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(回答先: Re: 対新潮社 糸山氏の主張【追補二件】〜創価学会が関連してるように思われます。 投稿者 国破山河在 日時 2004 年 1 月 17 日 03:13:25)
(2001/9/9) 糸山英太郎vs近藤信男
(前編)
1973年に糸山英太郎の書いた「怪物商法」がベストセラーになります。
私も、直ぐに買って、むさぼるように読みましたが、今は絶版のこの本を残念ながら紛失してしまいました。
あいまいな記憶をネットでの調査で補強して、彼のことを書くと・・・・
糸山英太郎は、1942年に生まれました。
彼の父親は、ゴルフ場の経営者(新日本観光のオーナー)として名高い、大富豪の佐々木真太郎氏です。
姓が異なっていることからも想像できますが、父と子は確執があり18歳の時に勘当されます。
やがて、父と和解し、糸山は父の会社に入社します。
キャディーからやらされたそうです。
そして、結婚が彼に更なるパワーを与えます。
彼の妻、桃子は、日本船舶振興会(現日本財団)を支配する笹川一族の娘です。笹川一族は、競艇の収益金を各団体に配ることで強大な権力を握っています。
さて、糸山が、株式市場で鮮烈なデビューを遂げたのは、1971年のニクソン・ショックの直後のことだったと思います。
舞台となったのは、中山製鋼所・・・
資本金10億円、発行株数2000万株の過小資本の会社です。
若干29歳の糸山英太郎が、この株を買い始めたのです。
株価は、どんどん暴騰して、同年8月末には1100円に達します。
いくら含み資産が多いといっても高過ぎます。
中山製鋼所の異常な高値をじっと観察していた、老獪な大相場師がいました。
彼の名は近藤信男。
彼は、名古屋の近藤紡績所の社長ですが、戦前から今日まで、株、綿糸、小豆など、あらゆる相場に命を賭けて、勝ち残ってきた男です。
◆◆彼は、罫線を書き込みながら、◆◆
◆◆豊富な資金力で、中山製鋼所を売り崩すことを決意します。◆◆
◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆
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(2001/9/10) 糸山英太郎vs近藤信男
(後編)
当時の糸山の資金量は30〜40億円程度です。
資産2000億円といわれる近藤紡にとっては、敵ではありません。
幕下力士が、横綱に挑むようなものです。
たちまち売り崩され、糸山は窮地に立ちます。
しかし、彼には華麗なる閨閥がついています。
糸山は、実父・佐々木真太郎と笹川良一に泣きつきます。
「俺の名前をかたって、株を買うな」と笹川良一は糸山に釘を刺さしながらも、救援資金を提供します。さて、笹川一族と佐々木真太郎が本腰をいれて、中山製鋼所を買いだします。
がっぷりよつに組んだ仕手戦が、繰り広げられます。
もともと、過小資本の会社。双方の資金が続く場合、買い方が有利です。
株価は、なんと3800円に達します。
逆日歩がつきます。
近藤は、膨大な金利を支払わなければなりません。
出来高がほとんど枯れた状態で買い戻したら、株価は暴騰します。とても、買い戻すことができません。
さすが、百戦錬磨の近藤信男。打開策を見つけます。
人脈を駆使して、証券取引所を動かして、解け合いに持ち込みます。
30億円の損害でした。
この勝負は、近藤紡の最後の仕手戦でした。
若造相手に有終の美を飾れず、さぞかし無念だったでしょう。
この仕手戦がテーマとなった「怪物商法」がベストセラーになった年、近藤信男は癌で亡くなります。
買い方も、勝負には勝ったものの、膨大な持ち株の処分に困り、あまり儲からなかったといわれています。
仕手戦で糸山の名を売り、ベストセラーを書いたことには、別の目的があったのかもしれません。
1974年7月 糸山英太郎は、参議院全国区に最年少で当選し、政治家への道を歩みだします。
◆◆糸山は、政治家は廃業しましたが、投資活動の方は相変わらずで、◆◆
◆◆最近では、日本航空の個人筆頭株主となり話題になりました。◆◆
http://members.at.infoseek.co.jp/J_Coffee/retsuden4.html#itoyama