現在地 HOME > 掲示板 > 政治・選挙2 > 350.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
「事務次官会議」を廃止しても政治主導にはならない --- 「ボトムアップ」と「トップダウン」の仕組みの問題である
2004年2月3日 火曜日
◆事務次官等会議廃止論と、政府内意見調整システム 2004/01/26
まず名称だが、閣議の前日に行うのは「事務次官会議」ではなく「事務次官『等』会議」である。これは、会議の司会として内閣官房副長官が出席することから、出席するのが事務次官だけではないよ、ということを示している。正確な語を使ってもらいたいものだ。
さて、民主党は一貫して「事務次官等会議廃止論」を唱えている。しかし、官僚や有識者は「そんなことをしても無駄」と思っている。なぜか。
民主党は、閣議の前日に行われる事務次官等会議が政策を実質的に決定しており、そのため、閣議での決定は「事務次官等会議決定の後追い・形式的承認」に過ぎず、政治主導が果たされない、と主張する。この議論が成立するためには、事務次官等会議が真に政策を決定する機関であることが必要であるが、結論から言えば、事務次官等会議もまた「形式的承認」機関であるに過ぎない*1。また、事務次官よりも大臣の方が当然えらいので、事務次官等会議の結論を閣議の場で否定することも、現制度の下であっても原理的には可能である。よって、民主党のいう改革を実施したところで、真に「政治主導」の政策立案ができるかというと、非常に疑問である、というかその目的は達成されない。それは、日本の政策立案システムが、基本的に「ボトムアップシステム」であるという点に由来する。
事務次官等会議と閣議の話をする前に、霞が関各省庁間の意見調整システムについて説明しておく必要があるだろう。意見調整システムといっても、これを詳細に検討すればはてなダイアリーブック数冊分になるので、ここでは「ある省で作成された法律案が法制局審査*2を経てから、それが閣議決定されるまで」について解説する*3。
法律案は、衆参両院で可決されなければ法律にならない。そして国会に提出するためには、閣議で決定されなければならない。閣議決定は多数決ではなく全会一致によってなされるので、全大臣が「うん」といわなければならない。大臣というのはそれぞれ役所を従えているわけで、大臣が「うん」と言うことは役所が「うん」と言うのと同義。大臣は専門的事項に関しては素人なので(役所の膨大な所管事項すべてに専門家であることは、大臣のみならず、事務次官であっても不可能である)、原則、役所の事務方が色々検討をし、最終的に大臣にご了解いただく、という形で大臣の決定がなされる。というわけで、閣議で全大臣の同意を得るためには、「前もって」各省庁事務方がその内容に同意していなければならない。
さてここで、A省が作成した法律案に対し、B省がどうしても同意できないと考えているとしよう(法律案ができて法制局審査まで終わっている時点で、B省は下手をうったことになるのだが)。A省は、法律案について各省庁から同意を得るため、これを「各省協議」(または「合議」(ゴウギではなくアイギと読む))に掛ける。曰く「別添のとおり法律案を作成いたしましたので、ご意見がありましたら○月×日までに別紙様式に従いご提出ください。なお期限までにご提出なき場合、ご意見なしとさせていただきます」と(文言は一部簡略化。締切は各省協議文配布から原則5営業日後に設定される)。つまり、この期限までに意見がない場合はその省はこの法律案に同意したことになる、文句があればはよ言ってこい、ということだ。
ここでB省は思いの丈を様式に記入し、A省に投げ返す。その後、A省からB省に対し返答をする。A省は原案のとおり通したいわけだから、当然B省の申し入れを理由をつけて拒否する。これに対し再度B省は意見を送りつける。このやりとりを繰り返し、問題がこじれれば課長レベル、局長レベルで直接対話し、着地点が見つかったところで「打ち止め」になる。
これをA省は全省庁に対して行い(だから法案作成担当は死ぬほど忙しい)、全省庁の(消極的・積極的)同意を得たところで事務次官等会議、閣議に持って行くのである。よって、事務次官等会議にあがってきた時点で、すでに法律案は各省庁間調整が済んでおり、議論のしようがない(ウルトラCとして、事務次官等会議でひっくり返すという裏技を、例によって例のごとく通産省が過去にやったと聞いたことがあるが、真偽を含め詳細は知らない)。
「大臣の意見が反映されないじゃないか」と批判する向きもあろうが、高度に政治的な(つまり重大な)問題に関しては、法律案作成以前に、その実質的な内容に関し大臣も含め各省庁を巻き込んだ調整が行われるのが通例だし、法律案の中には技術的な問題を主に扱うものも多いので、いちいち大臣が出張ってくる必要のない場合も多い。
A省とB省の調整を、そんな事務方が水面下でごにゃごにゃやらないで閣議の場で議論すればいいじゃないか、という向きもあろう。しかし、繰り返すが大臣は専門家ではなく、たとえ坂口厚生労働大臣のように専門家(医者)であっても、厚生労働省の幅広い所管(労働安全、麻薬取締、職業安定、年金等々)のすべてについて専門家であることはあり得ない。閣議で議論といったって、時間もないことだし、事務方が用意したペーパーを読み上げて、後は事務方に詰めさせましょうということになるだけだ(全大臣が15年ぐらいその役所にいれば実質的議論もできようが、民主党政権下においてこのような超長期間在任させるという主張は聞いたことがないし、寄り合い所帯の民主党でそれができるとは思えない)。
このように見てくると、民主党の「事務次官等会議をなくし、脱官僚を」との主張が空論であることがわかるだろう。事務次官等会議をなくしたところで脱官僚が達成されるわけではないのだ。
