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なぜアメリカは、こんなにおかしいのだろう --- ブッシュ大統領を支えるキリスト教右派の正体
2004年3月6日 土曜日
ブッシュのアメリカが、どうしてこんなにわけの分からない行動に走るのか。人は、それをネオコン(新保守主義)のせいだという。じゃあ、力をもってねじ伏せてしまえ、というネオコンの政策を、どうしてアメリカ人が支持しているのだろう。私の知っているアメリカは、こんなバランスの崩れた、暴走ともいえる行動をとる国ではない。そんな疑問をずっと抱き続けている。
そして、その答は、表に現れているネオコン対中道の、政策論の文脈の中にあるのではなく、アメリカの底流に脈々と流れ、今政治の表舞台に出てくるに至ったキリスト教信仰にあるのではないか、と見当をつけている。これは、一回で結論を出したり、書き終えたりできるようなテーマではないので、断片的に書きつないでみたい。
そんなことを、私が書こうとするのは、私が、多少そういう問題に知見を持ち合わせている、と自負するからだ。日本の普通の言論人・知識人は、アメリカのキリスト教について、ほとんど知らない。また、それをまったく圏外において、アメリカ社会を論じることができると思っている。日本にも少数のキリスト教を知り、信じている人はいるが、彼らは、自分の教派以外のことはあまり知らない。まして批判的にアメリカの教会のことを語ることをしない。
私は、もともとキリスト教の牧師の家庭に育ち、乏しい経験だけれども、アメリカの原理主義ばりばりのキリスト教と、多少関わったというか、対決したことがあり、また、とどのつまり、キリスト教を批判して、キリスト者であることをやめた。だから、まあ、普通のレベルよりはキリスト教のことを知っている。
知っていながらキリスト者でない、ましてキリスト教批判者である、というのは、ひねくれていて、たちが悪いのだが、批判者として何かがいえる場合もある。そんなことから、このところ、アメリカの政治底流としてのキリスト教のことに関心を向け、いささか調べている。そこで、何かを書いてみよう、いうわけである。
私の「どうして?」で書きはじめたのだが、ほとんど同じ疑問と、それへの答を、ニューヨーク・タイムズのコラムニストであるクリストフ(Nichokas. D. Kristof)が書いている(3月7日、インターナショナル・トリビューン紙)。じつは、そこに書いてあることに、いささか呆れてしまったのが、ことの発端である。アメリカ人自身が、それも物知りのジャーナリストが、アメリカのキリスト教勢力の勃興に、突然気づいて、呆然としている風だからだ。『回心したキリスト教信者の影響が急増している』というタイトルの論説である。
アメリカの、特に北東部のジャーナリストは、南部の保守的なキリスト教のことなど、ちょっと小馬鹿にしている。進化論を否定して、悪魔の存在など信じている遅れた連中だと。学校での性教育に反対し、コンドームの使用に不快感を示す連中だ。そんなこと放っておいたら、エイズ患者は野放しで増えるし、だいたい連中の反対している中絶手術をせざるを得ないケースが増えると、気がつかないのだろうか、そう思っている。ニューヨークあたりの、エリートたちが集まるパーティーで、ある犯罪が問題になるとする。「それは、犯人の不幸な生い立ちが問題だね」といった会話のなかで、「いや、それはサタンの仕業です」などといおうものなら、みんなが白けてしまうことだろう。
ところが、アメリカ人のじつに68パーセントは、悪魔がいることを信じている、との統計がある。それに対して、進化論を信じている人は、28パーセント。神様が、聖書に書いてある通り、1週間で宇宙を創造した。われわれ人間はサルから進化したのではない。最初から特別な存在として、神様が創造したのだ、と信じている人の方が、はるかに多く、48パーセントもいる。そのことがブッシュの戦争に至る底流だと、クリストフは気がつき、われわれ北東部のジャーナリストは、そのことを忘れていた、無視していた、といっているのである。この無視されてきた保守的キリスト教は、福音的キリスト教とひとまとめにいわれる。「福音派」(エヴェンジェリカル)と、省略していわれることもある。
