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「テロ容疑者」に水も与えず暴行 連合軍当局の恐るべき虐待をイラク人が証言
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イラクの連合軍暫定当局(CPA)に収監されている約1万3千人のイラク人が、容疑も告げられないまま長期にわたって収監されているだけでなく、収容所内で暴行を受けるなどの非人道的な扱いを受けていることが米団体「クリスチャン・ビース・メーカー」の調査で分かった。CPAは収監されているイラク人の段階的な釈放を1月8日から始めているが、釈放にあたっても「安全面の配慮」を理由に釈放者の名前を公開していない。収監者は家族のいる地域から離れた収容所に入れられるケースが多く、釈放後も親族との連絡をとりにくいのが現状だ。(東京=木村哲郎)
同団体は、昨年5月から、CPAによるイラク人拘束者の問題を同団体に相談に訪れた関係者の証言を元に調査してきている。CPTの調査によると、連合軍ははっきりとしない情報に過剰に反応しており、人違いでなどで無関係な人々を拘束する例も多いという。
連合軍は夜中に突然やってきて容疑も告げずに連行するケースが多く、その際、発砲することも珍しくない。また、押収書類なしに現金や貴金属を押収することも多く、そのほとんどは持ち主の元に返ってきていない。また、収容所は定員を大きくオーバーしていて、収容者は地面に寝ることも余儀なくされているという。
収容された人々の証言から得られた二つの事例を紹介する。
■ケースその1 日なたに放置された少年
家族と共にバグダッドで住む16歳の少年の家へ米軍が入ってきたのは、とある夜の午前2時半のことだった。米軍は「捜査」に来たとのことだったが、具体的に何の捜査であるのかは伝えずにそれは始まった。少年の家族は捜査に協力すべくタンスの鍵を渡したにも関わらず、米軍はタンスの鍵をこわすと中にあるものを床にまき散らした。そして現金と金のネックレスを「押収」すると少年と彼の父親、従兄弟、18歳の兄の四人が連行された。理由は一切伝えられなかった。
少年たちは米軍がベースキャンプに使っているパレスに連れて行かれると、手首を背中で縛られ、そのまま小さな暗い部屋で一晩を過ごすことになった。説明は何もなかった。次の日の朝、少年たちは部屋から出されると、気温40度を超えている中で、一日中日向に放っておかれた。日陰へ移ることは許されなく、少年のそのときの服装は、前夜連行されるときに寝巻としていて着ていた下着一枚のままであった。
また両手が背中で縛られていたために水を飲むこともできず、そのことを兵士に訴えても、兵士が何かをすることはなかった。たまに水が与えられても、その水は日向で熱されていたもので、とても飲めるものではなかった。
少年は一度得体の知れない「ジュース」を飲まされたこともあった。一口だけ口をつけた少年だが、あまりの味にそれを飲むことを拒否しようとしたのだが、兵士は少年の口をこじ開け、口に流し込んだ。
別の日にもやはり一日中日向に放置され、少年と兄は水を懇願した。すると兵士による暴行が始まった。一人が少年の肩と胸を、もう一人が背中を蹴飛ばした。少年の兄は、口から血が出るまで(血を飲めるようになるまで)暴行が続けられた。兄は痛みで叫んでいた。
少年はある日突然「解放」された。そのときの服装はやはり下着一枚で、昼間の強い日差しの中で、少年は歩いて家まで帰った。その様子を見た通行人は、少年が強盗にあったと思って哀れんでいた。
少年の母親によると、少年は悪夢を見る夜が続いている。「ぼくらは動物のように扱われた」と少年は言っている。
少年たちが連行された理由は未だに伝えられていない。もちろん現金や貴金属は帰ってきていない。押収したという証明書類がないので、これらのものが帰ってくる可能性は少ないだろうと思われる。そして少年と共に連行された3人の家族はばらばらになり、広いイラクのどこかの収監所にいるという。
