語、アフリカ系宗教「ブードゥー」を守る黒人を支配する構図は同じだった。
エリートの権力争いを鎮める名目で米軍が1915年に介入し34年に去るまで、反米闘争で5万人が死亡。19世紀末に芽を出した小規模農場は米の砂糖大農場に崩され、育ち始めた黒人知識層も周辺へ流出した。
その後誕生したデュバリエ親子の独裁政権(57〜86年)は、米企業とつながる混血エリートを諸悪の根源とみる黒人主義をとなえた。反発する穏健派は、大統領専属の民兵が押さえ込んだ。
神父だったアリスティド氏は91年の政変で国外亡命し、94年の米軍進駐後帰還。その後、経済低迷を批判されると「人口5%の混血層の独占経済」のせいにするようになる。01年、大統領に再就任後はデュバリエ政権と同様、民兵を使い反発者を押さえ込む手法をとった。米国の中途半端な軍事介入や汚職という面もあるが、米仏や野党に嫌われた一因に氏の強い黒人主義があったと言う政治家は多い。
1日、住民に荒らされた大統領公邸には黒人啓もう運動の書籍が散乱していた。南アフリカを亡命先に熱望するのも、黒人民族意識が強いムベキ大統領がいるからではないだろうか。アリスティド氏は滞在先の中央アフリカのメディアに「(自分を追放した人々は)平和の木を切り倒した。でも、いずれまた育つ」と語った。「平和」は、暗に、幾世紀も解決されない黒人主義を指しているように思える。
[毎日新聞3月3日] ( 2004-03-03-23:28 )
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/kokusai/20040304k0000m030094000c.html