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僕は、丸谷氏、江藤氏の文書を引いて、歌舞伎調、「どうだ、まいったか〜」
というような文章だと言いました。
別にいうと、マッチョ(macho たくましい、男っぽい)筋肉もりもり、
そういう感じを、このずいぶん違うはずの二人の文から共通して受け取ります。
しかし、ここに引いた詩、これは田村隆一の「十月の詩」という詩で
これは歌舞伎調ではありませんが、ある時、こういう詩さえが、若い詩の書き手に
やはりマッチョだ、と感じられたのです。
どこがか。
そこで言葉がモノであること。それがすでにしてマッチョだ、と感じる書き手、そう
感じる感受性が現れたのです。
( 略)
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』といえば、皆さんのうち何人かは
読んだことがあるのではないかと思いますが、そこで学校ををやめることにして
ニューヨークの町をさまよう主人公の少年が、最後、唯一尊敬する先生のところに
話をしにいくシーンがあります。この先生はこういうひねくれた何にでも反抗する
ような少年がこいつは悪くないと、おのうくらいの人ですから、なかなかしっかり
した人物で、少年の話を聞いて、僕はきみがおそろしい堕落のふちにいるよな気が
するんだ、と心から忠告し、最後、一つ、後になってからでもいいから、
この言葉を読んでみてくれるかといって、精神分析学者でウィルヘルム・
シュテーケルという人の言葉を紙に書いて渡すのです。
こういう言葉です。
未熟な人間の特徴は、理想のために高貴な詩を選ぼうとする点にある。
これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を
選ぼうとする点にある。
これはみなさんどう思うかわからないけれども、なかなか太刀打ちできがたい
叡智の言葉ですね。なるほどと思わせる洞察をもった言葉です。
ところで、この先生はぼそっとこの言葉をつぶやくんのじゃないのですね。
わざわざ紙に書いて、いつかちゃんと読んでくれよ、としっかり渡す。
つまり、「う〜ん、どうだ、参ったか〜」というように、この真理の言葉が
出てくるのです。
すると主人公の少年のホールディングはどうするか。
かれは、急に疲れが出ちゃった、とばかり、あくびをする。
ちゃらんぽらんにこれに受け答えするのです。
サリンジャーはこの真理の言葉に抗いたかったんじゃないでしょうかね。
それが僕の解釈です。
彼は、自分から見て一番という真理の言葉をもってきて、でも、やっぱり
真理を言葉で受け取るなんて、イヤだ、そんなの嘘だ、と言葉に案らない
抗いを小説で書きたかった、そこを、小説にしたかったのだと思います。
言葉と人の関係がしっかりと安定しているなかで、その外側に逃れていくものに、
むしろ希望がある、そう思って、この小説にこういうシーンを用意したというのが
僕の解釈なんです。
眠くなっちゃって、うとうとして、真理の間違いのなさから逃れる。大きな真理の
網から自分を雑魚の群れにして、かけらになってそこを逃れる。
そんな新しい生き方にむかう可能性を、この一対一の対応の崩れは、蔵しています。
皆さんのなかにはいろいろんなひとがいるはずですが、そういう場所でいま
言葉を書いているのだということを、忘れないで下さい。
今日は自分のなかのコワレに耳をすませること、そこに大事なものがあること、
決して負けてはいけないこと、そんな話をしました。
『文章表現法講義』(加藤典洋 岩波テキストブック)
どうもわたしの勘違いだったようだ。
「戦争屋は嫌いだ」さんはマッチョな言葉の代表選手だった!
訂正しておきます。