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拙著『読売新聞・歴史検証』「卑俗なジャーナリズム」批判(1919年ごろの青野李吉)
現在も電網木村書店で販売中の決定的メディア批判の書なり。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/hanbai.html
そこらのインチキ大学の教授などは、とでもない間違った「メディア論」の講義で、若者を、たぶらかしているのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom.html
電網木村書店 Web無料公開
『読売新聞・歴史検証』
木村愛二著/汐文社/384頁/定価2500円
1996年3月6日 初版第1刷発行
特高の親玉・正力松太郎が関東大震災で焼け落ちた文芸紙読売に乗込み、
天皇内務官僚トップが戦後の放送系列までを支配するに至る暗黒メディア史。
[中略]
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-1-3.html
1-3)国会開設の世論形成から社会主義の紹介に至る思想の激動期
[中略]
「文学新聞」の伝統は以後二〇年近くつづいた。のちにプロレタリア文学で名を残す青野李吉は、大逆事件以後の一九一五年(大4)に入社する。このときすでに、第一次世界大戦(一九一四〜一九一八年)が始まっていた。青野は私小説『一九一九年』のなかで、先輩記者の上司小剣を、Y社(読売)の編集長格の庄司という作中人物として描いている。青野は、上司をつぎのように観察していた。
「文学界におおきな地位を占めていて、早くから社会小説風の作風で、特色を発揮していた」
「何時も洗練された皮肉と、直截な観察で、人々を一段と高いところから見下している風があった」
青野はまた、義一(自分)がY社(読売)に入った時の感想をも、詳しく記している。新聞社の仕事自体に「生きた社会に潜入する興味」を抱いてはいたが、読売に関してはそれだけではない。
「そういう一般的な理由の外に、Y[読売]社だけに関する特殊な理由があった。この社の新聞は、日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきた。だから、Y[読売]新聞といえば、文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、社の内部でも、そういった文化主義的な空気が、他のさまざまな、たとえば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。その文化主義的な伝統が、義一には直接の環境として、決して、快適でないものではなかったのだ。この新聞で仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」
ここで実に面白いのは、「ジャーナリズム」の形容が「卑俗」となっていることだ。青野の時代には、「ジャーナリズム」が「日刊」「速報」の原意通りに解釈され、その「事件屋」的な底の浅さが軽蔑されていたのである。