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◆ 連載第十一回:制度とは何か?
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=88
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■連載の第十一回です。前回「二重の偶発性とは何か」をお話ししました。二重の偶発性
double contingencyについて、パーソンズ(彼の場合は「二重の条件依存性」と訳します)
とルーマンとでは、一部共通、一部異なる問題設定の下で、語られたことを紹介しました。
■共通の問題設定とは、社会秩序は如何にして可能か──自分も他人もどうとでも振舞い
うるのにもかかわらず社会秩序が存在するのは如何にしてか──というホッブズ以来の問
いに答えるための戦略的拠点として、double contingency問題を持ち出すところです。
■連載第八回の「合意モデル」を採用するパーソンズは、double contingencyを「第三者
から見て、花子さんの振舞いが太朗君次第、かつ太朗君の振舞いが花子さん次第」という
事態と捉え、連立方程式で言えば「解が発散しないこと」を、秩序の成立と等置しました。
■その上で、解が発散しないのは、価値合意による期待の相補性──医者が相手を看護婦
だと思い、かつ看護婦が相手を医者だと思う──のお陰で、看護婦が医者の予期に適合し
て振舞い、かつ医者が看護婦の予期に適合して振舞うことができるからだ、としました。
■「信頼モデル」のルーマンは、パーソンズの解決は価値合意による偶発性の消去だと批
判します。現実には医者のセクハラのような予期破りがいつあるかも分からない偶発性に
もかかわらず看護婦は職務を全うするわけで、それが可能な理由を問うべきだと言います。
■この観点から彼はdouble contingencyを、第三者視点でなく「私から見て偶発的な他者
の振舞いが私自身の偶発的な振舞いに不確定的に“依存”すると私が理解した状態」とし
ます。但しこの“依存”は私が現になした振舞いへの依存というより、予期への依存です。
■なぜならば、私が現になした振舞いは、私の反応に対する他者の予期を構成することで、
他者の行為を左右するからです。ゆえに「二重の偶発性」とは、要は「私の反応に対する
他者の予期が、他者の行為を左右すると、私が予期する状態」を意味することになります。
■ルーマンの「偶発性が消去されぬまま前に進む」のイメージは明らかです。私が命令し
たときの他者の反応が、従うか否か次第で私がどう偶発的に反応するかについての他者の
予期に偶発的に左右されることを、私が弁えているという意味で、「二重に偶発的」です。
■この「二重の偶発性」は消えることがない。消えはしませんが、私は一定の構えで前に
進めます。すなわち、従う蓋然性を高めるべく、私は「他者の予期」を予期しつつ、その
「他者の予期」を操縦しようとして、コミュニケーションの履歴を積み重ねていくのです。
■先の例で言えば、看護婦が医者がセクハラしないと確信するという「偶発性の消去」は
あり得ない。しかしセクハラするか否かは、看護婦がどう反応するかについての「医者の
予期」に左右されると看護婦は理解し、看護婦は医者に対する行動戦略を立てうるのです。
■あえて単純化するとルーマンは、私が他者がどう振舞うかにビクビクしないのは、価値
合意によって他者の振舞いが決まっているからでなく、他者の振舞い次第で私がどう振舞
うかについての「他者の予期」の操縦可能性に、私の注意が向いているからだと言います。
【制度は「他者の予期」を操縦する必要を免除する】
■ここで疑問が生じます。生まれた時に周囲に居る者たちと死ぬまで一緒にいるような流
動性の低い共同体なら、コミュニケーションの履歴を通じて「他者の行動次第で私がどう
振舞うか」を相手に思い知らせられます。私たちはそういう社会を生きているでしょうか。
