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その昔、僧侶は医者であり学者であり教育者でありマスコミ(情報発信
者)であった。大戦中、陸軍軍人より海軍軍人のほうが開明だったと聞く。
外の世界の情報に接する機会が多いからである。今、情報に多く接する者
と言えばインターネットをやる人々だろう。
阿修羅の場合他の板からIT板にたどり着く人の方が、IT板→他の板
のパターンよりも圧倒的に多いとは思う。しかし、技術馬鹿になりたくな
い人は、下記のような記事を読むことはとても有益だろう。今現在、自分
たちがどういう世界に生きているかを意識することは、セキュリティにつ
いて考える時などとても大事なことだと思うからである。どういう世界に
生き、さらに外の世界への問題意識を持つかどうかで、同じセキュリティ
情報に接するにしても、気づきも理解の深さも全然違ってくるはずである。
これは、小生自身の体験と実感である。
イラク駐留各国軍の危機【田中 宇の国際ニュース解説】
http://www.tanakanews.com/e0420iraq.htm
2004年4月20日 田中 宇
4月20日、スペインの新首相がイラクに駐留する自国軍を急いで撤退すると発表したのを知ったとき、私が思ったのは「撤退は間に合うだろうか」ということだった。スペイン軍が駐留しているのは、シーア派イスラム教徒にとって最も大事な聖地であるナジャフで、そこでは今にも米軍が市内に突入しそうな状況になっている。
米軍がナジャフに突入すると、これまで米軍統治に対して忍従の態度をとってきたシーア派の人々の堪忍袋の緒が切れ、シーア派が住むイラク中部・南部の各地で反米決起が起きる可能性が高い。シーア派の最高指導者であるシスターニ師(システーニ師)は、米軍がナジャフに突入したら、アメリカとシーア派の友好関係は終わると示唆している。(関連記事)
これまでのところ、シーア派の中でも反米色を明確に打ち出しているのは過激派のサドル師とその支持者だけで、米軍はサドル派を潰すためにナジャフ突入の構えを取り、シスターニ師ら穏健な多数派は、米軍とサドル派の両方に停戦と交渉を求めている。米軍が強硬姿勢を変えないため、交渉は何度か挫折し、一触即発の情勢が数日間続いている。イギリスの上層部からも、米軍の強硬姿勢に対する批判が出ているが、アメリカ側は聞き入れていない。(関連記事)
シーア派の仲介者は、米軍が要求しているサドル師の殺人容疑での裁判を、7月にイラク人側に政権移譲がなされた後にイラクの法廷で行うという条件を出した。それに対して米軍は7月まで待てないとして即時逮捕を要求し、交渉が頓挫した。
サドルの殺人容疑とは、アブドル・ホーエイという親米派の聖職者が殺害された事件について、殺害を命じたのがサドルだったのではないか、という容疑だ。殺害の目撃証言があるもののあいまいで、イラク人の判事や弁護士からなるイラク法律家協会は、サドルに対する逮捕状は不法なものだと声明を出している。(関連記事)
イギリス当局は、サドルに対する追加容疑を探すため、サドルの逮捕状を書いたイラク人判事をロンドンに呼び、検討に入った。この動きは、フセイン政権を潰すことを目的として、フセインを悪者に仕立てるための大量破壊兵器開発などの容疑を後から考えたという、侵攻前の英米のプロセスと似ている。容疑の信憑性は二の次で、サドルを殺すのが目的だと感じられるが、サドルを殺したらシーア派の怒りが増すことは英米政府もよく知っているはずで、英米は戦争を故意に泥沼化したいのではないかと感じられる。(関連記事)
米軍がナジャフに突入したら、ナジャフ郊外に駐屯するスペイン軍も、武装したシーア派市民との戦闘に参加せざるを得なくなり、多数の死者が出る。戦況の泥沼化をあおる英米の作戦に巻き込まれるのは馬鹿馬鹿しいので、スペインは6月末の「政権移譲」を待たず、急いで撤退することを決めたのだと思われる。撤退には6週間かかるとされ、その間にナジャフで戦闘が始まったら、スペイン軍は難しい判断を迫られる。(関連記事)
▼米軍がナジャフに突入したらイギリス軍も撤退?
