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(回答先: 熟考した上のレスはのちほどに致します 投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 4 月 01 日 23:25:20)
ぷち熟女さん、どうもです。
不要な補足なのかもしれませんが、気になったので...
雑談版のやり取りを議論版に持ち込んだのは、「自己愛」がまっくさんとのやり取りや「長壁問題」ともかかわりがあると思ったからです。
そのような動機からそれを意識した部分もあり、恋愛談義の渦中にあるぷち熟女さんにわかりにくい面もあったのではと少々申し訳なく思っています。
まず、「手段であるセックスと目的である愛を比較することはできない」という結論部分ですが、パートナーの他の誰かとのセックスを許容すべきだとか、好き放題にセックスすることがいいと主張しているわけではありません。
(ましてや、私が他の誰かとセックスする自由に理屈を付けているわけでもありません(笑))
セックスは愛を感じる一つの手段であり、愛と比較することなんかできないものだと言いたいだけです。
ですから、パートナーが他の誰かとセックスすることが気に入らないのなら、「自己愛」に従って、そんなことをしたら縁切りだと通告すればいいと思っています。
男と女の関係における「不実」は、他の誰かとセックスすることなのか、それとも、他の誰かにたまらない思いを寄せること(セックスなしで)なのかという私たちの間に横たわる溝の別のアプローチだとお考えください。
いずれにしても、どちらがいいとか正しいとかではなく、各人が「自己愛」のベースである価値観や感覚に従って選択すればいいことだ思っています。
NUEさんがレスを付けてくれたのでわかりやすくなりましたが、善意・思い遣り・自己犠牲などは、「自己愛」を「他者への愛」にすりかえて“いい気”(自己満足=自己愛)にさせたりそうなったりする言葉で、それが高じると“危険”なものになると思っています。
(自己満足が他者への愛であると錯誤されることで生じる恐さはご理解いただけるのではと思っています)
そして、それは左翼や右翼という政治運動に限らないことで、学校教育制度に象徴される「近代」は、イデオロギー(観念体系)でひとを縛っていますから、誰もがそのような傾向を帯びています。
ヒューマニズム・慈善活動・ボランティア活動などといった“愛は地球を救う”的なものが他者への愛の表出や表現と教えられ、そう信じるひとも少なくはありません。
だからと言って、ヒューマニズム的価値判断や慈善活動的行為が悪いと主張しているわけではありません。
あくまでも、そのような価値判断や行為がどのような思いに基づいて行われているのかを問題にしています。
愛には「自己愛」しかないことがわかれば、ひとへの投げ掛けは喜捨しかないことがわかるはずです。ただ自分がそうしかったからそうした、その結果、受けた相手が幸福になるか不幸になるかはわからない、それでもそうせざるを得なかった、これが喜捨だと思っています。
(慈善は自己満足の物言いでしかありません)