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劇団SCOT「リア王」感想
http://kayaman55-hp.hp.infoseek.co.jp/ria01.html
(122行) 1993/2/14 藤沢湘南台市民シアター公演
塚原勝美
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三十代の男優たちと舞台の上で実際に取っ組み会いのけんかを
してみると分かるが、やはり男性の力は強く、体も大きく、向
き合うと恐怖心を感じるものである。手加減されるのは悔しい
が、本気でこられると死んでしまう。残念ながら女性の力は弱
いのだ。
渡辺えり子 (1993,02,17 東京新聞 芸能TY蘭)
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開演を待つあいだ私は劇場の構造を椅子に座りながらながめていた。私の席は舞
台中心から左対角線上に位置している。できれば前のほうに座りたかった。役者の
汗と息づかいをうけとめるのが私は好きなのである。そのほうがより幻想が増幅さ
れるからである。後ろを振り返ると、対角線右上に鈴木忠志が照明オペレーション
の前に座っていた。鈴木忠志はあえて観客席のはるか頭上にあるオペレーション・
ルームを使用せず、照明・音楽操作機器を観客席に持ち込んだのであろう。それは
どんなハイテク装置があらかじめ設定されている劇場であろうが、富山県利賀村の
合掌造りの劇場「利賀山房」仕様を、どこまでも貫くと言う体系にある。
日本の一般その画一化の市民社会はイデオロギーと言う言葉を嫌悪する。文化か
ら政治まで、イデオロギーとは鬼のイメージで悪者とされていく。しかし思想およ
びイデオロギーとは教条の代名詞ではない。それは方法意識と実践から出力された
蓄積による体系なのだ。コンピュータ言語に換言すればデーターを蓄積しながら、
ソウトウェアを構築する実践としての体系性を内包する言語世界と思考世界なので
ある。鈴木忠志は演劇言語のソフトウェアを構築してきた人間である。ゆえに場所
のこだわりはその演劇展開の中心軸となる。
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我々が、もし世阿弥に教えられるところがあるとするならば、どんな場でも、人
間的な事象に対する内省の徹底性さえあれば、人間の象徴的な在り方を鋭く射抜く
ということであろう。思想の恐ろしさとは、経験や学識の広さではなく、自分の
経験した事物が、何を言わんとしているかを徹底的にときあかす、その情熱の深浅
にある。そして、自分の経験の本質を追求することが、どれだけ他人や、他人の
行為まで及ぶ普遍性を獲得しているかだけが問題なのだ。
鈴木忠志演劇論集「内角の和」 而立書房
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男は初対面の男と対面するとき、まず彼はおのれにとって、敵となる存在か、味方
になる存在かを、会話あるいはその表情、しぐさによってリアルタイムで判断しなけ
ればならない。まずその緊張は女には理解できないであろう。男性社会とは男にと
って、競争闘争関係にあり、女はこうした男のやわらかな慰安対象であるのが、歴史
に私的所有と権力制度が誕生してから日常生活であった。すなわち男達の役者だけの
舞台は、ある緊張を圧縮し暴力的に放水するのである。劇団SCOTはこうした我々
の日常たる政治関係と言うものを表出したと思う。「リア王」は政治演劇であった。
政治とはなにも選挙や議会工作、党派闘争だけのことではない。私は政治には無感
心であります、とそれが大衆社会のある共通言語に同化し安心している男はすでに
多数者であるが、このセリフを吐く男こそ政治的人間なのである。実は彼は多数者と
市民社会の気分に自己を迎合することが、自己存在の安定につながることを、計算
する、おのれの身の安全をつねに状況から計算する動物的本能に規定された、政治
的人間なのである。市民社会とはつまり政治的人間の競争闘争社会なのである。
政治とは精神よりも肉体構造に存在し、下半身によって規定された日常である。
また政治とは肉体労働と言ってもよかろうと思う。よく女は政治の話しをすると、
なんか高度なお話ししていますのね。わたし、ついていけないー、アハッハ。と
言う。それは女の本能である快適なものを求める欲望が、なまぐさく肉体的なののを
意味嫌うからであろう。実は女こそ政治とは直感で、身体排泄器官の日常であること
を理解しているのだろう。おんなもやはり男以上に政治的人間なのである。こうして
おんなは家庭を清潔に浄化するごとく、男性権力社会のくそまみれになった政治議会
を快適にすべく登場してきた。
劇団SCOTが「リア王」の娘を男優たちが演じ、男の役者のみの舞台であったと
は、はっきりしている。政治と言う人間の動物としての身体に規定された、やっかい
な裸力としての暴力的日常を、むきだしにせんとした戦略であったからだ。やはり
女だけの舞台、男だけの舞台は暴力演劇となって都市に襲いかかるのである。不均衡