こういう事態を当然民主党は知っている。岡田克也だって元官僚だし、その他官僚出身議員がたくさんいる。菅直人だって厚生大臣をやっていたんだから知っているだろう。しかしそれでもあえて前面に押し出し主張するということは、国民をだまくらかそうとしているということだ。政権取りの前には無意味な「脱官僚」を押しだし、まかり間違って政権を取ってしまった暁には事務次官等会議を廃止して「脱官僚」が達成されたかのように。しかし実質的な意思決定システムに変更がなければ、看板の書き換えに過ぎない。まるで民主党が看板の掛け替えと批判する特殊法人改革のように。
民主党が本気で脱官僚を図りたければ、もっと根本的に物事を考える必要があるのではないか。それこそ各省庁各局に「政治委員」として民主党員を貼り付けるとか(笑)。物事を突き詰めて考えていない感じが、私をして民主党に対する不信感を抱かせるのである。
(なお、各省協議については、法案の説明に来たA省担当者をB省の人間が十数人でつるし上げとか、意見に先立って「質問」を何百個も送る「紙爆弾」とか、恐ろしい風習が霞が関には存在するが、省略した。)
霞ヶ関官僚日記
(私のコメント)
1月29日の日記で中村敦夫参議院議員の講演を紹介しましたが、そこにおいても次のように指摘しています。
実質的に。どこで決まっているかというとその前の次官会
議なんですね。事務次官会議。要するに各省庁のトップ達がお互いの利益を調整し
ながら、全部こう決めているわけですよ。それを内閣にあげると閣議というのは朝
みんな並んで座って、ニコニコしているあれですね。あれでもう何の検討もなくO
Kなんです。判子を押しちゃうわけです。これが閣議なんです。だから形は閣議決
定なんです。
ところが霞ヶ関の官僚によれば事務次官会議も単なる承認機関らしい。実際には担当課長や所轄局長が立案から各省庁間のすり合わせなど全部やっている。これが「ボトムアップシステム」と呼ばれるものだ。だから事務次官会議を廃止したところで政治家主導の政治が行われるわけではない。日本の政治は大臣の関与できない官僚組織の闇の中で全てが運用されている。
大臣は官僚が書いたメモを読み上げるだけであり、中にはメモの漢字すら読めずに振り仮名が振ってあるそうです。このような状況では大臣に人事権もなければ政策決定権もないのは当然なのかもしれない。首相は大臣に政策を丸投げし、大臣は官僚たちに運用を丸投げする。権限は果てしなく分散し、いったい誰が日本の政治を行っているのか分からない状態になる。
だから民主的政治が行われているのかと言えるのか。我々が選挙で選んだ国会議員も自らが法律を作ることはほとんどなく、国会の議決も党議拘束で議員個人の意見が反映されず、いったい誰が政策決定を行っているのか分からない。総理大臣すら官僚の書いたメモを読みながら答弁し、粛々と国会運営が行われている。
これで、はたして民主主義が機能しているのかといえるのか。これでは官僚たちに都合の良い政治しか行われなくなり、官僚たちは天下りなどによって特権階級を形成してゆく。これに対して小泉内閣は有効な手を打つことが出来ない。公社公団を民営化すれば無限に数を増やし、給与も好きなだけお手盛り出来るようになるだけだ。むしろやるべき事は不必要な公社公団を廃止することだ。
現状のボトムアップ方式の政策決定は、無能な大臣や首相がなっても影響がないように作られた制度だ。企業にしても大型化して安定した企業はほとんどがボトムアップ型経営になる。企業幹部は年功序列で偉くなり、組織への忠誠心が出世のための切り札になる。だから社会常識に反したことも、会社のためにという理由で社員達は一生懸命不正行為を行うようになる。
官僚たちも同じであり、省の利益を守るために国家利益に反したことも行おうとする。それを止めさせるために大臣が省を監督すべきなのですが、それが出来ない。大臣は一存では官僚をクビにしたり左遷させたりは出来ない。本来は出来るはずですが大臣が無能なために出来ない。かえって官僚たちは無能な大臣のほうがやりやすいと感じていることだろう。
小泉首相への支持率が50%を超えていることは不思議でならない。その理由の多くが自民党内には他に人材がいないからという理由が最も多い。日本の政治が無能でも首相や大臣が務まる時代が長い事続いたせいで、人材がいなくなってしまい世襲政治家や利権政治家ばかりになってしまった。
そのために民間人を大臣に据えるようになり、国民の声がますます反映しづらい政権が出来ている。竹中金融大臣や川口外務大臣は国民世論に耳を傾ける必要がなく、もっぱらアメリカの奥の院ばかり目が向いてる。このように議院内閣制も空洞化しており、日本はいつまで経っても景気は回復せず、竹中大臣はメガバンクをもアメリカに売り飛ばすようだ。
このように日本は未だに議会制民主主義が機能しておらず、日本にあるのは行政組織だけなのだ。中村敦夫議員が指摘しているように三権は分立しておらず三位一体なのだ。小泉政権が憲法違反しても、それを弾劾すべき司法は違憲判決を出すわけがない。自民党議員ですらイラク派遣は違憲だと言っているのに、誰もが見て見ぬ振りをしている。自民党自体が官僚組織や大企業のように組織に忠誠を尽くすことが、国家の利益より優先する政党になってしまっている。
事務次官会議が日本の最高意思決定機関であるかのようなシステムは良くない。官僚が嫌がるような「やり手」の政治家を選ぶにはどうしたらよいのだろう。政治家と有権者とのパイプを太くしてゆくことが大切だ。さらにはマスコミの質も上げる必要がある。今まではマスコミが世論の代弁者であったが、最近はそうでもなくなり、世論とマスコミのズレを指摘するネットが登場してきた。「株式日記」もその一つだ。