■あり得ない。ファストフードでハンバーガーを買う場合、店員と私は互いに初対面。も
し猫の肉を出したなら私がどう振舞うかについて店員に思い知らせる──「店員の予期」
を操縦する──などという手順を踏むなどということは、(滅多に)ありません。なぜか。
■コミュニケーションの履歴を通じ、(1)「店員の予期」の操縦に実績を積み、(2)その「店
員の予期」の下で店員がどう振舞うかという傾きについて知識を得てきたなら、「二重の
偶発性」は消去されずとも、過去の趨勢の延長という「自明性」の下で「前に進め」ます。
■しかし、比較的流動性の低い原初的共同体ですら、他者を相手とする社会的行為の全て
を、コミュニケーションの履歴を通じて獲得された「自明性」によって支えることは困難
です。支えようとしても、「自明性」が破れた途端、人々はパニックに陷ってしまいます。
■そこに登場するのが「制度」です。そこで今回の主題「制度とは何か」です。「制度」
とは「任意の第三者の予期」について私が予期を抱いている状態のことです。「人は皆そ
う思う」と私が思っているような状態ということです。なぜそれが「制度」なのでしょう。
■例えば「警察制度がある」とはどういう状態でしょうか。「お巡りさんに訴えれば何と
かしてくれる」と私が思う状態? 否。それでは単なる思い込みです。そうでなく、「お
巡りさんに訴えれば何とかしてくれる」と皆が思うはずだと私が思う状態であるはずです。
■例えば仮にお巡りさんに訴えても何もしてくれなかったのなら、私は単に個人的に憤っ
たり納得したりするのではなく、皆の思い──任意の第三者の予期──を裏切る振舞いだ
として私は皆に訴え、社会的反応を惹起しようとして騷ぎまくれる。それが「制度」です。
■むろん「制度」もまた別の自明性です。しかし特定の相手とのコミュニケーションの履
歴が醸し出す、特定の相手に限定された自明性では、ありません。むしろ別次元の自明性
を樹立することで、元の自明性を免除する機能を果すのです。その様子を一瞥してみます。
■「お巡りさん」を「ファストフードの店員」に置き換えてみます。「店員が牛肉ハンバー
ガーを出してくれる」と私が思っているだけでは「制度」ではありません。「牛肉ハンバー
ガーを出してくれる」と皆が思っていると私が思う場合、私にとって「制度」が存在する。
■それが店員とのコミュニケーション履歴を免除するメカニズムは見やすい。私は圧力を
かけうる存在なのだとコミュニケーション履歴を通じて示さずとも、仮に猫肉を出したら、
(1)すぐに社会的反応を動員でき、(2)それを店員も弁えるはずだと、私が思えるからです。
■先に「二重の偶発性」についてこう言いました。私が他者がどう振舞うかとビクビクし
ないのは、価値合意によって他者の振舞いが決まっているからでなく、他者の振舞い次第
で私がどう振舞うかについての「他者の予期」の操縦可能性に、私の注意が向くからだと。
■それに即せば、「制度」──「任意の第三者の予期」への予期──の存在によって、他
者の振舞い次第で任意の第三者がどう振舞うかについての「他者の予期」を、自動的に当
てにできてしまうので、私は「他者の予期」をわざわざ操縦する必要を免除されるのです。
■加えて、営々と築き上げた個人的関係の自明性が支える予期が破られた場合とは異なり、
「制度」の自明性が支える予期が破られても──例えば皆の期待を無視して猫肉バーガー
を出した場合でも──、社会的支持を当てにできる分、パニックにならずに済むのです。
■セクハラの例で言えば、医者によるセクハラがあるかも知れないという偶発性にもかか
わらず看護婦が職務を全うするのは、単に関係の履歴を通じて「医者の予期」を操縦でき
るのみならず、「制度」の力で、予期外れに対する免疫を形成できることが大きいのです。
【制度による負担免除と免役形成が可能にする信頼】
■かくして「制度」とは、「二重の偶発性」にもかかわらず、(1)「前に進む」ときに必要
とされる「他者の予期」の操縦の手間暇を軽減する「負担免除メカニズム」であり、(2)私
の予期を破る振舞いを他者がした場合のパニックを軽減する「免疫形成メカニズム」です。