米軍がナジャフに突入したら、占領軍に対する蜂起が、イラク中南部のシーア派諸都市に広がるだろう。ナジャフから150キロ離れた自衛隊の駐屯地サマワでも、イラク人の警察署や役所が武装市民に占拠されるといった蜂起がおこるかもしれない。
蜂起がおきても鎮圧すればいいという考えもあるかもしれないが、そうした強硬姿勢は非常に危険である。南部の町バスラに駐留するイギリス軍の司令官は、英紙テレグラフの取材に対し「バスラのシーア派住民の最高責任者であるサイード・ムサウィ師が占領軍はもう出て行ってくれと言い出したら、われわれは撤退して帰国せざるを得ないだろう」と語っている。
この司令官によると、聖職者が占領軍に撤退を要求したら、聖職者を指導者と仰いでいるバスラのシーア派市民15万人がイギリス軍の司令部に押しかけて撤退を求めるだろうが、そうした動きを軍事的に鎮圧することは不可能であり、一般市民を虐殺するわけにはいかないので、撤退するしかないだろうという。
イギリスでさえ撤退を余儀なくされる状況下で、日本が「自衛隊は絶対に撤退しない」と言い続けることは難しい。米軍がナジャフに突入したら、イラク中南部に駐留する各国の間に一気に撤退の機運が強まると予測される。
イラクでは、武装市民と占領軍との戦闘が続き、状況はますます悪くなっている。4月17日には、米軍はバグダッドから南に向かう高速道路の無期限の閉鎖を発表した。バグダッドから西にヨルダン国境に向かう高速道路は、途中のファルージャでの戦闘激化を受け、すでに3月末から閉鎖されており、バグダッドから出入りする交通は麻痺している。(関連記事)
米軍は、近くアメリカに引きあげるはずだった2万人の兵士の帰国を3カ月延期して兵力不足に対応しているが、それでも幹線道路を守れず、道路を閉鎖せざるを得ない状態になっている。すでに、かなり広範囲な武装市民の蜂起がおきていることがうかがえる。
▼「1920年を思い出せ」
イギリスのブレア首相やアメリカのラムズフェルド国防長官らは「イラク人の抵抗がこれほど強いとは思わなかった」という趣旨の発言をしているが、この手の発言はたぶんウソである。今年の初めには、イラク人が米軍の占領体制に対して強い怒りを持ち、忍従の態度をとってきたシーア派が占領態勢に絶望し、反米決起をしそうな兆候がいくつもあった。英米がそれに気づかなかったはずはない。(関連記事)
今年1月には、バグダッドなどのイラク人社会で「1920年のような暴動が起きる」という意識が強まり、シスターニ師は「1920年を思い出せ」というメッセージを地元の新聞に出した。「1920革命隊」などという武装市民組織も結成された。(関連記事)
1920年というのは、第一次大戦でイギリスが当時のイラクを統治していたオスマントルコ帝国軍を追い出し、イラクを独立させるといってイギリス軍を駐留させつつ傀儡統治を開始したところ、数カ月後に大規模な反英暴動が起こった年である。
反英暴動は、イギリスが国際連盟からイラクの信託統治の許可を取り付け、イラク人の有力者たちを集めて民意を尋ねるという「民主主義」的な行為を行った後で起きた。暴動は、ナジャフを中心とするシーア派と、ファルージャを中心とするスンニ派の両方で起こり、最初は部族ごと、宗派ごとに蜂起していたものが、やがてシーア・スンニを横断する全イラク的な反英ナショナリズム運動となった。1920年の蜂起は、イラクの歴史教科書に英雄的な民族自決闘争として書かれており、イラク人の大半が知っている歴史である。
イギリスはこの蜂起の後、「アラブ統一運動」をイギリスの傘下で行っていた聖地メッカの知事フセインの息子ファイサルをイラクの国王に据え、イギリスの傀儡ながら立憲君主体制を作ることでイラク人の民族意識を吸収し、何とか安定化した。その後イギリス軍は1955年まで35年間、イラクに駐留していた。(関連記事)
今回のイラク人の蜂起は、1920年の蜂起とよく似た点がいくつかある。ナジャフとファルージャが蜂起の中核になっている点や、英米軍の側が不必要にイラク人を怒らせている点、イラク人が鉄道や高速道路といった占領軍の交通網を襲撃している点などである。1920年のような蜂起を再発させようとしたイラク人の動きは、遅くとも今年の初めには英米にも感じられていたはずだ。
1920年の蜂起から分かる教訓は、イラク統治が国連の手に委ねられたとしても、またイラクで選挙が行われたとしても、それが表向きだけの手続きで、その後も米軍による傀儡政治が続くのなら、今年7月の「政権移譲」後もイラクで反米蜂起が起きる可能性は十分あるということだ。
▼ロンドンで行われたシーア派決起促進会議
3月13−14日には、ロンドンにイスラム過激派の各派が集まって会議を開き、イラクのシーア派に反米決起をうながし、シーア派とスンニ派の対立を乗り越えて反米闘争を作っていくことについて話し合っている。この会議にはヨーロッパ各地から代表が集まった。(関連記事)
