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イラク北部の油田都市キルクークは、クルド人とトルクメン人が対立し、イラクの民族構成の複雑さを象徴することから「イラクの中のイラク」とも呼ばれる。先月末、両者の衝突が起き、犠牲者が出たが、背景には、「クルド人はイラクの連邦制施行後、キルクークをクルド地域に組み入れ、独立の足がかりにするつもりだ」というトルクメン側の不信感がある。【キルクークで小倉孝保】
衝突のきっかけは先月22日、クルド人約5万人がキルクークに集まり、フセイン元大統領拘束を祝う集会を開いたことにさかのぼる。この際、大量のクルド人がスレイマニアなど北部クルド地区から入り込み、一部が「キルクークはクルドの土地」と書いた横断幕を掲げ、イラク国旗を引きずり下ろしクルドの旗を掲げた。さらに、イラク国旗を掲げたトルクメン人をクルド人の地元警察官が逮捕し、トルクメン人の不満は最高潮に達した。クルド人はフセイン政権時に大量虐殺の犠牲になったことから、イラク国旗に反感を抱く住民が多い。
この後の同31日、トルクメン人約2000人が反連邦制デモを実施。一部がクルド愛国同盟(PUK)事務所に向け発砲、PUK側が応戦し、トルクメン人5人が死亡、多数が負傷した。さらに翌1日にはクルド人2人がトルクメン人とみられる者に刺殺された。
米軍は事態の鎮静化のため、夜間外出禁止令を出したほか、米英占領当局(CPA)文民行政官のブレマー氏がクルド幹部と対策を協議した。キルクークは現在も両住民の緊張した関係が続き、市中心部では米兵がしばしば厳しい表情で巡回監視をしている。
キルクークは70年代以前はクルド人、トルクメン人が多数を占めアラブ人は少数だった。その後、石油が発見されたことから旧バース党政権はアラブ人のキルクーク移住を奨励。今ではクルド人、トルクメン人、アラブ人とも自らを「多数派」だと主張している。
現在、実際に勢力が強いのはクルド住民。イラク戦争で米軍が北部からクルド軍と協力してキルクーク入りした経緯もあり、警察など治安担当機関は主にクルド人で占められている。また、市長もクルド人だ。
トルクメン人はキルクークとその南のトゥズ・ホルマトにも多く住み、連邦制が実施されキルクークがクルド地域に編入された場合、住民が分断されることになる。そのため連邦制に強く反対し、トルクメン系4政党で作る「イラク・トルクメン戦線」の広報官、トルキッシュ・ラシャドさん(40)は「クルド人はキルクークをクルド地域にした後、クルド語教育などクルド化を進めるつもりだ。最後にクルドの独立を視野に入れているのは間違いなく、連邦制が実施された場合、イラクは分裂する」と語る。
一方、PUKキルクーク事務所副代表、ラマダン・ラシードさん(54)は、市の位置付けについて「キルクーク住民自身が決めればよい」と語ったうえで、「実はトルコがトルクメン系住民を利用し、この問題に介入しようとしている。周辺国の介入こそ阻止すべきだ」と言い、トルコに疑いの矛先を向けている。
アラブ人の中にも、キルクークがクルド地域になることへの警戒感があり、キルクークの民族問題は今後も混乱の火種になる可能性は高い。
[毎日新聞1月14日] ( 2004-01-14-23:11 )
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/kokusai/20040115k0000m030129000c.html