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さらば立憲君主制 共和制への移行が日本を救う 改憲・創憲論議の肝となること 文人正【BUND-WebSite】
http://www.bund.org/opinion/1132-5.htm
2004-1-15
米占領政策としての天皇制維持
国際主義の障害となる天皇制
天皇制からの国民の自立
米占領政策としての天皇制維持
本紙1130、1131号でも明らかなように、山崎改憲私案では集団的自衛権の合法化がキイワードであり、それはアメリカへの限りない追随の道を掃き清めるだけのものであった。これに対して小沢私案は9条案件に関しては一定の論理性があるが、参議院の貴族院化や天皇元首化を主張する極めて保守色のつよいものである。両者に共通の根本的な欺瞞もある。改憲を言いながら共に天皇条項には触れていないことである。
両者とも9条が米占領軍による日本の武装解除を意図して作られたということを問題にしてはいる。しかし、米占領軍が占領の円滑化を図るため戦犯候補であった天皇を免責し、天皇制を意図的に存続させたことは問題としないという欺瞞のうえに成り立つのだ。9条の制定と天皇制の延命、それらは共に米占領政策のツールとして存在していた。それを知りながら、その一方だけしか問題としない改憲論なのだ。だからフェアーではない。フェアーでないということは、ジャスティス(正義・公正)の原理たる憲法としての資格に欠けるものといわざるをえないのである。小沢一郎流に言ったとしても、かりにも「普通の国家」を目指そうというのだったら、米占領政策によって生じた憲法の歪みは全般にわたって是正されるべきだろう。「司法取引」のような措置によって延命させられた戦争犯罪者を、その冒頭に冠するような憲法は、決して「普通の国家」にふさわしいものとはいえないではないか。
改めて言うまでもなく、昭和天皇はマッカーサーによって政治的に免責された。極東裁判ではオーストラリア、中国、ソ連、フィリピンなどは天皇の戦争責任追及を主張していた。だがこうした主張は、みなマッカーサーによって封じ込められた。逆に鵜沢聡明を団長とする日本側弁護団の「天皇には責任は及ぼさない」という方針が通っていったのだ。ウェブ裁判長は「天皇が進言に基づいて行動したとしても、それは彼がそうすることを適当と認めたからである。それは彼の責任を制限するものではなかった。大臣の進言にしたがって国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲的君主でも許されるものではない」と語り、天皇の戦争責任について言及する姿勢を見せた。そのうえで、天皇の免責が「すべての連合国の最善の利益のために決定された」と、司法判断を政治判断にゆだねる立場をとったのである。米占領軍の意志を体現したアメリカ人のキーナン代表検察官にいたっては、天皇を訴追さえしなかった。これだけ見ても天皇の免責は公正な事実に基づくものではなく、占領政策の一環としてなされた政治的取引だったことは明らかだ。極東裁判はあくまでも勝者の裁きでしかなく、占領政策の一環としてあった儀式だったのである。
根底にあったのは、マッカーサーの「天皇は20個師団にあたり、天皇を極東軍事裁判に起訴すれば、最小限100個師団の長期駐留が必要になる」という打算的な判断だった。彼は天皇による日本国民への影響力と統合力を読み取っており、これを占領政策に徹底的に利用しようとした。天皇ヒロヒトも自己の延命のためにそれに応じ、それまでの「反鬼畜米英」の象徴は、あっというまに「親米」の象徴へと180度転換したのである。有名なマッカーサーと並んで写された天皇の写真は、まさにその証左として全世界にバラまかれた。
現憲法を占領軍憲法として批判する山崎拓も小沢一郎も、こうした占領政策によって曖昧化された天皇の戦争責任問題については、決着をつけるという志さえ示していない。これを回避して、改定憲法でも天皇を逆に日本の元首としてまつりあげようというのでは、改憲する意味などまったくないと言わざるをえないのだ。
国際主義の障害となる天皇制
他にも、改憲わけても9条改定は、天皇条項の見直しとセットでなければならない大きな理由がある。天皇制を保持したままで軍隊の合法化をおこなった場合、「天皇の軍隊」に侵略・蹂躙された過去を持つアジアの隣国に脅威を与えるだけのものにしかならないからだ。それでは、日本の改憲が周辺各国から大きな反発を呼ぶことは必至だ。日本はアジアで孤立し、それ以降のアジア外交に支障をきたすことは目に見えている。