当時は3月11日のマドリッドの列車爆破テロの直後で、ヨーロッパ各国の治安当局は域内のイスラム教徒の動きに目を光らせていたはずで、ロンドンに各派が集まったことは、イギリスのMI6などの公安関係者が知らなかったはずがない。むしろ英米は、ロンドンの会議などからシーア派が決起しそうだという状況を知りつつ、サドル派の新聞を潰したり、サドル師を逮捕しようとして、決起を煽った感がある。
以前の記事にも書いたが、米軍は占領当初からイラク人をわざと怒らせようとする言動を続けており、1年かけてその「成果」が実り、イラク各地で決起が起きたとすら考えられる。
▼国連は弱い
イラク人の蜂起を受け、英米は国連に仲裁を頼んだが、国連による政権移譲が成功する可能性は低い。4月18日にバグダッドで記者会見した国連のブラヒミ代表は、米軍と米占領軍政府(CPA)がイラクの状況を故意に悪化させているとアメリカを非難した。米軍は逮捕状なしにイラク人を多数拘束し、拷問して殺してしまうこともよくある、とブラヒミは指摘した。
また、米軍がファルージャで一般市民を多数殺害したのは犯罪行為であり、サドル師に対する逮捕要求も不当なもので、アメリカはイラクで「民主化」とは正反対のことばかりやっていると述べている。そう指摘した上でブラヒミは、米軍はなるべく早くイラクから出て行くのが望ましく、その後国連が入ってアメリカが滅茶苦茶にしたイラクを立て直すのが良い、と言っている。ブラヒミ国連代表のアメリカ批判は、アメリカや日本のマスコミではほとんど報じられていない。(関連記事)
ブラヒミは、イラク人への政権移譲のやり方について、アメリカが任命した傀儡的なイラク暫定評議会(IGC)を解散し、大統領や首相のポストを先に決める方法を提案することで「米占領政府が進めていたを白紙に戻した」と報じられている。(関連記事)
だが、このブラヒミ案と同じ案が、すでに先月からアメリカ側で出ており、私も先々週の記事で紹介した。ブラヒミ案は、誰が首相になるかまでを決めてはいないが、アメリカのネオコンの1人だったアハマド・チャラビが首相になるのなら、ブラヒミ案は国防総省のネオコンが考えた案と全く同じである。
(すでに、チャラビの甥であるアリ・アラウィが、7月以降のイラク人暫定政権の国防大臣になることがCPAによって内定している)(関連記事)
国連代表は、口頭でアメリカを批判するだけで、実際のところはアメリカの傀儡として動かざるを得ない状況なのかもしれない。最近では、チャラビ自身、イラク人の歓心を買って首相になる作戦なのか、アメリカのイラク統治を批判する発言を繰り返しており、あちこちで欺きの構図が展開している感がある。
▼「政権移譲」は言葉だけ
ブッシュ大統領は4月20日、イラク人に政権移譲した後の駐イラク大使(ブレマーCPA長官の事実上の後任)に、今は国連大使をしているジョン・ネグロポンテを任命した。彼は1980年代のレーガン政権時代に中央アメリカのホンジュラスなどで反米的な革新勢力を抹殺する「汚い戦争」を展開し、1986年のイラン・コントラ事件でも起訴された「秘密の戦争」の戦士であり、ネオコン系の人物である。(「復権する秘密戦争の司令官たち」)
今年7月以降、イラク人に政権移譲がなされた後も、米軍は少なくとも2006年まではイラクに駐留し、CPAの代わりにバグダッドのアメリカ大使館がイラク統治を裏から動かす存在になる。バグダッドのアメリカ大使館にネグロポンテが座り、イラク人の政府側にチャラビが首相として座ることで、政権移譲がなされた後のイラクをネオコンが支配する構造ができあがる。半面、中道派が押してきた国連は、イラクでは非常に弱い力しか持っていないことがうかがえる。
(中道派は、中東以外の国際問題、たとえば北朝鮮やミャンマーの問題などに関しては、タカ派よりも力を持っているが、イラクとパレスチナに関してはタカ派主導の展開が続いている)
6月末の「政権移譲」は、もし平和裏に実現したとしても、組織図の紙の上での変化だけで、実際にはイラク人に政権が移譲されるわけではない。むしろ「アメリカの傀儡」と呼ばれている24人のイラク人による暫定評議会が潰されずに残った方が、イラク国民の声が反映されるかもしれない。私たちは「政権移譲」という言葉に騙されている可能性がある。
イラク占領を主導するアメリカのタカ派・ネオコンは、ファルージャやナジャフで挑発を行ってイラク人に戦争を仕掛ける軍事戦略と、ネグロポンテやチャラビらによる政治戦略(たとえば、クルド人に拒否権を持たせることで多数派のシーア派が民主的に権力を獲得することを防ぐとか)という硬軟2面の戦略を持ち、両方を使い分けながら、今後もイラク情勢の改善を阻んでいくと予想される。
アメリカがイラクを安定化させようと思ったら、シスターニ師や国連が言う通りにやればよく、今から改心しても遅すぎず、大して難しいことではない。イラク人の大半は安定を望んでいるのだから、むしろ不安定化する方が難しい。アメリカは、その難しい方の「わざとイラク人を怒らせる」という作戦をやっている。それは、開戦前からイラク情勢をウォッチし続けている私が開戦直後から感じていることだ。(関連記事)
▼アメリカは自滅したい?
