現在地 HOME > 掲示板 > 不安と不健康8 > 454.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 自分で嗅いでみるのが一番かも 再生医療 投稿者 寅蔵 日時 2004 年 5 月 05 日 12:09:56)
臓器移植にいろんな反応ありということで、とても参考になります。
なるほど、よく「ひとりひとりの世界が異なる」と言われますが、納得できそうです。
自分だけの真実というのがあるそうですが、たとえば、ひとつの事に関して似た様な世界を持っている者が多数の場合は「集合意識が創る世界」があたかも唯一のの真実だと思い込んでしまいます。
しかし、全人類すべてが一致した真実などはおそらく不可能なのでしょうか?
まさに正反対の真実を主張しあうわけです。
そこで、この臓器移植という行為に対して、理論的に心情的にいろいろな勝手な「真実」をくっつけて正当化しようとするわけです。
しかし、当然人によっての異なった真実というものがあるとすれば、反対の真実も存在するわけです。
ここまでは別にどうってことない、ごく日常でも当たり前のことでしょう。それに大小があるとしても。
ここから先がちょっと問題になるのです。
この臓器移植という行為はそれを真実と思っている人たちにとってはとても良い事です。そして「善意溢れる行為」だと思っています。さらに「科学的にもいま一番進歩した」ものとしているからでしょう。
ゆえに臓器移植手術とそれに臓器を提供することこそ、「自分にも他人にも良いことだと信じているのでしょう。
それに対して、まったく反対の真実を持っている人にとっては、この行為は非科学的であり、悪意あるとは思わなくても、それが無知から来る行為であり、とても同意できるものではないでしょう。
そこで、「臓器移植を希望する者はどうぞお勝手に」として、無理やり止めることもしない出来ました。しかし、自分たちの意思表示はしておきます。「私は臓器移植には同意しません」と。
これまで、別に問題はない様に見えました。
しかし、どうやら先は「臓器移植推進」という勢力が力をもって、まだ少数派である「臓器移植無用」者を従わせようとしている動きが出てきた事に問題があるのです。
しかも、どうやらうかうかしていると本人の同意も(もちろん脳障害で意思表示出来ない状況にあるとき)無しに、勝手に臓器を切り取られてしまう危険性が出てきたということです。
「あんたたち、そんなにしたいなら止めやしませんよ。しかし、私にはその影響を与えないでください。とても迷惑なのです。」
という穏健派に対して、法律をもって、しかも公明正大でない方法をもって、多数派の意志を少数派に押しつけようとしているからです。
しかも臓器移植を保険適用とすると医療保険の財源を食いつぶすほど高額な医療であり、この保険とて臓器移植反対派の人の供出金です。
ただでさえ、もうパンク寸前の医療保険の財源を大食いするほど費用がかかるものです。
さらに法律などで抑えつけることで、それに従わない者を「非国民」的な立場に追いやってしまいます。
そんな意志はないと言っても大衆は愚かなものです。
法律や多数派の医療情報を鵜呑みします。そしてそれに逆らう者を異端視してみるようになります。それが人の共通した愚かさでもあり、ながいものにはまかれろ式のショミンの知恵というか、一種の狡さなのかも知れません。
ご自分では真実探求など出来ないなどと言って他人の意見を待っている子羊で満足していてはもう時の多数派の言いなりで終わるでしょう。
しかしいつまでも多数派意見だけが真実だとするのが二〇世紀までの世界。
今後の二十一世紀からは、少数派が「けっしてあなた方の様に押しつけはしないが、私たちは自分たちの真実を守る自由を主張するだけです」という世界になります。その行為が今回の法案反対に集結したのだと思います。
ここで気づいて欲しいのは、「自分の真実を他人に強制的に押しつけない」ことなのです。いままでの医学界でも「少数派は強制的に排除された」歴史があります。
それが書籍「医療殺戮」という米国の医療事情からハッキリ分りました。
もし、日本がアメリカを医療先進国だと思ってマネをしようとしているなら、すでに同じ様な状況が出来ているでしょう。もしこれから採り入れようとするなら同じ経路をたどることでしょう。
