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(回答先: どなたか、竹中半兵衛さんに「投稿態度」のあり方について説明してください。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 16 日 17:50:21)
共同の行為である「議論」を成立させるためには、基盤的な方法についての注意意識を、相互に持たなければならない。
その時、注意対象となるのはおそらく二つ。
1.共同の行為として、使う論理の次元を合わせること。あるいは、相手の使っている次元を理解し、接続なり拒否なり、
相手の論理の理解の上で対応出来るように配慮する事。
議論の場を成立させる原理を自覚する事。
2.感情の動物でもある人間の自尊心(面子)を不用意に害するような事は、可能なら避ける事。
罵倒ではなく、議論を成り立たせようとして始めるのである以上優先するのは「1」である。
それが出来ない、理解できない、逃避している、すり替えている…こういう相手とは、合意が出来る出来ないに関わらず議論が
そもそも成立しない。
最悪なのは、理解できていない事が理解できないか、それを誤魔化している人間である。
これに該当しつつ心情を至上“原理”とする者が政治という力の現場に入る時、注意すべき事がある。
自覚があるか無いかは別に、心情を至上“原理”として他者に影響を及ぼそうとする者は、一旦政治等強度の力の場で、権力を
行使できる立場になったとき、無残な災厄を呼び込み、引き起こす可能性が高い。(歴史を見ればよい)
これは政治に限らない。社会行為として経営でも同じ。右翼左翼、関係無い。
彼らによる災厄が招かれないうちに、吾が身を含む共同の身の受苦可能性を背に指摘し、必要なら糾弾する。
共同の身の受苦の可能性をダシに詭弁を振るうものは、その内実を生体解剖的にさらす事でもって共同の教材とするしかない。
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そのように解す。
覚有情とせば、鬼の如し。
相手を越えた相手が、鬼すら越えた酷薄無残の心の見えがたき群であれば、対峙するに鬼すら仏のごとし。
鬼、鬼一人がために鬼神の如く語り、なお共同の場には仏の如し。
諸衆に願う“鬼脳鬼手仏心”。
偽仏でもよい、仏の如き歌のみ歌いたければ場を自覚せよ。
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昨夜はライブ。渦巻き追いかける倍音奏法の中で、喜ばしきひと時のセッションの協働の場に身をひたす。
ああ、上に書いた論理なんて、この音楽の場にともにある喜びに比べれば馬鹿馬鹿しい。
時に振り切って遊ぼう!