■ここでいう「制度」には、法制度や政治制度のように統治権力の正統性や物理的実力を
担保とするものもあれば、習俗や道徳のように慣習的伝統を背景とするものもあれば、仲
間内のルールのように面識圏の合意を背景とするものもあり、大きな外延を持っています。
■「二重の偶発性」問題を少し離れ、もっと広く「制度」の機能を考えてみましょう。そ
こでもやはり「負担免除メカニズム」と「免役形成メカニズム」が焦点になります。まず
は「任意の第三者の予期を私が予期可能であること」による「負担免除」を考えてみます。
■暮れにお歳暮を遣り取りするという企業社会のルールをとると、「お歳暮の遣り取りを
任意の第三者が予期すると私が予期する」という意味で制度に相当します。制度のお陰で、
私は「個別の相手がお歳暮を欲しがっているかどうか」を探索する必要を、免除されます。
■私に上司がいるとして“どんな部下も「上司にはお歳暮を贈るものだ」と思い、どんな
上司も「部下からのお歳暮を貰えるだろう」と思う”と私が思える場合、「上司は何を期
待しているだろう」とか「同僚は贈るのだろうか」などと気に懸ける必要が一切消えます。
■バレンタインやクリスマスも同じです。「プレゼントを期待する人も中にはいるよね」
程度の段階では、相手の予期を探索したり操縦したりすることがまだ必要ですが、「プレ
ゼントは皆が期待するよね」と言える状態になれば、探索と操縦の必要が免除されます。
■「他者の予期」の探索と操縦の必要がなくなるという「負担免除」に加え、もう一つの
「負担免除」があります。制度の下で予期外れが起こった場合、予期した自分(や相手)
が悪かったとはならず、予期を破った相手(や自分)が悪かったと帰属処理されるのです。
■交際を始めたばかりで互いに「相手の予期」の事前の探索や操縦が不十分なカップルが
いたとします。バレンタインに相手からの贈り物がなかった場合、贈り物を予期した自分
の不完全探索を自戒するより、予期を破った相手を「なんでだよ」と批判するはずです。
■そこでは、制度的予期──任意の第三者の予期と同じ内容の予期──をした自分ではな
く、制度的予期を破った相手にこそ説明責任があると私には理解され、かくして「実は別
に好きな人がいたので」云々といった相手からの弁明が引き出される次第となるわけです。
■かくして制度──任意の第三者の予期への私の予期──による「負担免除」に二種類あ
ります。第一に、制度があれば、個別相手の予期を志向せずに済むという「負担免除」。
第二に、制度があれば、制度的予期への違背を相手のせいにできるという「負担免除」。
■そして、この第二の側面が、違背に際するパニックを軽減する「免役形成」機能に結び
つきます。何事につけても人が制度を意識するときは、常に既に違背の可能性を先取りす
ると同時に、社会が「違背側」でなく「制度を当てにした側」につくことを予期できます。
■かくして、単純な社会の「信頼」は、面識圏でのコミュニケーションの履歴が与える「自
明性=慣れ親しみ」を基礎とするのに対し、複雑な社会の「信頼」は、違背可能性を先取
りした「分化した予期構造」を基礎とする、と連載第八回で述べた意味が明確になります。
■すなわち、複雑な社会になると、「信頼」は、知った相手とのコミュニケーションの履
歴を通じた自明性の形成から、よく知らない相手との履歴なきコミュニケーションを支援
する制度的予期(による「負担免除」と「免疫形成」)へと、置き換えられていきます。
■今日の複雑な社会で、私たちが知らない人と電車やエレベーターで乗り合わせ、知らな
い人の作ったランチを食堂で食べようと思う場合、相手とのコミュニケーションの履歴を
通じて「とんでもないこと」があり得ないという自明性を形成する暇はもはやありません。
■そのままであれば私たちは、知らない人と織りなす複雑な社会関係をベースにしたシス
テムを利用できません。ところがそこに制度が存在することで私たちは、知らない人たち
をかつてと別の意味で信頼し、一見無防備に見えるコミュニケーションに乗り出すのです。