「民衆は●化ばっかり」などと叫べと自分もその仲間でしたので大きな声では言えないのですが、思わず叫びたくなるのも本音です。ほんとによく騙されたものだと感心するほど、すっかり鵜飼いの鵜みたいに首にヒモを付けられて操られているのも知らず、タマに自分が飲み込んだ一匹の魚を与えられて随喜している・・・・笑い事でもないのですが。
そこで、いろんな意見情報がありますが、それが科学からだとか、宗教からだとか、権威ある所だからとか、素人の意見だからとか・・・・
こんな条件づけにはほとんど意味が無くなりつつあります。
私の場合は
ただ、一般に受けやすいという意味で医学関係者とか科学者たちの論を引用する方が得策だというだけのことです。
だから「素人だから」という発言は謙虚なへりくだりでいう意味ですので、逆に「玄人だから」良いとか悪いとかも無いのです。当然玄人の中にも同感するもの、同感できないものもありでまったく「立場の条件」など当てになりません。
ちょっとレスを読んで、「エホバの証人」で有名になった「輸血拒否」という事で思ったのですが、ほとんどの人は彼らが「輸血拒否」をするのは「信仰上の問題」であり、科学的根拠など無いものであると思い込んでいるのではないでしょうか。
この科学的根拠という言葉もちょっと意味不明な言葉で科学信仰を創り出す原因になっているかも知れないのですが、要は科学とは手段であって、事実として起こる事象を理論で解説して行くことでしかないような気がします。
もともとある事象に人がそれを発見し、それなりに解釈して行くという積み重ねでしょうか。
ところが「科学」が先にあって「事実」が他にある・・・となると科学信仰になって行くのでしょう。それを一番よく表現しているのが「医学」なのかも知れません。
皆が「医学」という学問を先に認め「事実」を後にしているのではないでしょうか?
で、輸血ですが、この血液についてもよく分っていない科学(医学)が輸血という「出血したから他人の血液で補充してやる」というすごく単純な行為でしかなく、その血液にしても単なる四種どころか詳細に分類すれば何十種類にもなると医学でも分っているものです。
しかしそんなに正確に分類していては使えないので、「まあ大別して似たような血液を補充すれば良いだろう」的でやっている様なものでしょう。(医師に怒られるでしょうが)これを科学などと胸はって言えないのでは?
世界では少数派ながらも、この輸血と非輸血という医療行為の実践の中から非輸血の方が結果が良いと発言した医療現場の実践医師も居るのです。
そして、その意見が少しづつでも医療界で認められてきているというのですから、これが宗教から来たものだろうが、科学からきたものだろうが、結果としてその方が良好だという事実が認識されるなら、それを選ぶのは自由な選択であり、その方が「科学的」と言えます。
もちろん、輸血を選ぶ方も自由選択として認めることも大切です。
お互いに「どうぞご自由に。それをしたからと言って貴方という人間を尊重しますよ」です。
それを少数派だからとか、自分にとっての「科学」に合わないからという理由で押し込めたり尊重しないというのは傲慢でしょう。
最後に「宗教」だからという方に、
実は宗教に入っている人は自覚しています。「私はこれを信仰している」と。
しかし、
「信仰しているのに、自覚がない人」は世界にはたくさん居ます。この日本では多い方でしょう。
その宗教こそ、信仰の自覚のない「現代医学教」である。しかもそれは科学性の乏しいものである。・・・・・・とは「医者が患者をだますとき」の著者ロバート・メンデルスン医学博士の論でした。
もう自分たちの独善的教義を他人に押しつける時代は終わりました。たとえそれが「善意」からだとしても。(善意なども自分のご都合が多くて当てにはならない)
賛成する人はまず自分で臓器移植を登録して意思表示をし、その人たちだけで臓器移植保険制度を独自に作ることですね。そうお奨めします。
貴重な税金や保険の財源を湯水の様に使って、そんな意志のない人の臓器まで当てにして利用する事は止めてください。多数派だけが正しいのなら、あなたがテロ行為の集団や強盗団の中では「団体の規律を破る悪人」とされるかも。
くれぐれも多数派が少数派に強制的に押しつけるのは止めましょうね。
これが私の臓器移植推進派が作ろうとしている法案とやらに反対する意思表示です。