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(回答先: 謝罪を求めているわけではなく対話を求めているだけです。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 3 月 31 日 16:17:17)
あしらさん、ご指摘ありがとうございます。
>今回のケースでは謝罪なんかなくとも、ちゃんとやり取りを継続したら、それで何も問題(遺恨)は残りません。
あっしらさんの度量に感じ入っております。
私のような小人はどうも心が狭くていつまでもひとつのことにこだわってしまっています。
あっしらさんのおっしゃる「対話」について、勉強になりました。
言うまでもなく掲示板においてもっとも必要な手段で、これがなければ掲示板は存続できないわけです。
長壁さんの場合は無意識のうちに(もちろん善意からだろうと信じていますが)、思い込みを主因とする虚偽の人物像(結果としておすなった、と信じたい)からすべて天下って批判に対処しよとしたのではないでしょうか。
すると、多くの人からそのような論法が誤っていることと対話にならないことを指摘されて徐々に追い詰められていった。つまり長壁さんの書き込み内容にとやかく言うのではなく、長壁さんの発言するスタンスについて「これでは対話にならない」という指摘を受けたわけです。
対話の相手に反感を持たせては、対話は成立しない。
誠実に進めていればこの誤りも早めに解決できたでしょうしもっと深いところで理解し合えたと思います。
最後までパレスチナ問題について内容的に議論するのではなく、それ以前のレベルで終始してしまった。
ところで長壁さんが今回よく使った「切り返し話法」というのは、時と場合によっては成功しますが、それはあくまで対話相手の誤解を解くあるいは相手に何かを気づかせるという文脈において説得力がると思います。
長壁さんの場合は、この話法を自分の弁護のために使ったので、私には「乗り切り」に映った。
この一点を改善してほしいと長壁さんにお願いしておきます。
あっしらさんの表題の言葉は私にとっては非常に重みがあるものです。
長壁さんもこの点をもう一度考えてみてください。
ま、このへんで季節柄話題を変えますが・・・
と言っても長壁さんに桜の花の一輪でも差し向けたくなりました。
私的な感性の話ですので押し付けになったらお詫びします。
昨日は昼から車でちょっと離れた城跡の桜を見に行ってきました。
久方の光のどけき春の日にしず心なく花の散るらん
周りの情景を連想するとやはり出かけたくなります。
季節感覚が自分の生活上なくなっていて、ふと気づくと気温も上がり春たけなわになっているんですね。
久しぶりに娑婆へ出たという感じでした。
秀吉が三木攻めをやるときの出城としたところですが石垣すら残っていないところです。
崖下にあたる部分から桜が数十本植えられていて、樹齢まだ30年くらいかなと思われる桜が植えられています。
五分咲きにならんとする開花状況でしたが、桜の下に居ると不思議な気分になります。
物心ついて以来、桜を見ると悲しくなる性分です。
晴れの気分になれないのです。
サラリーマンなら花見酒としゃれこむのでしょうが(私も宴会男でした。酒に弱いのでよく羽目おはずしては上司に叱られていました)、元来は一人になるのを好む性格ですから桜に対峙するとまるで座禅を組んでいるような気分になって落ち着きます。
世を拗ねているからこそそうなのかも知れません。
桜のように花々と散るというのも気分的に合いません。
うらうらと照れる春日にひばりあがり心悲しも一人し 思えば
家持の気持ちがわかるような気分ですね。
それでいて西行のように
願わくば花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
なんて思ったりします。
こういう、社会から孤絶したイデーはその持ち主である「私」の下部構造とそう離れているわけではないので、素直に共鳴してしまいます。
それにしても桜というのは不思議な木です。