日本の支配者はそこまでして天皇制を守りたいのか。ならば近隣諸国に脅威を与える9条改憲などせず、世界に通用する一流の国家になることなど考えなければいい。天皇というローカルな神を戴く、アジアのローカルな国家としてしみじみとやっていけばいい。だが改憲して軍を合法化し、自主憲法を制定したいという欲求もおさえられない。ここに山崎や小沢のかかげる改憲論の根本的な矛盾が存在するのだ。世襲のエンペラーを象徴とすることをやめ、真に民主主義的な共和国として自らを再建する以外に、日本がアジアに受けいれられる道はない。いかに「政教分離」とはいっても、天皇がナショナルな神話を背後に持っている以上、天皇条項の存在は宗教的・民族的排他性から切り離せないからだ。しかし日本の支配層は、天皇条項はタブーであるとおそれおののいて手をつけられないのである。ここに彼等の改憲論の根本的な矛盾がある。それでは、いかに自衛隊を軍隊でないといっても誰にも理解されないのと同じく、非論理的なことこのうえない。世襲制の人権なきエンペラーの存在は、国際的常識を欠いた反民主主義の象徴ではないか。だからこそ近隣から見れば、日本は強大な軍隊を持ち、天皇を頂点とする「菊と刀」の国家にしかうつらないのである。日本が独りよがりの幼児性から国際的に一人前の国家に昇格できるか否かは、軍隊というハードウェアーではなく、それを支えるソフトの内容にこそかかっている。その肝が天皇条項の廃止なのだ。
山崎改憲私案や小沢改憲私案にしても、ともに持ち上げるのが憲法前文における「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と記された、いわゆる国際主義の内容である。確かに国際主義は今後の日本の進路を考える上で、極めて重要な指針となるものだ。だが「国際社会」なるものがアプリオリにあるわけではない。アジアの近隣諸国の間で「名誉ある地位」を占めることぬきに「国際社会」云々を語ってもそれは絵空事だ。国際貢献を果たそうと言って9条を改定しても、逆にアジア的な孤立を招いたら意味がないではないか。それでは国際貢献どころか国際的孤立への道でしかない。
9条の改定はアジア諸国への最大限の配慮ぬきにはありえないのである。これまで日本がアジアで外交的イニシアティブを発揮しようとしても、常に戦争責任問題が立ちはだかり、これを打開しようとしても「天皇」という存在によって行き詰まってきた。天皇制廃止こそがそうした歴史を大きく転回させ、積極的なアジア外交の開始を告げる転換点となる。とりわけそれは、日本が単独行動主義に走るアメリカの追随から脱却し、自立した道を歩もうと考えたときに決定的に問われてくる。
日本は貿易立国でしか生きる道はなく、海外への依存なしでは存続できない。日本の政治・軍事的なアメリカ依存は、実はアメリカへの経済的依存なのである。アメリカ追随からの脱却は、日本が他の経済圏へシフトすることぬきには語れない。そしてそれはアジア以外ではありえない。日本がEUの一国になるなんてことは不可能なのだ。アジアは21世紀急速な経済発展が見込まれている。同時に21世紀は資源の枯渇と人口問題、環境危機がいっきに押し寄せることも予想されている。そうした中で先進国としてすでに危機を経験した日本は、解決の方途を模索しているアジアが全体として環境立国すべきことを訴え、そこでイニシアティブを発揮して「名誉ある地位を占め」ていく以外ない。
われわれは護憲論者には、天皇条項も護憲なのかとあらためて聞きたい。9条は天皇制の護持とセットでつくられた。社会主義とか共産主義を言う人が、護憲だ天皇制を守れと主張しているのは、われわれには不思議でならない。
天皇制からの国民の自立
先にものべたように、天皇制が今日まで残ってしまったことの根拠は、マッカーサーが政治的に延命させたことにある。その背後には、明治以来の天皇制国家教育をうけてきた終戦直後の日本人が、天皇から自立するすべを持たなかったという問題がある。国民が天皇制の存続を欲したという事実はたしかにあるのだ。それがなかったらマッカーサーは天皇制を残さなかっただろう。マッカーサーは天皇制の存続は後の統治で得策だと判断した。
それから半世紀以上が経過した。現在でも、国民はかつてのように天皇制を制度として必要としているのか。終戦直後、日本国民はまだ「現人神」天皇裕仁のマインドコントロールの下に存在していた。国民の統合が日本の再建にとって最大の課題だった時、このマインドコントロールは大いに利用価値があった。しかし、終戦直後と現在の国民のメンタリティを、同一のものとして考えることなどできない。60年近く経た今日、国民は象徴天皇制の下で、天皇制のマインドコントロールから解放されたのである。そこで国民世論が自衛隊の容認に傾き、9条の見直しが俎上に上ってきたように、天皇制に対する国民的意識も大きく変化してきたのだ。それをないものとし、小沢や山崎のように、9条をめぐる国民意識の変化だけを問題とするのは論理になっていないのだ。