「福音的キリスト教」とは、何か。これは、とても答えにくい、しかし、最も核心的な質問である。キリストの福音(救いのおとずれ)を信じるのがキリスト教である、とすれば、全部のキリスト教が、そこに入ってしまうが、そうではない。キリスト教にいろいろな教派があるのはご存じであろう。日本の仏教に、浄土真宗、日蓮宗などと、宗派があるのと同じである。アメリカのキリスト教には、メソジストとか、バプテストをはじめ、多分、何十、あるいは何百という教派がある。そのどれが福音派か、そうでないか、ある程度分類できるのだが、そこらへんは、今の問題にあまり関わりない。
私は、福音的キリスト教とその信者を、二つの点で定義する。一つは、一人一人が霊的に覚醒した経験を持ち、キリストを信じ生まれ変わったと、自覚している人たち。その点を強調するキリスト者集団であること。生まれながらのキリスト教信者、家庭がそうだから習慣として毎日曜日教会に行く、その程度のキリスト教信者といえば、アメリカ人の86パーセントはそうなのだが、その人たちが、そのまま福音派ではない。大人になってから、キリストが直接自分に呼びかける声を聞き、そこでこれまでの生き方を変えて、神の福音のために生きていこう、という「生まれ変わり」を経験した。そう自覚する人たちが福音派キリスト者である。
その生まれ変わりの経験は、たとえば、エヴァンジェリストと呼ばれるカリスマ的説教者(一昔前はビリー・グラハムという人が代表的なエヴァンジェリストだった。今も何人か著名なカリスマがいるらしい)が開く大伝道集会で起きる。何千人という人を一堂に集め、魂を底から揺さぶるような説教をし、音楽が奏されるなかで、本当に悔い改めようとするものは、前に出てきなさい、というな呼びかけが行われる。
最初は、おずおずと一人二人、立ち上がるが、そのうちに、何百という人が、涙を流しながら、前に出ていって、信仰を告白する。そういう機会に福音派クリスチャンになっていく。先に挙げたクリストフの論説のタイトルを「回心したキリスト教信者・・・」と訳したが、その原題は「Born-again Christian・・・」である。「生まれなおした」とでもいおうか。この霊的経験を重視するのが、福音派である。
もう一つ、私が福音派の定義として採用したいのは、聖書をそのまま、神の言葉として受けいれる、ということである。そんなのはキリスト教として当たり前ではないか、というかもしれない。しかし聖書といえども、人が書いた歴史的文書である。イエスという人が生きて、力ある言葉を語り、多くの人を周辺に集めた。彼が死んだあと、その影響を受けた人たちが、だんだんと宗教集団を作っていき、イエスが語ったという言葉が記録されていく。
イエスの言葉は、こういう意味なのだ、と体系的な教義を説いた文書(例えばパウロの手紙)も書かれ、信徒の間に出回る。そういう歴史的な経過のなかで、いろいろな文書が残され、ある時期に、その一部が選別されて、正典とされた。それが「新約聖書」である。そのなかで、一番大事だとされる「福音書」、すなわちイエスの生涯と、彼が語った言葉を記録した文書が、4つ正典とされている。それぞれの文書の成立には、歴史的背景がある。本当のオリジナルは、どうやら失われ、それから2次的に書き直され、編纂されたのが、現在の福音書だともいわれている。互いに似ている部分もあるし、それぞれに異同もある。
ところが、このような歴史的背景を云々すること自体間違っているとし、聖書は、直接的な神の言葉である。神が、直接ある人に霊感を与えて書かせたものである。それはそのまま神の言葉なのだから、一言たりと間違いはない。そういう立場をとる人たちがいる。聖書霊感説(Verbal Inspiration)という。ファンダメンタリスト、キリスト教原理主義と呼ばれるのは、もともとこの一点をてこでも譲らない主義のことをいった。
