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議論板のまさちゃんが貼り付けたリンクをたどって見付けたんだけど、
なにげに面白い。多謝、まさちゃん。
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/139.html
宮台の文章
社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか
宮台院ゼミ本『21世紀の現実〜社会学の挑戦〜』あとがき より
【2ちゃんねる的に嫌われる「機能の言葉」】
■多くのアカデミシャンは、先に言及した東浩紀もそうだが、「真理の言葉」が「機能の言葉」に駆逐される現代的状況を、「機能の言葉」の実効性を認めつつも、全体性からの遠ざかりとして嘆く。だが見る所、カタルシスの不在が心理的な苛立ちをもたらしている。
■しかし問題はアカデミシャンに限られない。機能的前提や機能的波及効果に言及することで条件文化する──その意味で梯子外しを奨励する──「機能の言葉」は、日本の総合掲示板サイト「2ちゃんねる」のコミュニケーションが嫌われるのと同じ意味で嫌われる。
■このことが先の心理的な動機の内実を明らかにする。「真理の言葉」のカタルシスは、普遍妥当性要求の承認によって与えられる。しかるに普遍妥当性要求の承認蓋然性は社会的前提の共有如何に依存する。共有がなくなれば、普遍妥当性要求は梯子外しに晒される。
■「2ちゃんねる」的コミュニケーションの拡がりを、梯子を外したがるイジワルな奴が増えたのだと理解するのは片手落ちだ。むしろ社会構造の変化ゆえに、社会的文脈の分岐を無視した普遍妥当性要求が、弱者の不遜さとして見えるようになった今日の状況がある。
■むろん北田暁大が言うように、今日の「2ちゃんねる」こそが、全体性への──自分自身の文脈依存性への──配慮を欠いたまま梯子外しに戯れる、痛々しい弱者の共同体に見えるのは事実だ。としても、梯子外しを感情的に嫌うという形で問題に対処すべきでない。
■むしろ先に述べたような機能主義者が「機能の言葉」の自己適用を試みることに倣って、他者の梯子を外したがる自分自身の梯子への無頓着という「優位に立ちたがる弱者の痛々しさ」を克服、自己適用をも含めた梯子外しの徹底をこそ推奨しなければならないだろう。
■アドルノの「権威主義的パーソナリティ」論やフロムの「社会的不安」論が述べたように、優位に立ちたがるのは確かに弱者の心性かもしれない。真理や梯子外しによってカタルシスを得るのも同じだ。社会学的啓蒙は弱者のカタルシスを排し、全体性を志向する。