は緊張をもたらし、緊張は暴力を呼び寄せる。設定は精神病棟の内部における劇中劇
であったが、じつは舞台を眺めている観客こそ、新世界秩序と言う、いまや秩序が
解体された無秩序の精神構造に存在しているボーダーレスの表層にいきづいていた。
こうしてわれわれの都市は、あらかじめ失われた建築様式と、雨戸の透き間から
差し込んでくる朝の陽によって、目撃される。鈴木忠志の照明は役者の身体の位置
から、役者にあて、さらに、天井に釣られた格子戸を、あてることによって、なつ
かしい、庶民の日本建築様式の記憶を立ち上がらせる。
私はもはや失われた時となった、幼少のころ遊んだ農村の家屋を記憶に呼び出す。
厚い漆喰の壁の蔵に入ると、ひんやりとして真夏は気持ちがよかった。その窓から
陽が差し込んでくる。光線はいっそう闇をここちよくするのである。
親父が生まれた親戚の農家とその庭でよく私たちは、かけづりまわって遊んだ。
わらふき屋根のその建築家屋は100年の歳月をえてきていた。裏にまわると屋根
から、木が生えている。それが私には不思議でしかたがなかった。さらにその家には
牢座敷があったらしい。そこはみたことがなかったが、裏のある一角だけは内部から
は行けないのである。しかし外の裏にまわると、そこに内部の部屋があることがわか
る。「リア王」はこうした、もはや日本の農村には存在しないだろう、牢座敷の内部
に閉じこめられた物語を表出したのではないだろうか? 消却された牢座敷の代替え
として、制度としての近代精神病棟は存在しているのである。
劇団SCOT男優の身体のかまえは、私に鳶職人の身体を類型入力させた。
つまり武装せる身体であったのである。危険な労災事故といつも隣り合わせにある
建築労働者や危険な機械を操作する工場労働者の身体は、日常としての、気をゆる
せば確実に大ケガをすると言う、緊張した肉体労働である。そこに危険と精神が
格闘する武装せる身体が誕生する。SCOT男優の静止する演技は、激しい動きに
耐ええられる訓練による、空間美を体現できるのだろう。鳶職人の足のように。
さらに私が注目したのは、SCOT男優の額のひろい美しさである。それは彼ら
の情報装置がつねに作動していることなのだ。異質なものとの出合い、他者との
出合いは、情報装置が全面的に展開していく日常となる。安定した日本言説の額と
は、在る意味で位相の額かもしれないと直感した。彼らが立つ場所は、快適都市に
ずっぷりと浸りながら、退屈に滅んで行く「島」ではなく、異質な出合い、他者と
いかにコミュニケーションを成立させることが可能なのか?それとも不可能なのか
を問われる場所に立っていたのだろう。おのずからそこは緊張した世界と呼ばれる。
オリジナルティとはおのれとおのれたちの生成の原点と体系を生涯の名において
他者に投企していくことにある、と、私は最近教えられた。ゆえに舞台様式は、い
かなる劇場であり、利賀山房の空間が創造されていくのである。かつて鈴木忠志は
人間関係とは恐ろしいものである、と演劇論に書いていた。普遍・真理とは人間関
係をぬきにしたところ、つまり物神のごとく教条として存在しているのではない。
普遍とはやはり関係を成立させ、他者の身体空間に表出し、そのことによってのみ
獲得される内容であるのだろう。普遍・真理とは固定ではなく生成していくと。
鈴木忠志・寺山修司・太田省吾・佐藤信・唐十朗たちは演劇の方法意識を、言語と
格闘しながら、演劇の現場に生成している方法を記録し、模索してきた。それは
独自な演劇論へと展開されていく。すでに教条は内容なき死体だったのだろう。
演劇論が表出できぬ現場とは、おのれとおのれたちの経験を言語にできぬこと
にある。それはイデオロギーを鬼のごとく、あらかじめ排除しているからである。
イデオロギーは教条の代名詞ではない、戦略と方法を生成させる力だと言うこと
を、腹で感じとれぬものは、リアリズム反映論の下請けであった新劇のごとく、
おのれたちの現場に生成するソフトウェアを演劇論として出力できぬであろう。
ハードウェアは目に見える舞台装置・演劇技術の集約であるが、目にみえぬ舞台
の生成はやはり演劇論として言葉によって表出されるほかはない。
劇団は劇団との競争関係にあるが、批評者は批評者との競争関係にないのが、
朝日新聞の劇評である。かれらはいまでも客観的批評が通用すると妄想している
安定した教条のスターリン科学と真理の体現者なのであろう。そのような人々に
みえない舞台の生成と世界を発見してくれと、おねだりするのが、そもそも歪曲
の構造に敗北しているのだろう。
演劇を語る言葉が貧しくなった、と、言われている。演劇が快適に消費されて
いくシステムを突き破るためには、イデオロギーが鬼として登場するしかないと
私は妄想しているのだが・・・。演劇のソフトウェアはいったい何か?
劇団SCOT「リア王」の観客席に座っていた私は、もはや直感力を喪失した
動物的本能が欠落し、ずぶずぶと滅んでいく緊張感なき、たるんだローマ帝国の
市民であった。私の自己感受能力が摩滅していることを感じとった。それはすでに
身体が武装を解除して、ぶよぶよになっているからである。美に対する感動が欠落
しているのだろうか?私はやはり一番前に座り、役者たちの汗と言葉をはく唾を、
まのあたりに体験したかったのである。
1993,02,24