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若田部昌澄『経済学者たちの闘い』東洋経済新報社
週刊東洋経済で「経済書ベスト・ワン」に選ばれたりして、経済ジャーナリズムでは好評らしいが、こんな本がベスト・ワンに選ばれる日本の経済書のレベルの低さと、こんな本をベストに推す日本の「エコノミスト」の知的水準の低さには、暗澹たる気分になる。主要な内容は、経済学の「古典」の解説だが、昔話がいきなり21世紀の日本経済に飛躍する。たとえばシュンペーターを論じているうちに、いつのまにか日本の構造改革は「しばき」だという話になり、ケインズの話は「やっぱりIS-LMは正しい」という話にすりかわり、どこかの銀行のアナリストと斉藤誠氏のような専門家を一緒くたにして「標準的な経済学」ではないとして否定するのである。
著者のような学説史家にとっては、何か「標準的」な経済学があるように見えているのかもしれないが、現代のマクロ経済学に標準的なモデルなどというものは存在しない。それがあるように見えるのは、著者の読んでいる学部レベルの教科書の中だけである。大学院レベルの有名な教科書である Blanchard-FischerにもRomerにも、IS-LMモデルなんて数ページしか出てこない。最近のIS-LMの輝かしい成果であるらしいクルーグマンの新「流動性の罠」理論は、実質期待利子率が負であるという結論を最初から仮定し、その期待が変われば均衡は変わると主張する同語反復である(期待がどうすれば変わるのかは、モデルでは何もいえない)。こういう6年前にウェブサイトに出た(学術誌にはアクセプトされなかった)駄文を素人が訳した本( http://cruel.org/books/krugman/ )が今ごろ出される日本の出版業界のレベルは、標準以下である。
おもしろいのは、著者が嘲笑する昔の俗流経済学者と、著者自身の姿が重なって見えることだ。いま経済学で起こっているパラダイム転換は、従来の経済学の対象としてきた「市場」の層よりも深い「制度」の層を学問的に分析することである。最近の(専門的な)教科書では、政策目標として重要なのは、短期的な(効果の疑わしい)「安定化」よりも長期的な成長率であるとされる。1990年代に大きく下方屈折したTFP(全要素生産性)( http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/foresight.html )を改善しない限り、安定化政策の効果も限られたものでしかない。長期的な成長率を左右する最大の要因は法制度であるという大規模な実証研究( http://www.nber.org/reporter/fall02/newEconomics.html )もあるが、著者はそういう最新の研究成果はおろか、ゲーム理論や契約理論などの基本的な分析用具も知らないらしい。経済学者は、こういう古い理論を絶対化する俗流といつも闘ってきたのである。
だいたい学説史というのは、根岸隆氏のような功なり名遂げた学者が道楽としてやる以外は、マル経( http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/noguchi.html )や数学のできない学生の逃げ込む分野である。物理学や数学の落ちこぼれが科学史をやるのと同じだ。現代の経済学で、数学がわからないのは文盲(最近は「非識字」というらしい)のようなものである。そういうディレッタントが「おれの読めないような論文は標準的ではない」といって、100年前の本を頼りに本職の経済学者を断罪するのは、科学史家が「アインシュタインは間違っていた!」とかいうトンデモ本を書くのと同じだ。それをベストに選ぶ日本のエコノミストは、よほど「識字率」が低いのだろう。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/wakatabe.html