■ケースその2 米軍女性少佐に助けられた男性
農務省の下級役人であった男性の家にドアを壊した米軍がやってきたのは去年6月14日の午前2時頃だった。男性はフセインの関係者だと容疑をかけられたのだが、男はバース党にでさえ所属しておらず、またサダム・フセイン元大統領を支持しているわけでもなかった。当時は分からなかったことだが、米軍がやってきた理由は、職場で男性のことを嫌っていた誰かが、密告したからだろうと思っている。
ただそのとき、男性は家を空けていた。米軍兵士は妻と10歳になる娘に銃をつきつけると、500万ディナール(約2500米ドル)と貴金属を「押収」した。米軍は再び二日後の午前2時に男性の家に侵入したが、男性はまだ帰っておらず、妻を脅し帰っていった。
事件の後に帰ってきた男性は妻からその話を聞き、自らの潔白を証明するために自分の持っていた全てのIDカードを用意した。米軍が男の家にやって来たのはさらに2日後の午前2時。その際ヘリコプター1台と3台の戦車その他にも6台の軍用車を出動させてきた。米軍は一回目の侵入のときにこわしたドアから手榴弾を投げると、その直後に兵士がありとあらゆる方向から家へ飛び込んだ。
男性は自らの限られた英語力で捜査に協力する意志を伝え、家を壊して侵入する必要はないと言った。しかし米軍兵士の答えは「おまえはテロリストだ。われわれを攻撃するのに参加しただろ」兵士は男性が用意したIDカードには目も向けなかった。
近所の住民への聞き込みと家の捜査を始めた米軍兵士だが、テロに関するものは何も見つからなかった。司令官はいったん謝ったが、彼は男性を釈放する権利を持っておらず、男性は結局連行されることになった。
最初の二日間は背中で両腕を縛られたままだった。一日の食事はスプーン一掻きの軍食とコップ一杯の水のみだった。その間、爪をはがすなどの暴行もあったという。
その後、男性は旧警察学校である米軍基地に護送されることになった。そこで見かけたシリア系アメリカ兵とアラブ語で話をすると、両手は自由になったが、男性に与えられた寝床は地面だった。
次の日、男性は以前よりきつく両腕を背中で縛られると、今度は刑務所として使われている施設のあるバグダッド国際空港へ連れて行かれた。刑務所に着くとまず「ドクター」が健康診断をした。ドクターは大柄で筋肉質なアメリカ兵で、男性を蹴飛ばすと、男性に意識があるかを調べたという。それが健康診断だった。後に知ることだが、このドクターは容疑者を暴力で殺したという噂があった。
ここでようやく始まった取り調べにおける質問は、主にフセイン親族への関係と彼らの居場所についてだった。男性はフセインの関係者だと決めつけられており、質問は執拗に続いた。しかし男性は本当に何も知らなかったため、知らないと答えるしかなかった。
粗末な食事と精神的、肉体的苦痛から衰弱した男性は、再びドクターの元へ連れて行かれて診察を受けることになった。ドクターは男性には目もくれずにスピーカーから流れる大きな音楽に合わせながら踊ると、診察は終了した。
診察の後で、男性は野外に板で建てられた小屋に移された。小屋には小さな穴以外には何もなく、中はとても熱く汚かった。食事はその穴から渡された。しかし食事には豚肉が入っており、イスラム教である男性はそれを食べることができなかった。シャワーを浴びることは許されず、トイレは1日3回と決まっていた。
米軍が男性に求めていたものはただ一つ。フセインや関係者に関しての情報だった。男性の健康状態などは二の次だった。
やせ細っていく中で、男性は生きて家へ帰る希望を失っていった。男性がサダム・フセイン元大統領を見たのはただ一度。それは1980年のことで、学校で行われたスピーチを聞きに行ったときのことだ。あまりに理不尽な取り調べが続くなかで、男性はフセイン元大統領が実は連合軍にかくまわれているのではないかとさえ疑い始めた。
