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(回答先: 米軍の前線は薄く延びきっていて、戦い続けるのはとうてい無理 投稿者 Sちゃん 日時 2004 年 1 月 12 日 09:51:36)
「屯倉(みやけ)戦略」(って、いま名前を付けたんだが…)というのは、覇権国家が小国に軍事基地を置くことによって、その国の政治を監視し、コントロールする。そして、用心棒代を徴収することによって、経費をまかなう。場合によっては用心棒代を調整してその国の経済発展がしすぎないようにコントロールする、という戦略。で、条件が整えば国ごと併合してしまう、という戦略。
アメリカの軍事基地を置かれた国は「用心棒代」を払うらしい。日本では「思いやり予算」と言っているが、韓国では「防衛分担金」。イラクなら多額の用心棒代を取れそうです。
* 本来の記事はすでに消えているようですが、コピー版がありました。(スクラップブックより転載)。
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http://www.asahi.com/international/update/1117/002.html ←消えている
http://www.egroups.co.jp/message/nomorewar/3733 ←コピー版
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在韓米軍基地の過半を返還、代わりの基地拡張が条件
しかし、安保協議会では韓国版の「思いやり予算」にあたる来年の防衛分
担金を前年比10.4%増やすことも確定。統合先とされた基地周辺住民や
米軍関連の市民団体は早くも反発を強めており、米韓両政府の合意通りに返
還作業が進むかどうかは不透明だ。
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屯倉というのは、西部劇時代の騎兵隊の砦とはちょっと性格が異なる。砦は戦争目的だが、屯倉は政治・経済的に現地勢力を監視・コントロールするのが目的。ただし、それに必要な軍事力は屯倉の中に維持しておく必要はある。
イスラエルが行っているような入植地とも異なる。自国の民衆を入植させるわけではない。あくまで軍人の派遣。
大和政権の屯倉は国内では効果を発揮して、最終的には地方政権を併合した。
* しかし、韓国南部においた官家(みやけ)は放棄せざるをえなくなったようだ。ただし、これは屯倉ではなく官家なので任那の政権そのものという説もあろう、北九州の那津官家(大宰府の起源)も官家)。
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http://www.valley.ne.jp/~ariakehs/New_Adumi_zoku/NA_zoku_7.html
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屯倉というのは小学館の百科事典によりますと、以下の通りです。
「律令(りつりょう)国家成立以前にみられた天皇・皇族の領有地をいい、屯家、官家、御宅、三宅とも書く。本来は稲穀を収納する官倉そのものをいったが、のちには、その官倉に納める稲穀の耕地、付属の灌漑(かんがい)施設、および耕作民(田部(たべ))などを含めるものになった。
屯倉は早く5世紀の畿内(きない)に発達したといわれるが、全国的に拡大されたのは6世紀のことである。とくにこの時代になると、吉備(きび)の白猪屯倉(しらいのみやけ)のように、大和(やまと)王権が役人(田令(たづかい))を派遣し、田部の丁籍をつくって直接経営するものが現れた。しかし各地の多くの屯倉は、現地の豪族の管理に一任したタイプのもので、この両者が並存していた。〈原島礼二〉」
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先に引用した岩波書店刊行の「古事記下」には、糟屋屯倉について次のような補注があります、「継体二十二年十二月条の糟屋屯倉のように、国造などの地方豪族がその所領の一部を贖罪その他の目的で朝廷に献上した結果成立した屯倉が、六世紀に入ると数多く現れる。」(同書551頁)
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