疑問なのは、なぜタカ派・ネオコンはイラクの泥沼化の永続を望むのか、ということだ。この疑問に対する納得いく答えは見つかっていないが、可能性がありそうなのは「イスラム世界の人々を怒らせてテロ戦争を永続化し、軍産複合体によるアメリカ支配をなるべく長く続ける」という戦略との関係である。戦争状態を永続化したいという意思は、イラクだけでなく、アフガニスタンやパレスチナに対するアメリカの戦略からも感じられる。
(石油利権説や、イスラエルによるアメリカ支配説もあるが、いずれも、現実に起きていることとは食い違っている)
もう一つの可能性は「単独覇権主義」との関係である。米のジャーナリスト、ボブ・ウッドワードが最近出版して話題になっている「Plan of Attack」という本の中に、イラク侵攻が近づいた2003年1月、国連決議を経てから侵攻したいブレア首相に対し、ブッシュ大統領が「イギリスは国連決議がないと参戦できないのなら、アメリカ単独での侵攻でもいい」と言い、イギリス軍の参加は必ずしも必要ないという態度を示したことが書いてある。(関連記事)
アメリカのタカ派は、国連やイギリス、日本といった「同盟国」の協力など本質的に必要としておらず、むしろ既存の同盟関係を捨てて単独で世界に対する戦争を続けて行きたいという「単独覇権」の意思を持っていることがうかがえる。アメリカ中枢では「単独覇権」と「国際協調主義」が対立しているように見えるが、今回イラク戦争が泥沼化して米軍が弱体化していることと単独覇権主義を結びつけて考えると、2つの主義は似たものに見えてくる。
つまり、単独覇権主義を極限まで押し進めていくと、アメリカ単独で戦争の泥沼化にはまり込んで自滅的に弱体化し、その分EUやロシアや中国といった、他の覇権国の力が相対的に強まることによって、結局のところ国際協調主義が実現されていく、ということだ。単独覇権主義者のように見えるネオコンは、実は国際協調主義者の「別働隊」だったのではないか、という仮説である。
ネオコンの多くは、協調主義者(中道派)の牙城だった政府系シンクタンク「外交評議会」の出身であり、ネオコンと中道派が本当に対立してきたのかどうか、疑問がある。両者の対立はアメリカの分析者の間でよく指摘されてきたが、対立しているふりをしているだけではないかとも感じる。
冷戦後のアメリカの知識界では「世界を強制的に民主化する」「不正義に対して甘い欧州やアジアなどとは組まず、単独で正義を実現する」といった単独覇権主義の考え方が蔓延していた。その一方で、実際の外交戦略としては国際協調主義が効率的であるため、外交戦略を練る知識界と、現実の外交に携わる人々との間で矛盾が強まっていた。
こうした矛盾の果てに、ブッシュ政権の中枢に入り込んだのがネオコンだったわけだが、彼らは明らかにアメリカの軍事力と国際信用力を膨大に浪費しており、そのことから考えて、ネオコンは単独覇権主義者の皮をかぶった国際協調主義者かもしれない、と感じられる。
毎日イラクで殺されている人々は、アメリカの矛盾の犠牲者といえるが、問題なのはアメリカがいくら単独で自滅したくて常軌を逸した行動をしても、世界の他の国々の多くは、まだアメリカに対し、世界を安定させる役割を期待し続けていることだ。たとえば日本や韓国などは、自国の為替の安定のために米国債を買い続け、アメリカが無限に軍事費を拡大できる状態を作っている。これでは、アメリカは自滅したくてもできない。
ブレアのように、ブッシュから断られても参戦したがる人もいる。ブレアはアメリカに対し、国際協調主義の方が良いと説得して改心してもらおうとしているようだが、これはむしろ常軌を逸したアメリカを、より長く延命させることにつながりかねない。世界が最終的にアメリカを見放すまで、ネオコンのアメリカは、イラク人やその他の人々を殺し続けるだろう。