最後ののぞみをかけて、男性はうその供述をすることにした。フセインの居場所を知っていると答えたのだ。男性は地図上で場所を示すように求められたがそれを拒否、実際の場所に連れて行くと言った。しかし米軍はそれを許さなかった。フセインが連合軍にかくまわれているのではとの男性の疑いはますます高まったという。
男性は、結局、うそをついていたことを認めた。そのうえで、連合軍とフセインとの間に密約があるのではと率直に言ったところ、罰として3分間の電気ショックが行われ、男性は病院に収容された。
8日後に尋問は再開され、この際米軍は家族に危害が及ぶ可能性を示唆した。しかし男性が知っていることは何もなかった。
退院をすると、男性は同じ収監所の別の場所に送られた。そのとき初めて、男性は収監所の全体像を知ることができた。そこには女性たちも多く収容されていた。しかし彼女たちのほとんどは、夫が容疑者であるからという理由だけで身柄を拘束されていた。年輩者から13歳の少女までがいて、毛布一枚で寝起きをしていた。石けんはなく、食事には豚肉が使われており、水は汚染されていた。
男性は他の収監者と共に抗議集会を計画した。収監所の広場で、ドクターの解任を何よりも強く主張し、「フリーダム」「ジャスティス」と英語で叫んだ。
2回目の抗議集会が行われたのは、収監所が攻撃されるという噂のために23日間、ブッカ(BUCCA)の収容所ですごした後だった。今回は拘束をめぐる法的プロセスを問題にした。警備員は軍を呼び、男性は両手を縛ら黷スまま暴行を受けた。そして3時間後、抗議集会をもう2度と行わないことを条件に将軍(ジェネラル)と会談を持つことの約束を得た。男性は将軍との会談で家族と連絡を取るための法的措置を要求した。しかし要求は認められなかった。
会談の結果に満足しなかった男性は再び抗議集会を計画した。しかしそのことをどこからか聞き出した米軍関係者は、男を再びブッカの収容所に転送することにした。
しかしそこで奇跡が起きた。ブッカ収容所の最高指揮者である米軍女性のギャリティー少佐は男性が幾度も収監場所を移しているのを疑問に思い、直接、男性に事情を聴いた。男性は今までに起きたことを全て話した。しかしそれを見た警備員が男性をギャリティー少佐から離した後、今度はキューバのグアンタナモ基地に護送する可能性があると告げた。これを聞いた男性は、ワイヤーで首を切り自殺を試みた。
男性は命を取り留めた。ギャリティー少佐は3日間にわたって個人的に男性の看護をし、軍上層部と話をすることを約束した。
ギャリティー少佐の行為により、男性は9月9日にブッカから解放のために他の収監所に移され、5日後の14日に奇跡的に解放された。
男性はCPTとのインタビューの最後に次のように話している。
「わたしは解放されて今は健康状態もいい。しかし仕事はなくなったし、多くの友人や親戚が未だに収監されている。連合軍イラク人支援センターなどに行き、補償を求めたけれど、相手にされなかった。友人や親族がどこにいるかを調べようともしたけれど、探すことはできなかった。今のわたしはただ、アメリカや世界の人々に、わたしに何が起きたのかを知ってもらいたい。わたしが望んでいるのは正義のある祖国です」
CPTは、この2つのケースを含む収監者虐待事件について、米軍などに取材を試みたが、米軍からの十分な返答は得られていない。軍の階級でいえば、一度だけ大佐と話をすることができたが、たいていの場合は大尉もしくは少佐までしか話が届かなかった。「上の人間に話を伝えておく」で終わっているのが現状だ。他の場所に行けとたらい回しにされることも少なくなく、「何もできない」とハッキリ言われたこともある。また、収監された個々のイラク市民がどのような状況下に置かれているかを説明する責任はないとのコメントを受けたこともある。
シカゴのCPT本部コーオーディネーターのクレアー・エバンスさんは「残念ながらCPTの活動が問題の解決に役に立っているのかも分からない」と話す。しかし真の正義と民主主義のために同団体は今後も収監者の証言を集め、活動を続けていく方針だという。