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(回答先: Re: これでダメなら画像なし(苦笑) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 29 日 10:07:32)
秩父困民党から120年 、「60年周期説」でいくと二周り目になるわけですが
変わったのは「松」が「竹」に格落ちしたぐらいかもしれません。
kakuki/titibu/titibu-jiken.htm
農民が決起した背景
明治政府は基盤整備や近代産業の育成、1877年(明治10年)に起きた西南
戦争の戦費を賄う目的などで不換紙幣を乱発し、激しいインフレを招いた。81
年秋、大蔵卿に就いた松方正義は財政を立て直すため、支出を厳しく絞ってデフ
レ政策を進めた。一方で軍備増強の財源をつくるため、諸税率を引き上げ、新税
を創設したことから国内景気は一気に冷え込む。幕末の横浜開港から、生糸の輸
出ブームで養蚕を主体とする秩父の農山村も潤っていたが、内需の落ち込みに海
外の不況も重なり、生糸をはじめ農産物価格が暴落。好景気の時代に生活や設備
拡張の資金を借りた農民らは困窮し、自殺者も急増する。高利貸や警察、郡役所
などに返済期限の延長や金のかかる学校の休校、税の軽減などを訴えたが無視さ
れた。切羽詰まった農民らは「秩父自由党」(困民党は官側の呼祢)を名乗り、
「世均し」(よならし)を目指して立ち上がった。
蜂起後の秩父困民党
大宮郷出身の田代栄助が総理、石間村(吉田町)の加藤織平が副総理、信州から
参加の菊池貫平が参謀長、下吉田村の井上伝蔵は会計長などを務め、軍隊になら
い秩父地方や信州、上州から集まった3000人で2大隊を編成、秩父の郡都・
大宮郷を制圧した。だが、皆野に本陣を移した3日目以降は情報の混乱などで統
制が乱れ、4日目には大隊長の1人が捕虜の巡査に斬られて重症を負い、首脳部
が相次いで離脱して本陣は崩壊。児玉方面に進撃した500人の部隊も金屋で政
府軍と銃撃戦の末、敗れた。
あきらめない約200人は菊池貫平をリーダーに陣容を再編し、吉田から屋久峠
を越えて上州に進出。山中谷から十石峠を越え、信州へ進んだが、東馬流で野営
中を襲われて大敗。逃れた一団も山梨県境に近い野辺山で壊滅した。だが、「金
品の略奪や酒宴、私怨による放火や暴力行為」などを禁じた厳しい軍律は、最後
まで守り通した。
三新法
1887年(明治11年)7月布告の郡区町村編成法、府県会規則、地方税規
則。郡区町村編成法では、維新後、複数の町村をまとめて設定した大区・小区制
を 廃止して行政単位を郡・町・村の系列に戻して、戸長や議員を公選制にして
円滑化することを図った。4連村は旧小区の枠を残した移行期の産物で、初議会
から 2年後の81年には協議の上、行政単位を各村に戻している。府県会規則
は、地方税で賄う予算やその徴収法を決めるため府県会の開設を定めたもの。だ
が、議 案の発議権はなく、議論の内容が治安上問題があるような時は、県令が
中止させることも出来た。地方税規則は、あいまいだった府県財政と町村財政の
区分を明 確化するもので、府県分は地方税でまかない、町村分は協議費として
調達することにした。だが、それまで国費だった道路や河川等基幹施設整備費
が、府県負担 に切り替えられ、地方の出費は増大した。
ien/1406/konmin.html
歴史の闇を切り裂いて困民党の精神が ぼくらの時代を照らしだす
1884年(明治l7年)秩父困民党に 結集した人々が、
竹槍や刀や火縄銃を手にして立ち上がった。
始めは3O00人、最終的には一万人と言われる
農民や職人 や商店主や博徒が、
各種税金の滅免、借金の据え置き、 支払い延期、
学校費の廃止、徴兵令改正等を要求して蜂起したのだ。
そして、生きる権利、自由、平等を主張した農民たちが、
l0月3l日から 11月9日まで(日本をゆるがした十日間)を、
明治政府を相手につくりだした。
けわしい峠道を寅市が、善吉が、宗作が走る。
深く静かに村々に困民党が根を張つていく。
「圧制を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむ」
自分たち自身で、自分たち自身を救おうとする人々の
壮大なたたかいの軌跡を描く
(主人公・会計長)井上伝蔵・・・・・緒形 直人
下吉田村(現吉田町)出身。
地域の名望家として広く養蚕農民を助け、絹布の問屋商人として「丸井の旦那」
の愛称をもつ。人望が厚いばかりでなく、当時全国的に流行していた自由民権運
動に触発されて自由党に入党し、東京の党本部と秩父の入党者とのパイプ役とな
る。 明治17年に至ってデフレ政策が秩父の農民の生活を圧迫し、ついに蜂起
するに至っては困民党軍の会計長として幹部に迎えられ活躍する。しかし事件は
政府軍に鎮圧され、幹部が次々と捕縛・自首する中で伝蔵は実家の近所の土蔵に
2年間隠れ住み、そののち北海道に移住。伊藤房次郎と名を変えて妻子をもう
け、1918(大正7)年のその死の直前、家族に自分の正体を明かし、来歴を
隠 さず語った事で世の中に衝撃が走った。
(総理)田代栄助・・・・・林 隆三
大宮郷(現秩父市)出身。
秩父郡じゅうにその名を知られた侠客。博徒であったというが金貸しをもしてい
たようで、事件直前には多くの農民に金を貸し付け、事あるごとに貧しい農民た
ちの世話を焼いていた。日野沢の村上泰治と行き違いがあって自由党には入党し
なかったが、「強きを挫き弱きを扶け」る律儀な性格で、蜂起に至っては総理に
推され、困民党軍を一手に指揮する。蜂起から3日後、本陣が解体して困民党軍
の指揮がとれなくなったのちは武甲山々腹の洞窟に隠れ、のちに黒谷村に移った
ところで捕縛される。翌年2月に裁判で死刑が確定し、刑場の露と消える。
(副総理)加藤織平・・・・・杉本 哲太
石間村(現吉田町)出身。
田代栄助とともに秩父郡で有名だった博徒。もともと上層農家の家に生まれたが
坂本宗作らに農民救済を持ちかけられ、9月頃より困民党の活動に参加するよう
になった。事件では副総理となって農民たちの先頭に立ち、本陣解体後は川越を
経由して東京・神田に逃亡。そののち逮捕され田代らとともに死刑となる。
井出孫六 「秩父困民党」 講談社現代新書
高橋哲郎 「律儀なれど、任侠者 秩父困民党総理田代栄助 」 現代企画室
広瀬隆 「漢方経済学」 光文社