こういう立場をとる人たちは、聖書の言葉を歴史的に批判することなど、とんでもない、と考える。そもそもそういう態度が、教会の、そしてキリスト教社会の堕落を生んだ、と考える。聖書には、この宇宙は、神が7日で創造したと書いてある。それをそのまま信じる。現在世界は、悪魔に支配されているから、この世の中には邪悪なものが充ち満ちている。しかし悪と闘い、福音を全世界にもたらすことが、世界を救う、と信じている。そして、やがてキリストが再びこの世に姿をあらわすこと(再臨)を信じている。
ファンダメンタリストは、いささか滑稽な側面もある。イエスが教えをのべたときに、楽器を使ったという記載が福音書にないから、教会の礼拝で、オルガンなどの楽器を一切使ってはいけない、ということにこだわる教派がある。聖餐式には葡萄酒ではなく、ブドウジュースでなければいけないとか、キリスト教信者になるための洗礼は、全身を頭まで水槽につける方式でないといけないとか、関係のないものにはいささか末梢的と思うことにこだわり、絶対に譲らない。
こういう福音派キリスト教は、政治的には保守であり、共和党支持である。かつては、アメリカでは、政教分離がはっきりしていて、政治と宗教とは直接結びつかなかった。しかし人工中絶の是非や、ホモセクシャル容認・フェミニスト運動などへの反発から、福音派キリスト教が、大同団結し、あからさまな政治活動をするようになってきた。その核となったのが、キリスト教徒連合(Christian Coalition)であるが、そのことは、またあらためて書こう。ブッシュが大統領選挙に勝ったのも、去年の中間選挙で、保守が予想以上に健闘したのも、この福音派=保守派キリスト教が、まとまった政治活動をしたからだといっていい。
ブッシュは、こういう人たちの側にいる。こういう人たちに支持されて、大統領になった。彼自身、大人になってから、神の存在とキリストの救いを、リアルに体験し、回心した人である。自分が、神の約束された聖なる国アメリカの大統領になり、世界の悪と闘うことが使命だ、と信じている人である。彼のスピーチに、しばしば、神とか、悪とかの言葉がでてくるのは、そのせいである。クリストフは「ブッシュがイラクに進攻し、中東をつくり直そうと決意したとき、メシア的幻想を抱いていたのではないか」と書いている。
今回はとりあえず、序論を書いたつもりである。アメリカの政治風土の、こういう側面を知り、現在のアメリカのやっていることを考えてみること。特に頑迷ともいうべき宗教的潮流が、アメリカ国内にとどまらず、世界の運命に影響を及ぼしはじめたこと。そこをしっかり理解することが大事だと思う。理解して何ができるか、といえば、政策論でなく、宗教問題だから、たちが悪い。ただ、アメリカには、こういう宗教的保守化と闘っている人々も多い。
ブッシュ政権内のパウエル国務長官とその周辺は、保守層からさんざん叩かれながら、国際協調を主張してがんばっている。アメリカのリベラル派も、宗教保守化の潮流と闘っているようだが、今のところ分が悪い。われわれは、現在のアメリカをひとまとめに非難するのでなく、アメリカの何が問題で、どこに良識ある人々がいるのかを、分けて考える必要がある。そして、その状況を見守り、連帯し、応援していく。そこまで考えないと、暴走するアメリカに歯止めをかけることができないのではないだろうか。
ブッシュのアメリカの底流に、福音派キリスト教信仰の大きな流れがあることを、最近ジャーナリズムもしきりに問題にしはじめたようだ。これをHPに載せる直前に見た朝日新聞(4月30日)にも「ブッシュと宗教」(「海外メディア深読み」というコラム)という題で、論説委員の高成田享氏が、ほぼ同じ方向で書いている。
【参考にした文献】 ・ 坪内隆彦: 「キリスト教原理主義のアメリカ」 (亜紀書房、1997)
・ ハロラン芙美子: 「アメリカ精神の源」(中公新書、1998)
・グレース・ハルセル: 「核戦争を待望する人々」(朝日選書、1989)
アメリカのキリスト教を考える アクエリアス氏のコラム
