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(回答先: Re: サムライねたの妄想です。 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 1 月 22 日 21:44:11)
ということを最初に言ったのは、夏目漱石だと思います。
下記のような内容の文章は、ゼンゼン古くなっていない。
このような目線をもって見ているのは、古くはグラバー、新しくは多くのCIA分析官だけではなく、来日するイギリス人のほとんどに共通したことでしょう。一方で、日本人は、他国の人をそのような目で観察した経験もないので、自分がそのような目で観察されている、ということさえにも気付けません。
あれこれと本で身に付けた知識で事象を眺めるのではなく、まずは「じっと物事を観察すること」から始めないと、彼らの「騙し」を見破ることは難しい。
理科の実験を例にとると、「今日は、○○○の法則(が正しい事を確認する)の実験をします。」といった視点から入るのではなくて、「試験管の中の空気を暖めたらどうなるのかについて何か法則性がみつからないかについて実験してみます。」という観点をもっと重視する、ということだと思います。
こちらの学校の理科の授業の背景にもこのような視点が隠されていると感じます。
「ボイルの法則を実験で確かめる」というようなことばっかりやっていると、事実を既知の法則性に押し込めて眺める癖がついてしまって、「これまで他人には見えていなかった部分をこそ自分は探し出してきた」というような視点に立って物を見ることができなくなってしまう。
「マードック先生の『日本歴史』」 夏目漱石
<以下引用>
必竟(ひっきょう)われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡(すべ)てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑(うたがい)の起る余地が天(てん)で起らないのである。丁度葉裏(はうら)に隠れる虫が、鳥の眼を晦(くら)ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着(とんじゃく)すべき所以(いわれ)がない。こう変色するのが当り前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。