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『「不自由」論ーー「何でも自己決定」の限界』より
仲正昌樹著、ちくま新書432、2003.9
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p40「こうした「同一性」の論理が、"自然と"圧倒的に強くなった
体制においては、人々は独自の判断を止めて、自発的に、つまり自
らの"自由意志"に基いて、「全体」の目的に「同調」するようにな
る。自分の利益を自分の責任で孤独に追究するよりも、(自分をそ
の一部として包んでくれる)「全体」の利益に合せた方が楽である。
このように、「個人の自由」と「体制への同調」がーー少なくとも
形のうえではーー両立するという意味で、「全体主義」は通常の独
裁体制とは異なるわけである。近代的な主体性を備えた人間にとっ
て最も本質的な価値である「自由」を自ら投げ捨てて、「全体」と
「同化」するように仕向けるからこそ、全体主義は危険なのであ
る。」
p41「多くのジャーナリスト・知識人たちは、数百万人のユダヤ人
を計画的に虐殺したアイヒマンを、「悪」の化身のようなものとし
てイメージしていた。ところが、実際に法廷に現われたアイヒマン
は、アーレントの目から見て、上からの命令を黙々とこなす、どこ
にでもいる平凡な役人でしかなった。・・・・・アーレントはむし
ろ、そういたアイヒマン的な平凡さ、個性のなさこそ、巨大な「悪」
を可能にしたのではないかと考えた。裏を返して言えば、平凡な我々
のほとんどすべてがアイヒマンになる可能性がある、ということだ。
「イェルサレムのアイヒマン」の副タイトルは「悪の陳腐さ」であ
る。
アイヒマンの分析を通して、アーレントが到達した「悪」の本質と
は、日常的な「陳腐さ」の中で、自分を考える能力を喪失していく
ことである。組織の中でルーティン的に決ったことをやるだけで、
他者に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを
怠っていれば、人は次第に「人間らしさ」、つまり他者の外的影響
から自由な志向を働かせられなくなる。そうなると、大いなる「全
体」へと同化する全体主義の罠に陥りやすくなる。いったん「全体」
へと同化してしまえば、自分(たち)以外の存在に対する関心がなく
なり、彼らが死のうと生きようと、どうでもよくなってしまう。・
・・・・・」
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