(私のコメント)
私は株式日記でアメリカのイラク攻撃が話題になり始めたころから、ブッシュとキリスト教右派の関係について書いてきました。テレビもようやくこの関係について報道する勇気が出てきたようだ。もしケリーがアメリカ大統領になったら、ブッシュと癒着したテレビメディアが批判されるから、保険の意味でブッシュとキリスト教右派の関係を暴き始めたのだ。
ブッシュ一筋に賭けて来た小泉首相もケリー候補の台頭でさぞかし慌てていることだろう。気の毒なのは親米保守ポチ派の御用PR屋さんたちである。早くからブッシュ再選間違いなしとゴマを摺り続けて来たから、今から予想をどのように修正していくか悩んでいることだろう。もちろん最終的にどちらが勝つかわからないが、ブッシュが選ばれればキリスト教右派の狂信的世界改造が進む恐ろしい事態になる。
私は当初からキリスト教福音派とはっきり示して書いてきた。アメリカでは3割もの信者数を誇る巨大宗教組織だ。だからこそ日本の御用PR屋さんたちは恐ろしくてキリスト教福音派とはっきり名を出すことが出来ないでいる。しかしアメリカのキリスト教に詳しい人から見れば福音派であることが分かる。彼らの正体が分からずして、どうしてブッシュ政権の政策が分かるというのだろう。
NHKの「クローズアップ現代」とNHK-BSで「ブッシュとキリスト教右派」の番組が放送されましたが、福音派の教会におけるミサの様子はまさしく、オーム真理教の様子とよく似ている。悪魔の存在を信じ、善悪の二元論で考える彼らの思想はブッシュの演説にもよく反映されている。彼らは今、オームがサリンをばら撒いたがごとく、イラクで劣化ウラン弾をばら撒いた。そのためにイランの子供達はその後遺症に苦しんでいる。
アメリカは共和党、民主党の二つに分かれているように、東北部と西海岸地区の人口の多い豊かな地域と、中西部と南部の過疎地域で貧しい地域に分かれている。福音派はこの貧しい地域が地盤でありそこから全土にテレビ伝道などで広がり始めている。民主党の地盤と共和党の地盤も同じように分布するのは、経済格差が原因だろうか。アクエリアス氏はアメリカ南部のキリスト教について次のように書いている。
《聖書を重んじるあまり、それ以外の人類の知的営みをまともに受け止めない。哲学も歴史学も拒否する。自分らに都合よく書き直されたキリスト教史と、良いとこ取りのアメリカ建国史だけが、彼らの歴史である、科学も拒否する、ダーウィンの進化論は、南部の学校では教えることができない。聖書以外の知的営みを拒否し、対話をすることなく、説教師の話を聞き、聖書を読むという世界に自閉する。そういう点で、聖書主義は反知性主義である。インテリは嫌われ、特に大学教授は悪魔の手先だとされる。
人間と世界を学ばず、先ほど書いた天国か地獄かの終末論だけに閉じこもるから、極端な善悪二元論に陥る。正義か悪か、救われるものか地獄行きか、黒か白かのどちらかであって、灰色の部分を許さない。一見正しいものにも問題があり、駄目なものも見所があり、救いようがある。人間には強いところも、弱いところもあり、そう単純にはいかない。そんな軟弱な考え方は、すでにサタンに誘惑された間違った考え方だと糾弾する。
このような聖書主義の問題性について、著者は一切触れることなく、むしろ世界中の思想的混乱と混迷を救えるのは、アメリカの聖書主義をおいてほかにないかのようにいう。
私は、アメリカの、特にバイブルベルトと呼ばれる南部特有のキリスト教は、世界のキリスト教の流れの中に取り残され、異常肥大した変種なのではないかと思う。》
(私のコメント)
このようなアメリカの反知性主義はまさにアメリカの「バカの壁」なのだろう。テレビで見ても信者達の目つきは一種独特で、何かに憑かれた様な信者達の態度はまさにカルト宗教だ。ブッシュ自身はそれほど酷くはないのだろうが、「バカの壁」に囲まれて動きが取れなくなっている。この「バカの壁」は本当にハルマゲドンを信じているから本当に怖い。彼らに核のボタンを預けるのは狂気の沙汰だ。アメリカ人は早くそのことに気付いてほしい。