変化の出発点は、戦後、天皇が「人間宣言」をおこない象徴天皇制になった時点から始まった。明治維新以降、敗戦に至るまで天皇の力が巨大でありえたのは、現人神たる天皇の超越性に依っていた。だが現人神から人間宣言をすることで、その超越性はいっきに消失していった。天皇はその宗教性をはぎ取られることによって、文化的にも自らの居場所を失ってしまったのだ。その復権の決起が、例えば三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷基地での自決決起だった。それを横目で見ながら天皇制はますます風化していったのだ。
そもそも天皇とは、『古事記』や『日本書紀』など日本神話の中で位置づけられて、初めてその超越的価値を持つ存在だが、それらの書物は明治の元老たちが徳川家にかわる国民統合策としてフィードバックさせたものだ。平安末期以来途絶えていた物語を復活させたのである。そしてこの物語はアメリカの2発の原爆投下により終わった。そのとき天皇家は超越的な世界から、民衆の世俗的世界に自らの基礎をシフトすることによって、姿を変えて延命しようとした。これを松下圭一は天皇の正統性の根拠付けが「皇祖皇宗」から「大衆同意」へ変化し、天皇は「現人神」から「スター」へと変貌したと表現した。天皇は「大衆ことに小市民層の日常的欲求の理想とならなければならない。それはなによりも、『幸福な家庭』である」(『大衆天皇制論』1959年)と、姿を変えねばならなくなったのだ。このような変化は、戦後農村人口が減少し、天皇制の基盤となった農村共同体が解体し、都市人口が増大していく中でますます加速していく以外なかった。象徴天皇制の核心は「幸福な家庭」を演じることなのである。
松下と同様のことを井崎正敏は著書『天皇と日本人の課題』でこう書いている。
「このスターは家庭人として望まれる『善』をすべて体現し、公人として期待される『善』をすべて実践し、スターにつきものの『悪』もスキャンダルも引き寄せてはならない」
なんと酷薄な境遇に置かれた「スター」だろうか。世俗のスターであるならば、いかに「聖なる」キャラクターを引き受けていようが、それはプライベートな日常での世俗的享楽によって補われている。天皇はそれさえもが許されないようなスターなのだ。
「皇室は国民的な欲望を一方的に投影されたまま、その映像に閉じこめられ、期待されるしぐさを繰り返さなければならない」(同書)
そもそも天皇には憲法で保障された基本的人権が適応されず、プライバシーが完全に剥奪されている。まさにそのことに象徴天皇制を護持する無理があるのだ。
皇室の側がこの役割からドロップアウトすることがあれば、それでおわるということである。人間である以上、誰もロボットのかわりをつとめることはできない。一方的に投影される国民の欲求の集約点は「幸福な家庭」。だが9条改定は戦争国家の道。それは両立できないのである。だから小沢や山崎の掃き清める道で、天皇制は意外に脆く崩壊する可能性がある。なんとも矛盾した話だ。彼等はまさに「君側の奸」ではないか。
人間宣言をした以上結局皇室は憲法規定から解放され、自らの意思で文化遺産として存続する以外ないのである。そのような状態を井崎は「国民の元服」と呼ぶのだが、まさに的確な表現だ。国家として日本が自立するためには、だからまず政治家が天皇から自立しなくてはならない。しかるに小沢も山崎も、その改憲論には天皇からの自立がないのだ。パラドックスなのだ。
このままでいけば、天皇は国民の「聖なる」玩具と化していくばかりではないか。アキヒト家は人権も与えられずに、ただ国民の欲望のままに「聖なる」演技を続けなくてはならない。実はそれは女性週刊誌の不幸・不倫ものの記事とセットで登場する。まさに日常生活の慰みものぐらいの位置しか持たなくなっているのに、天皇主義者はそれでよいのか。その背後にある神話などほとんど知るものはいない。象徴天皇制は本来の居場所だった神話的世界から天皇を追い出してしまったことにより、自らを陳腐化させたのだ。
そこから言っても、象徴天皇制は廃止すべきだ。皇室の存続を今でも大切だと考える人々は、国家制度や税金を当てにせず、民間の力で神道を純粋に存続させるなかで天皇家を守ればよい。この歪みきった制度をこれ以上続けることは、国民にとっても、皇室にとっても、伝統文化にとっても、そして将来の日本の進路にとっても不幸なことなのである。
日本は共和国になるべきであり、そのためにこそ改憲されるべきなのだ。国家元首は公選された首相であり、大統領制に近づいていけばよい。
「幸福な家庭」のシンボルをかかげ、戦地に赴く兵士のことを考えて見よ。自分の家庭はかえりみず、天皇の家庭を守るために戦うのか。そんな欺瞞には兵士は堪えられないだろう。普通の国家への道はだから人権の全ての人間への適用のうちにのみある。人間天皇に基本的人権を与え、世襲を廃止せよ。そうなれば国家元首は選挙で選ばれた人がなる。それこそまさに民主主義国家だ。