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(回答先: Re: イラク砂漠の中の日本軍装甲車を見て [朝鮮日報] 投稿者 長壁満子 日時 2004 年 1 月 21 日 09:18:46)
長壁満子様、初めまして、こんにちは。
戦争屋がパノラマを自覚しているかいないか私には判りませんが、
世人というものは、大概いつの時代にも、目眩めく大パノラマより目先のミクロの出来事の方に目を奪われるようですね。
辺見庸氏の著書『いま、抗暴のときに』に、次のような記述があり、興味深く感じたものです。
「日常という仮装
大事件や悲劇はわれわれを驚かせる。ひとびとはいつもどおりの日々がつづくと考え、日常のなかでこうしたことが起きるとは思っていない。しかし、恐るべき出来事というのは、ごくありふれた普通の日に起きるものなのです。
(ポーランドの詩人ウィスワヴァ・シンボルスカの言葉 共同通信配信「テロ・戦争・世界」から)
T
人の日常とは非日常の仮装である。日常が非日常を胚胎しているのではない。恐らく逆であろう。人の非日常が日常という名の気だるいジェリーを絶えず分泌し、それを皮膜として身にまとい、安穏を装って災禍のもとを隠すのである。人はそうでもしなければ身がもたないのだ。災禍のもとが日々にいつも露出しているのでは、気の休まる暇がない。だから、無意識に「日常」を仮構する。「安穏」を捏造し、演出する。その手助けをしてきたのは、いつの時代も国家に牛耳られたマスメディアであった。
(略)
人は長い年月を閲しながら徐々に利口になっているのか、それとも一層ばかになりつつあるのか、私にはよくわからない。私にもわかるのは、いかなる歴史的な非常時にあってもその実相とまったく釣り合わないミクロの出来事と日常世界というものがあり、多くの人びとが前者から目を背け、後者に執拗に淫していくという、不可思議だけれどほとんど法則的ともいえる事実だ。例えば、1936年とはどえらい年であった。陸軍青年将校のクーデター、2・26事件があり、蔵相高橋是清、内相斎藤実らが殺され、軍国主義の流れが本格化した。日本はロンドン海軍軍縮会議から脱退、ナチス・ドイツと日独防共協定を締結し、(暴力保安官ブッシュのばかげたこじつけのもととなる)本物の「悪の枢軸」を形成したのだった。欧州でもファシズムの嵐が吹き荒れ、スペインで市民戦争が勃発、フランスでは人民戦線内閣が成立した。だが、日本の民衆の耳目をもっとも驚かしたのは「阿部定事件」だったという。東京都中野区の鰻屋で働いていた女性、定(当時32歳)が妻ある男、石田吉蔵(42歳)を痴情の果てに殺し、その性器を切り取って肌身離さず持ち歩いていたという猟奇事件が、第二次世界大戦へとつづく天下国家の一大事件を圧倒し、日本中の話題をさらったのであった。傍聴希望者が裁判所に徹夜で並んだだけでない、定が予審廷で供述した調書が密かに外部に持ちだされ、地下出版物として高値で売買されたりもした。
マスコミと民衆は阿部定事件に踊り狂った。この事件が人の心を刺激する多くの要素に満ちていたからだ。ホラー、薄倖物語、エロティシズムの三大要件を兼備し、下賎なのから高尚なものまであらゆるレベルの好奇心をくすぐったのである。定と吉蔵の性愛の仔細は、噂が噂を呼んでこの国のほうぼうで語られた。その盛んなことは日独防共協定に関する比ではなかったといわれる。思えば、国家の犯罪すなわち戦争の方が比べものにならないほどホラーであり、猟奇的であるのにもかかわらず、である。人の眼も耳も国家の大事件よりは手近な事件に向くのは、いまにはじまった話ではないのだ。阿部定事件の翌年にあたる1937年には、文部省が国民教化のための出版物「国体の本義」を発行して、記紀にもとづき「国体の尊厳」、天皇への絶対随順を説き、個人主義・自由主義を排撃しはじめたのだが、人というのはどこまでも不埒なものだ。多くの者が口では「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」のスローガンを唱えつつ、心は「国体」など屁で飛ばすような阿部定事件に依然のめっていたのである。それは厭世から来る逃避のようなものであったかもしれない。そして、逃避だからこそファシズムに抗する力にはなんらなりえず、むしろファシズムを看過し、下支えしたのであった。
ところで、横溝正史の小説『八つ墓村』のモデルとされた「津山連続三十人殺し」という事件が起きたのは、国家総動員法が公布された1938年であった。22歳の青年、都井睦雄が同年5月、一夜のうちに自分の祖母をふくむ村民30人を猟銃と日本刀で射殺、斬殺したこの「日本犯罪史上空前の惨劇」は、筑波昭氏のノンフィクション『津山三十人殺し』(新潮OH!文庫)などに詳しいが、これも「ラジオをはじめ全国のマスコミがこぞって派手に報じており、日本中にセンセーションをまき起こした」(同書)という。犯人の都井が阿部定事件に異様な関心を示し、定の供述調書をまとめた地下出版の冊子を耽読していたことが同書で明らかにされており、陰惨な縁(えにし)のようなものもほの見えてくるが、私が興味を抱いたのは殺戮の果てに自殺した都井の遺書である。「けれど考えてみれば小さい人間の感情から一人でも殺人をすると言うことは非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ」「非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望を抱き溌剌と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき淋しくこの世を去っていきます」――。これが、都井の時代認識であり、それにもとづく自己存在の恥の表明でもあった。だが、この事件のわずか半年前、日本軍は南京を攻略して住民らきわめて多数(中国側は30万人と主張)を虐殺している。
当時のマスコミは、むろん、都井の犯罪を「鬼畜のごとし」と報じ、南京攻略に関しては大虐殺の事実を隠して一大慶事として伝えたのであった。日常がここでも非日常を隠し、本来の危機にヴェールをかぶせてしまっている。この国では事の軽重がいつもひっくり返されてしまう。昔も、いまも。(略)」
私自身、余りに重く厳しい現実からついつい逃避しがちで、己もがもどかしい限りです。
しかし、今思うと(って、当時はもちろん生まれていなかったけれど)、阿部定事件も津山連続三十人殺しも、大衆の目眩ましを狙った謀略だったのかも(笑)